屋代線、最後の日 [鉄道撮影行]
長野電鉄屋代線は、2012年3月31日をもって廃線となった。
その日、多くの沿線住民が駅につめかけ、その最後の姿を見送った。
屋代線は、利用する人も少なく、地域から忘れられたかのような存在と聞いていた。
そのような路線の廃止に対して、沿線の方が高い関心を寄せるとは、とても思えない。
集まるのは、私のような鉄道マニアか、好事家の人々ぐらいのものかと思っていた。
しかし、それは全く間違っていた。
本稿では、松代駅を中心に、運行最終日の3月31日の様子、その最終列車の発車までを、
ダイジェストにてお伝えする。
3月に入ってから、休日の屋代線には多くの人が訪れ、乗車するようになった。鉄道マニア主体ではなく、子供連れ、家族連れの比率が非常に高かったように思う。親子のみならず、祖父、祖母が孫を連れて乗車するような姿が目立た。まだ学校にも行かない小さな子どもたちは、日常の中で電車など触れる機会がないのだろう。いつもは自家用車のハンドルを握るパパが、得意げに昔利用していた電車の乗り方を解説している。祖父、祖母は、「ここに電車が走っていたことを、孫にはちょっとでも覚えておいてもらいたくて」と話す。
2両編成の電車には久しぶりに立ち客が出、ほどよい込み具合となった電車が、千曲川に沿った早春の田畑をカタコト走っていく。「あの電車があんなに込んどるよ」と農作業の手を止めて立ちあがり微笑む沿線の人々の姿が、私には逆に新鮮であった。
3月中旬ごろから、利用者はますます増えた。家族連れだけでなく、文字通り老若男女問わず、沿線の人々がお名残り乗車をしにきた格好である。老夫婦、オバサン集団からヤンキー風の若者たちまで、本当にいろいろな人たちが、いろいろな表情をして乗りにきていた。みな、それぞれに懐かしい思い出があるようであった。「あそこのホームのはしっこの席が、クミコのいつも席だったよね~」「タケちゃんに初めて話しかけられたの電車ん中だった」・・・そういう会話が聞こえてくる。おりしも、車椅子にのった老婆が、家族と看護婦に付き添われて乗車してきた。老婆は、多くの人で賑わう車内に車椅子を向けさせ、まるで愛する家族を見守るかのように柔和な笑顔でそれを眺めていた。
3月後半は、2両連結のいつもの電車では乗車客をさばききれず、3両編成に増結されて運行されていたが、それでも混雑のため、休日になると電車は10分~15分も遅れて走っていた。
そうして迎えた31日、いよいよ最終運行日であったが、朝から雨が降り出すあいにくの空模様。気温も真冬なみに低く、外に出るのがおっくうになるような寒々とした日和である。
今日は、最終日ということもあって、屋代線には通常のダイヤに加え、上下1本の急行を含む記念臨時列車が上下4本、増発される。
早速、8時50分須坂発、松代ゆき臨時急行に乗車すべく、須坂に向かった。
このあと、松代駅11時5分発の臨客2402列車に乗車し、綿内駅まで移動した。
この電車は、綿内駅で40分ほど停車し、その間にセレモニーがあるという。
一番線で停車していた1000系は、16時11分発の臨時急行須坂ゆきとして松代を後に。
私はそれに乗車し、須坂から折り返して若穂駅で降りた。
このあと、20時台の人出は小康状態であったが、21時過ぎから、最終列車を見送ろうという地元の人が大挙して押し寄せてくる。
この頃、驚くべきことが起きた。駅前にある巨大スーパー「マツヤ」の広大な駐車場が満車のため入れないとなったというのだ。スーパーはまもなく22時で閉店である。そんなスーパーに見向きもせず、皆車を止めると駅にやってくる。近くの池田満寿夫美術館の駐車場も満車という。
みんな、22時19分発の屋代線の最終列車を見送りに駆けつけたのだ。
大人も子供も、厳しい寒さを耐えながら、じっと最終列車を待つ。
後ろで、小さい男の子が母親に尋ねている。「ねえ、なんで屋代線はなくなるの?」
母は答える。「私達が乗ってあげなかったからよ」
沿線の人々は、みんなどこかしら贖罪の気持ちで集まっているのかもしれないと思った。
ねじり鉢巻きのおやじさん達
「聞いたか、最終列車は4両だってさ。いつもは1両とかなのに。へへへ・・」
「これくらい普段から乗ってればなあ・・廃止にならなくて済んだんだがな・・・」
「乗りたくないわけじゃなかったんだが。。長野まで須坂回りで1時間っていわれちゃあなあ」
お母さん方
「どうして無くなるのかしら。。みんなで署名したのに・・・絶対おかしいわよ」
寒風吹きすさぶ中、じっと耐えている高齢の方々も多い。
なぜ、みんなそこまでして電車を見送るのか?
地域住民には、見捨てられた鉄道なのではなかったのか?
東京から興味本位で来た鉄道マニアの私には、感動的、かつ不思議な光景であった。
電車が通過する間、私はもみくちゃとなり、ろくな写真がとれなかった。
最終列車は、もう出てしまった。
なぜか皆、黙々と改札口に向かった。
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4月1日の朝。松代駅にもういちど行ってみた。
見た目には何も変わらない駅。
でも、もうあの電車は来ない。おそらく永遠に。
隣に、新しいピカピカのバスが待機している。
その日、多くの沿線住民が駅につめかけ、その最後の姿を見送った。
屋代線は、利用する人も少なく、地域から忘れられたかのような存在と聞いていた。
そのような路線の廃止に対して、沿線の方が高い関心を寄せるとは、とても思えない。
集まるのは、私のような鉄道マニアか、好事家の人々ぐらいのものかと思っていた。
しかし、それは全く間違っていた。
本稿では、松代駅を中心に、運行最終日の3月31日の様子、その最終列車の発車までを、
ダイジェストにてお伝えする。
3月に入ってから、休日の屋代線には多くの人が訪れ、乗車するようになった。鉄道マニア主体ではなく、子供連れ、家族連れの比率が非常に高かったように思う。親子のみならず、祖父、祖母が孫を連れて乗車するような姿が目立た。まだ学校にも行かない小さな子どもたちは、日常の中で電車など触れる機会がないのだろう。いつもは自家用車のハンドルを握るパパが、得意げに昔利用していた電車の乗り方を解説している。祖父、祖母は、「ここに電車が走っていたことを、孫にはちょっとでも覚えておいてもらいたくて」と話す。
2両編成の電車には久しぶりに立ち客が出、ほどよい込み具合となった電車が、千曲川に沿った早春の田畑をカタコト走っていく。「あの電車があんなに込んどるよ」と農作業の手を止めて立ちあがり微笑む沿線の人々の姿が、私には逆に新鮮であった。
3月中旬ごろから、利用者はますます増えた。家族連れだけでなく、文字通り老若男女問わず、沿線の人々がお名残り乗車をしにきた格好である。老夫婦、オバサン集団からヤンキー風の若者たちまで、本当にいろいろな人たちが、いろいろな表情をして乗りにきていた。みな、それぞれに懐かしい思い出があるようであった。「あそこのホームのはしっこの席が、クミコのいつも席だったよね~」「タケちゃんに初めて話しかけられたの電車ん中だった」・・・そういう会話が聞こえてくる。おりしも、車椅子にのった老婆が、家族と看護婦に付き添われて乗車してきた。老婆は、多くの人で賑わう車内に車椅子を向けさせ、まるで愛する家族を見守るかのように柔和な笑顔でそれを眺めていた。
3月後半は、2両連結のいつもの電車では乗車客をさばききれず、3両編成に増結されて運行されていたが、それでも混雑のため、休日になると電車は10分~15分も遅れて走っていた。
そうして迎えた31日、いよいよ最終運行日であったが、朝から雨が降り出すあいにくの空模様。気温も真冬なみに低く、外に出るのがおっくうになるような寒々とした日和である。
今日は、最終日ということもあって、屋代線には通常のダイヤに加え、上下1本の急行を含む記念臨時列車が上下4本、増発される。
早速、8時50分須坂発、松代ゆき臨時急行に乗車すべく、須坂に向かった。
須坂駅の案内表示。きちんと「急行 松代」と表示されている。
松代ゆき臨時急行、臨客2401X列車に充当されたのは1000系「ゆけむり」特急車であった。
須坂駅5番線にて。
須坂駅5番線にて。
1000系の展望席から見る前方風景。
車掌が「この電車は急行ゆけむり、松代ゆきです」と列車愛称つきで案内してくれたのに拍手
車掌が「この電車は急行ゆけむり、松代ゆきです」と列車愛称つきで案内してくれたのに拍手
臨時急行、松代駅9時13分着、一番線に入線した。
このあと16時11分に折り返し須坂ゆきとなるまでずっと一番線に停車。
おかげで、暖をとれて本当に助かった。
このあと16時11分に折り返し須坂ゆきとなるまでずっと一番線に停車。
おかげで、暖をとれて本当に助かった。
松代駅に入線する須坂ゆき408列車。定刻より3分遅れで9時28分ごろ。
9時半ごろの松代駅の様子。
雨の中、乗車券や記念切符を買い求める人たちですでにごったがえしていた。
雨の中、乗車券や記念切符を買い求める人たちですでにごったがえしていた。
屋代ゆき411列車は3両編成のL2が充当されていたが、
5分程度遅れて9時54分ごろ出発していった。
駅の周りのフェンス越しにも多くの人が列車を見に来ているのがわかる。
5分程度遅れて9時54分ごろ出発していった。
駅の周りのフェンス越しにも多くの人が列車を見に来ているのがわかる。
駅本屋には松代中学の生徒達が撮影した屋代線の写真が模造紙に張られ展示されていた。
四季ごとに分かれたなかなかの出来の作品で、多くの人が足を止めていた。
四季ごとに分かれたなかなかの出来の作品で、多くの人が足を止めていた。
駅舎両翼の屋根付きの部分で、午前から午後まで、ミニコンサートが行われた。
おじいちゃんたちのハモニカ合奏から子供達のコーラスや和太鼓まで、
雨の中大いに盛り上がった。
おじいちゃんたちのハモニカ合奏から子供達のコーラスや和太鼓まで、
雨の中大いに盛り上がった。
松代駅の3本のホームにすべて電車が停車している光景は貴重である。
須坂ゆき412列車(左)、屋代ゆき臨客2403列車(中)、停車中の1000系(右)。10時30分。
須坂ゆき412列車(左)、屋代ゆき臨客2403列車(中)、停車中の1000系(右)。10時30分。
このあと、松代駅11時5分発の臨客2402列車に乗車し、綿内駅まで移動した。
この電車は、綿内駅で40分ほど停車し、その間にセレモニーがあるという。
到着した綿内駅は、セレモニーイベントがあることもあって、松代以上の人だかりであった。
臨客2402列車の運転士(女性)と車掌に花束贈呈が行われた。
長野電鉄でただ一人の女性運転士、熊谷さん♪
13時48分の松代駅の様子。
10分遅れで松代駅に到着した須坂ゆき416列車。13時57分。
午後になって雨脚が強まり、みぞれまじりの凍てつく寒さ
午後になって雨脚が強まり、みぞれまじりの凍てつく寒さ
14時25分ごろの松代駅外観。いつしか雪となったが、午前中よりも列が伸びている。
14時53分の松代駅。須坂ゆき臨客2406列車(左)と屋代ゆき417列車(右)の交換。
15時40分の松代駅。ようやく雨があがった。
屋代ゆき419列車が16時4分、7分遅れで発車していった。
一番線で停車していた1000系は、16時11分発の臨時急行須坂ゆきとして松代を後に。
私はそれに乗車し、須坂から折り返して若穂駅で降りた。
若穂駅にて。須坂ゆき420列車。16時57分ごろ。
若穂17時47分発の屋代ゆき423列車にて松代に戻った。18時7分ごろの松代駅。
ホームの人は少し少なくなった気がする。
ホームの人は少し少なくなった気がする。
18時10分ごろ。
駅に集まる人の数は、また少し増えてきたような気がする。
駅に集まる人の数は、また少し増えてきたような気がする。
長野のローカルTV3局はいずれもほぼ一日いて、取材合戦を繰り広げた。
写真は信州放送?の有名アナウンサーが駅に集まった学生達に対して「屋代線好きかー?」
と聞いているところ。みんなで予定調和のように「だいすき~」と答えている。
写真は信州放送?の有名アナウンサーが駅に集まった学生達に対して「屋代線好きかー?」
と聞いているところ。みんなで予定調和のように「だいすき~」と答えている。
須坂ゆき424列車と屋代ゆき425列車の交換。18時45分ごろ。
このくらいの時間帯には、だいぶ乗車客も落ち着き、両列車とも3分程度の遅れであった。
このくらいの時間帯には、だいぶ乗車客も落ち着き、両列車とも3分程度の遅れであった。
18時55分頃の松代駅。
地元の人が続々と記念切符を買いに、または何をするわけでもなく、駅に来る。
地元の人が続々と記念切符を買いに、または何をするわけでもなく、駅に来る。
19時44分、須坂ゆき426列車が3分遅れで到着。
19時46分、屋代ゆき427列車も3分遅れで到着。
お婆さん、娘さん、小さな子供。それぞれの想い。
お婆さん、娘さん、小さな子供。それぞれの想い。
このあと、20時台の人出は小康状態であったが、21時過ぎから、最終列車を見送ろうという地元の人が大挙して押し寄せてくる。
21時41分、この日最後の団体臨時列車が、やはりこの日引退となる2000系電車で到着。
2000系の団体臨時列車の運転は一般の方には殆ど知らされていないため、
この列車の撮影のためにホームに集結したのはその多くが趣味人であろうと思われる。
この列車の撮影のためにホームに集結したのはその多くが趣味人であろうと思われる。
この頃、驚くべきことが起きた。駅前にある巨大スーパー「マツヤ」の広大な駐車場が満車のため入れないとなったというのだ。スーパーはまもなく22時で閉店である。そんなスーパーに見向きもせず、皆車を止めると駅にやってくる。近くの池田満寿夫美術館の駐車場も満車という。
みんな、22時19分発の屋代線の最終列車を見送りに駆けつけたのだ。
気がつけば、駅はこんな人だかりになっていた。21時46分ごろ。
須坂ゆき430列車が10分遅れで到着、発車。
駅本屋側の3番線から出発する最後の定期列車となった。
駅本屋側の3番線から出発する最後の定期列車となった。
暗くてよくわからないが、ホーム上が人で埋め尽くされているのが見えるだろうか。
夜22時の松代駅。信じられない光景である。
いつもは夜20時を過ぎればもう人の影など見当たらない静かな田舎町の松代で、
いったいどこからこれだけの人が集まって来るのだろう。
いつもは夜20時を過ぎればもう人の影など見当たらない静かな田舎町の松代で、
いったいどこからこれだけの人が集まって来るのだろう。
22時10分ごろ。人はますます増えてくる。駅の中だけでなく、外の道や駐車場も鈴なりである。
本来であれば折り返し最終列車の須坂ゆきとなる松代止まり431列車が到着する時間だが
本来であれば折り返し最終列車の須坂ゆきとなる松代止まり431列車が到着する時間だが
須坂方面を臨む。線路沿いのフェンスにもずっと鈴なりの人が続いている
22時17分ごろ。431 列車は16分遅れであること、また4両編成であることがアナウンスされ
その瞬間、駅周辺が不思議などよめきに包まれた。
22時17分ごろ。431 列車は16分遅れであること、また4両編成であることがアナウンスされ
その瞬間、駅周辺が不思議などよめきに包まれた。
気温は氷点下まで下がり、耐えがたい寒さだが、誰一人帰る人なく、人は増え続ける。
22時20分ごろ。
22時20分ごろ。
大人も子供も、厳しい寒さを耐えながら、じっと最終列車を待つ。
後ろで、小さい男の子が母親に尋ねている。「ねえ、なんで屋代線はなくなるの?」
母は答える。「私達が乗ってあげなかったからよ」
沿線の人々は、みんなどこかしら贖罪の気持ちで集まっているのかもしれないと思った。
ねじり鉢巻きのおやじさん達
「聞いたか、最終列車は4両だってさ。いつもは1両とかなのに。へへへ・・」
「これくらい普段から乗ってればなあ・・廃止にならなくて済んだんだがな・・・」
「乗りたくないわけじゃなかったんだが。。長野まで須坂回りで1時間っていわれちゃあなあ」
お母さん方
「どうして無くなるのかしら。。みんなで署名したのに・・・絶対おかしいわよ」
寒風吹きすさぶ中、じっと耐えている高齢の方々も多い。
なぜ、みんなそこまでして電車を見送るのか?
地域住民には、見捨てられた鉄道なのではなかったのか?
東京から興味本位で来た鉄道マニアの私には、感動的、かつ不思議な光景であった。
22時27分、ついに松代折り返しの431列車が17分遅れで到着、一番線に入線した。
正面からじっと電車を見つめるニット帽の老人。
松代駅ホームでの最後のセレモニーを終え、
いよいよ松代駅発の最終列車となる432列車が発車する。
いよいよ松代駅発の最終列車となる432列車が発車する。
22時45分、最終列車となる須坂ゆき432列車は、
警笛を鳴らし、26分遅れでゆっくりと発車した。
口々に「ありがとう」「さよならあ」と声があがり、拍手が起こった。
警笛を鳴らし、26分遅れでゆっくりと発車した。
口々に「ありがとう」「さよならあ」と声があがり、拍手が起こった。
電車が通過する間、私はもみくちゃとなり、ろくな写真がとれなかった。
さよなら、電車。。。
最終列車は、もう出てしまった。
なぜか皆、黙々と改札口に向かった。
最終列車が出た後の松代駅前。
最終電車が出ても、名残りをおしむように松代駅を眺め、なかなか帰らない人々の姿。
美しい月が出ていた。22時51分ごろ。
最終電車が出ても、名残りをおしむように松代駅を眺め、なかなか帰らない人々の姿。
美しい月が出ていた。22時51分ごろ。
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4月1日の朝。松代駅にもういちど行ってみた。
見た目には何も変わらない駅。
でも、もうあの電車は来ない。おそらく永遠に。
隣に、新しいピカピカのバスが待機している。
撮影 2012年3月
本文 2012年4月
本文 2012年4月
2012-04-11 07:18
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