下津井 2012 [日本の町散歩(中国・四国)]
下津井は、歴史ある瀬戸内の港町である。古代奈良時代からすでに風待ちの湊として賑わっていたらしい。江戸時代以降は、四国への船が発着する玄関口でもあったし、北前船の中継地に指定され、問屋や遊郭等が並び町はますます賑わったらしい。明治以降も、下津井の重要性は変わらなかった。この下津井から四国の丸亀へ向かうフェリーは重宝され、その連絡のために、岡山方面からこの下津井へ、鉄道も敷かれた。
いま、この歴史ある下津井の町を歩く人は、ごくわずかである。長い歴史を持った丸亀航路は消え、岡山方面とを結んでいた下津井電鉄も、とっくの昔に廃線となった。町は、往時の街並みそのままに、瀬戸内の明るい日差しに照らされ、うつうつと眠るように今もそこに横たわっている。
真上を、瀬戸大橋を渡るトラックやJR瀬戸大橋線の快速電車が、ひっきりなしに通ってゆく。
下津井地区に続いてすぐ東にある吹上地区に入る。
下津井の町は、西から下津井、吹上、田の浦という隣接した三つの地区からなる。
かつてはそれぞれが独立した集落であり、賑わいを競ったという。
現在でも、三地区はそれぞれ別の漁港を持っている。
続いて、田の浦地区へ入る。
■下津井電鉄の廃線跡「風の道」を歩く■
下津井電鉄は、1913年に開業。当時、岡山から国鉄宇野線が敷かれ、その終点宇野と高松を結ぶ連絡船ができたことから、古くからの丸亀航路を持つ下津井も、負けじと独自に鉄道を敷いたのだという。しかし、国鉄相手に形勢は良くなく、四国への連絡はいつしか宇高ルートがメインに。四国への玄関ルートとなれなかった下津井電鉄は、1972年に岡山方面の3分の2にあたる茶屋町―児島間の路線を廃止。その後も、残った児島―下津井間の6.3kmは、下津井の地元住民の足として電車が走り続けていたが、時代の波とともに乗客は減り続け、瀬戸大橋が開通した2年後の1990年、その残った路線も廃止となった。
いま、その廃線跡は、「風の道」という名のサイクリングロードとなっている。
今回は、1990年まで電車が走っていた児島から、自転車でこの道をたどり、下津井を目指した。
いま、この歴史ある下津井の町を歩く人は、ごくわずかである。長い歴史を持った丸亀航路は消え、岡山方面とを結んでいた下津井電鉄も、とっくの昔に廃線となった。町は、往時の街並みそのままに、瀬戸内の明るい日差しに照らされ、うつうつと眠るように今もそこに横たわっている。
真上を、瀬戸大橋を渡るトラックやJR瀬戸大橋線の快速電車が、ひっきりなしに通ってゆく。
下津井地区
下津井電鉄の旧下津井駅前。
1990年に廃線となって、駅も商店ももうないが、どことなく駅前という感じがする。
また、数両の車両が現在も構内にそのまま置かれ、駅ホームも保存されている。
1990年に廃線となって、駅も商店ももうないが、どことなく駅前という感じがする。
また、数両の車両が現在も構内にそのまま置かれ、駅ホームも保存されている。
かつて四国へのフェリーも出ていた下津井港。
フェリーは消えたが、伝統の下津井タコ漁で今も漁港は健在。
フェリーは消えたが、伝統の下津井タコ漁で今も漁港は健在。
瀬戸大橋開通時に、沿岸の道路は修復、整備された。
町のメインストリートには、古い家並みが続く。
下津井地区に続いてすぐ東にある吹上地区に入る。
下津井の町は、西から下津井、吹上、田の浦という隣接した三つの地区からなる。
かつてはそれぞれが独立した集落であり、賑わいを競ったという。
現在でも、三地区はそれぞれ別の漁港を持っている。
吹上地区には、現在でも中国銀行下津井支店があり、
どことなく町の中枢という感じがする。
どことなく町の中枢という感じがする。
続いて、田の浦地区へ入る。
真上を通っているのが瀬戸大橋である。
田の浦には、小規模だが商店街がある。
■下津井電鉄の廃線跡「風の道」を歩く■
下津井電鉄は、1913年に開業。当時、岡山から国鉄宇野線が敷かれ、その終点宇野と高松を結ぶ連絡船ができたことから、古くからの丸亀航路を持つ下津井も、負けじと独自に鉄道を敷いたのだという。しかし、国鉄相手に形勢は良くなく、四国への連絡はいつしか宇高ルートがメインに。四国への玄関ルートとなれなかった下津井電鉄は、1972年に岡山方面の3分の2にあたる茶屋町―児島間の路線を廃止。その後も、残った児島―下津井間の6.3kmは、下津井の地元住民の足として電車が走り続けていたが、時代の波とともに乗客は減り続け、瀬戸大橋が開通した2年後の1990年、その残った路線も廃止となった。
いま、その廃線跡は、「風の道」という名のサイクリングロードとなっている。
今回は、1990年まで電車が走っていた児島から、自転車でこの道をたどり、下津井を目指した。
下津井電鉄の旧児島駅前。
今も銀行や郵便局、ロータリーもあり、交差点名も「児島駅前」のまま。
廃線から20年以上たつが、かつて駅前だったことが容易に分かる。
今も銀行や郵便局、ロータリーもあり、交差点名も「児島駅前」のまま。
廃線から20年以上たつが、かつて駅前だったことが容易に分かる。
児島駅は、廃線となって20年以上がたつとは思えないほど
現役当時のままに整備され残されている。
現役当時のままに整備され残されている。
さあ、児島駅を下津井方面に向かって出発!
柵でかこってある部分が線路跡。ここは踏切だったのだろう。
今にも電車が走ってきそう。
今にも電車が走ってきそう。
児島駅を出て最初の駅、備前赤崎駅の跡。周囲の人家が少なく、うらさびしい場所であった。
なぜもっと人家や商店の多いところに駅をつくらなかったのか。
なぜもっと人家や商店の多いところに駅をつくらなかったのか。
次の駅、阿津駅の跡。周辺は住宅地。
阿津駅を過ぎると上り勾配となる。
1988年に開通したJR瀬戸大橋線をくぐるようにして風の道は続く。
この瀬戸大橋線の開業が、最後の打撃となって、下津井電鉄は消えた。
この瀬戸大橋線の開業が、最後の打撃となって、下津井電鉄は消えた。
まだまだ登る。
山の中腹に突然現れる琴海駅の跡。
琴海駅の利用者は、海沿いの村々から汗をかきかき登ってきたことだろう。
琴海駅を過ぎてもまだ緩やかな上り坂が続き、木立の中を走る。
電車が健在だったころ、下津井電鉄の撮影地として最も知られていた場所。
鷲羽山駅のホームを下津井方から見たところ。
この写真の右側に瀬戸内随一の絶景の地、鷲羽山の登山ルートがあり、
駅はその玄関口だった。
この写真の右側に瀬戸内随一の絶景の地、鷲羽山の登山ルートがあり、
駅はその玄関口だった。
鷲羽山駅―東下津井駅間。中央左のこんもりした山が鷲羽山。
彼方に見えるのはもちろん瀬戸大橋。
彼方に見えるのはもちろん瀬戸大橋。
東下津井駅の跡。ホームが残る。
下津井でも吹上地区や田の浦地区からは、下津井駅へ出るよりも
この東下津井駅へ登ってくるほうが、大変ではあるが近かった。
下津井でも吹上地区や田の浦地区からは、下津井駅へ出るよりも
この東下津井駅へ登ってくるほうが、大変ではあるが近かった。
下津井へ向かって今度はどんどん下ってゆく。
下津井の大カーブとして有名だった曲線。
下りきったところで急に視界が開けたら、そこが下津井駅の跡。
敷地の片隅で、今も眠る電車たち。
この電車たちに、もう出番が来ることはない。
この電車たちに、もう出番が来ることはない。
廃線になったことが、まるで夢のよう。
撮影 2012年8月
本文 2013年1月
本文 2013年1月
2013-01-24 09:53
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