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PHOTO IS.... [少しまとまった文など]

芸術としての「写真」の位置づけは、絵画、彫刻などの他のファインアートと比べて
低く見られることがある。
とくに画家の中には、写真を馬鹿にする人も少なくなく、
日本最大の美術展「日展」ではいまだに写真部門がない。
世界的に見ても、映画が「第7の芸術」と言われるのに対して、写真に対する献辞はない。
私とて別にプロではないが、写真撮影をライフワークに決めた人間として、悔しい思いをしたことはある。

しかし、私の結論としては、「写真が芸術として認められなくても、何も問題はない」である。

芸術とは何かというのは非常にややこしい問題で突き詰めればキリがない。
しかしながら、ごく大雑把に言うと、多くの人(一般の人)に、「これは芸術だ」と思ってもらえるためには
主に次の2点の要素があるようだ。

1)製作にあたって、一般人には習得するのが難しい特殊な技術、また独創的な手法が用いられている
2)その作品の中に、何がしかの製作者の感情や意図が込められており、
その内容に他人の心に響く(共感、触発等)ものがある

このうち、写真が圧倒的に不利なのは、1)についてであろう。
なぜなら写真など「シャッターを押しさえすれば、誰でも撮れる」ものだからである。
もちろん、単なる記録として撮られた写真についてここで論じているわけではない。
しかし、構図やら絞りやら、何らかの表現意図を持って撮られた写真でさえも、
その手法自体は、つまるところシャッターを押すだけであり、すこぶる安易と言われても仕方がない。

芸術の本懐というのは当然1)よりも2)なわけであろうが、
私も含めて一般の人々が芸術に触れようとするとき、その最初の視点はどうしても1)にいってしまう。
美術館で絵や彫刻を見て、多くの人が得る感想は
「へぇ~」「さすがに凄いなあ」「こんなのよく描けた(作れた)なあ」といういわば「感心」である。
また、「俺はパリに旅行して生のルノアールを見た」とかいう有り難みを云々する。
その点、写真の場合は、結局は「シャッターを押しただけ」なのだから、感心もできないし、
印刷することで簡単に量産できるのだから、有り難みもない。
たとえ、一枚の写真を撮るのにどれだけの苦難があったにせよ、
それは出来上がった写真からはほとんど伺い知ることができない。
有名な写真家の作品でも、一見してどこが独創的なのかわからないもののほうが多かったりする。
だから、絵画や彫刻に比べて、写真など芸術ではない、とか、一段下だとか思われる。

しかし、私は、それでいいのではないかと思える。
なぜならば、だからこそ、写真は、芸術としての大儀さを取り払って、
純然とした表現体として見てもらえる、とも言えるからである。

先にふれたとおり、有名な絵画や彫刻を前にして、そこに何が表現されているかを感じ取ったり
製作者の魂に触れたりして共感や感動を得ることのできる人は、ごくわずかである。
仮に何かを感じ取ったとしても、「感心」や「有り難さ」が先に立つその影で、無意識下にとどまってしまう。
しかし、写真の場合はそうはいかない。
写真の場合、作品は技術的な構造体ではなく、裸のままの表現内容そのものなのである。
そこでは、見る人は、「すごいなあ」という単なる「感心」をもって、自分をごまかすことができない。
そこに人間の何が、世の中の何が写っており、そこからわが心は何を感じるか、ということしかない。

写真は2)しかないから、誰でも撮れるものだから、
絵画よりも彫刻よりも、表現手法として、より「裸」なのだ。
見るほうとしては、ややこしい予備知識や評論も必要なく、自由にそこから感じ取ればよいだけである。
そこでは、日々の生活でどれだけ感受性豊かに生きているかが純粋にモノをいう。
何も感じ取れなければ、見る人は何の言い訳もできず、
自らの感受性に懐疑を抱きながら立ち去るしかない。

話の視点を、撮るほうに変えよう。

先日、ある写真集を手にして感じ入った。
長年小学校の先生をした人が、教え子達を映した写真集である。
もちろん、プロの写真家ではない。技術的にも、私とほぼ変わらない素人レベルである。
しかし、ページを繰るごとに、温かいものが胸に込み上げてくる。
愛。子供への愛。人間への愛。生きとし生けるすべてのものへの愛と慈しみ。
こういう目をもった先生が、少なくとも一人、この世に存在したことへの畏敬と感謝。

たとえ技術的に優れていなくても、そのこころが、たった一枚の紙切れを通して、伝わっていく。
自分がとびきり愛してやまないもの。子供でも、ペットでもいい。それらへの愛を他人に伝えたい。
もちろん、伝えるためには、ただやみくもに撮ればよいというものではない。
どう撮れば伝わるのか、という表現活動の根っこの部分をめぐって、
さまざまな工夫や努力が必要だろう。
しかし、それはカメラ操作にまつわる技術的な問題とは根本的に異なる。
つまるところ、写真では、なんら特別な技術を持たない一個人が、
簡単に「表現」ということにチャレンジし、またこのように成功を収めることができるのだ。

あるいは、撮影者本人が特別に「表現」ということを意図していなかったとしても、
その写真を集めてみると、見る人になんらかの価値を与えるということも珍しくない。
先ほどの小学校の先生の写真だって、撮影された時には、
とくに表現などという大それたことは考えていなかったものと思われる。
近代写真の父と言われ今では神格化されているウジェーヌ・アジェも、
本人は画家になることに挫折し、まったくの記録写真のつもりで写真業に転じたといわれる。
しかし、その写真からは、その撮影者の視線、表層化されない感情の渦、
つまるところその人の人生哲学そのものが写真から透過して見え、
人を意外な発見や感動に導いたりする。
写真とは、意識にも感情にもならないその人の無意識をおのずと炙り出す、魔法の手法でもあるのだ。


世の中に顔を出している数多くの写真を前に、
こうした感性の交感、交歓が、毎日毎日、無数になされている。
「ふと街角で見かけた広告の写真に、目を奪われた」
「雑誌に載っていたある海の写真が気に入って、時々そこだけを見る」
「この写真集をそばに置いているだけで、なんか福が来る気がする」
日常生活の中で、多くの人がそんな経験を持っている。
そんなふうにして広がっていけるのは、写真だけだ。
写真が芸術かどうかに関係なく、写真は写真であり、すべての人にひとしく拓かれた表現手段。
安易で結構。
こんなに身近で、だからこそ無限で、こんなに素敵なものはほかにない。

ご大層に美術展なんかに飾ってもらわなくてもいいのである。

2009年3月



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