銚子(外川) 2014 [日本の町散歩(関東)]
銚子は関東地方、房総半島の最東端に位置し、利根川の河口にも面した言わずと知れた全国屈指の漁業の町である。だが、漁業の町として急速に発展を遂げるのは近代以降のことであり、もともとは飯沼観音を中心に、その門前町として発展してきたのだという。
その銚子の市街地から犬吠崎をかすめながらトコトコ走る銚子電鉄の電車に揺られること、20分。広く太平洋に面した高台にある「とかわ」というその終着駅が、今回の目的地である。海に向かって斜面を下りてゆくと、都市化、近代化した銚子の町とは異なる、何ともいい雰囲気の小さな漁師町がそこに広がっていた。
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外川駅に到着。
外川駅は、大正12年の創設以来の変わらぬ木造駅舎がそのまま残っていて、なんともレトロな味わいがある。数年前までは45分おきに電車がやってきたが、いまは60~90分間隔と、やや寂しい。
さて、駅から降りたままに歩きだせば、そこはもう外川の町である。
外川は現在は銚子市に組み入れられているが、もとは江戸時代、紀州からやってきた人々が開いた漁村であり、銚子とは異なる出自と雰囲気を持っている。その開祖である崎山治郎右衛門は、海に向かった斜面を碁盤の目に区切り、この地方にはない、さながら都のような整然とした街並みを作り上げた。かつては道筋ひとつひとつに名前が付けられていたという。
歴史的な家並みが多く残っているというわけではなく、新しい家も多いが、町全体がのんびりしたムードにつつまれているのは間違いない。
格子状に編まれた路地を気の向くままにたどりながら、斜面を下りたり上ったりする。斜面の道路は一部、デコボコのコンクリート舗装となっていて、石畳というほどではないが、アスファルトより雰囲気があるのは確かだ。
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<<銚子市街地(銚子電鉄の旅)>>
これまで銚子の先っぽにある外川の町を見てきたが、この後は、飯沼観音を中心に形作られ、いまでは日本屈指の漁業基地に発展した銚子そのものの街並みについても見て行きたい。
そのお伴になるのは、やはりJR銚子駅から市街地の中を縫って走る銚子電鉄の電車である。
この銚子電鉄、ご存じの方も多いと思うが、数十年前から赤字続きで、何度も存続の危機に立たされている鉄道なのである。
古い電車ばかりで、部品一つ修理するにも余計なお金がかかるのだが、お客はマイカーにとられて減る一方。そんな中、1970年代には競合するバス会社に会社を乗っ取られて、わざと廃線に持ってゆくようなやり方をされたり、90年代には地元の工務店が経営に加わってくれるようになったが、そこから来た社長が会社の資金を持ち逃げしてしまったり、という具合で、環境にもめぐまれず、苦難の連続であった。
そんな中、銚子名物の醬油を生かした濡れ煎餅を独自に企画、製造販売することで赤字を穴埋めし、なんとか苦しい台所をやりくりしてきた銚子電鉄だったが、2006年には電車の車検を通す為のお金が底をつき、ついに運行停止かという事態にまでなった。そのとき、社員の一人が、自社のホームページに恥をしのんで「濡れ煎餅を買ってください!! 電車修理代を稼がなくちゃ、いけないんです」と赤裸々な一言を掲載し、それをきっかけに全国から濡れ煎餅の注文が目を疑うばかりに殺到、その販売利益で間一髪、期限ぎりぎりのところで車検を通すことができたという話は有名だ。
だが銚子電鉄の苦境はこれで終わらない。2009年、ボロ車両ばかりだった銚子電鉄は会社の命運をかけて他の私鉄から新車両を2編成、譲ってもらったのだが、その頼みの綱の新車両のうち1編成が、2014年1月、まさかの脱線事故を起こして走れなくなったのだ。修理をするお金はなく、2編成のうち1編成しか走れないのでは運行じたいが行き詰まってしまう。こんどこそダメかと思われたが、今度はなんと、沿線の銚子商業高校の生徒たちが奮起。インターネットで全国から募金を募った。この活動はTVや新聞などでも取り上げられ、全国から数百万が寄せられた。これらを高校生たちは全額、修理代に充ててもらうべく電鉄に寄付したのである。おかげで脱線した車両は2015年4月、運転に復帰している。
こうして、もはや廃線かと思われたその度に、奇跡にように命をつないで生き延びてきた、そんな銚子電鉄であるが、いま、観光ガイド本を見れば見開きで紹介されているし、「トリップアドバイザー」で銚子市の観光スポットを検索すると、犬吠埼灯台や観光用の魚市場「ウォッセ」、「地球の丸く見える丘公園」等を差し置いてその人気第一位に銚子電鉄が出てくる。いまや銚子電鉄は銚子市にとって無くてはならない観光資源なのである。
地元の人の利用が冷え込んでいる以上、今も決して経営状況は良くは無いようだが、なんとか食いつないで走り続けてほしい、そんな銚子電鉄である。
<銚子駅>
JR総武本線の終点、銚子駅。そのホームの先端から、銚子の町を抜けてさらに先へ伸びてゆくのが銚子電鉄である。かつては多数の特急や急行が東京から観光客を運んできた時代もあったが、今はすっかり静かになった。それでも時折、特急「しおさい」が思い出したかのようにやってきて、少しのビジネスマンと観光客をはきだす。
<仲之町駅あたり>
全国に星の数ほど駅ありといえど、醬油工場のただ中にある駅はここくらいではないか。ホームに降り立てば醬油のツーンとした匂いに刺激されずにはおられない。有名なヤマサ醬油の工場である。そう、銚子はヒゲタ、ヤマサの二大ブランドをはじめとする醬油の町でもある。銚子電鉄の車庫や事務所もこの駅に併設されている。
<観音駅から飯沼観音、銚子銀座、そして第一卸売市場周辺へ>
観音、というからにはもちろん銚子のルーツである飯沼観音への最寄り駅である。とともに、銚子の中心市街地の最寄り駅である。銚子電鉄の駅の中でも、この駅の乗降客数は多めだということで、買い物風のオバちゃんがチラホラ乗降するのが見られた。飯沼観音近くには「銚子銀座」なる商店街もあるという。どれどれ行ってみるか・・・
銚子銀座商店街は、飯沼観音の門前町として古くから栄えた場所で、いうなれば銚子の顔ともいうべき町であろう。昭和40年代の最盛期には近隣の町からの多くの人出があり、歩行者天国となって賑わったという。
「ココロード」とも名付けられたこの銚子一の繁華街の今を、歩いてみる。
表通りはよく整備された銚子銀座だが、脇道に入ると荒れた表情の通りも。
海沿いに出てくる。魚市場がある通りだが、大規模化、近代化された漁港なので、漁師町の風情は全くと言っていいほどない。だが、水揚げされ、さばいたばかりの魚を食わせる店がわずかながら点在する。
なお、観光用には別の場所に「ウォッセ21」という直売所がある。
<飯沼観音裏手から本銚子駅へ>
さて、飯沼観音の裏手(東側)にも市街地が広がっている。「お寺の裏には・・」のセオリー通り、ここが銚子きっての歓楽街になる。銚子銀座とは別の商店街もあるといい、町名には新地町などといった場所も見受けられ、かつては最も賑わったあたりのようだ。銚子電鉄の駅でいうと「本銚子」。「ほんちょうし」ではなく「もとちょうし」と読むが、いずれにせよこのあたりが本当の銚子の町であると主張する駅名ではある。
飯沼観音の裏手に続くこの商店街は、銚子東銀座商店街という。昭和30年代から40年代にかけてがピークで、歓楽街が周辺にあったこともあり、門前側の銚子銀座を越える賑わいを見せることもあったという。
骨組みだけあっても、肉がついていなければ血も通わない。銚子銀座といい、東銀座商店街といい、これほどまでに街が死んでしまっている都市も珍しい。木更津や佐原もそうであったが、千葉県にはとくにこうした中心市街地の衰退が著しい都市が多いように思う。なまじ首都圏という大消費地に近い分、町が町でなくなっても、なんとか食ってはいけるのかもしれない。しかしそれは街ではなく、ただ首都圏に魚介や醬油を提供するだけの、後背地。
人が集まるのは、郊外にできた巨大なイオンモールだけ。そのイオンモールが、銚子にしかないものが集まる、銚子らしい、銚子の顔となるものなら、まだ良い。そして、銚子ならではのものを新たに生み出す装置であれば、良いだろう。だが、そうではない。そこには、日本全国どこにでもあるチェーン店が入り、どこででも見れる映画が上映されているだけである。
嬉々としてイオンモールを訪れるたびに、銚子市民は、銚子という場所に対する誇りや共通の意識、感覚をだんだんと忘れてゆくだろう。加えて、お互いに生業者として近隣での物々交換や情報交換をすることが減り、一方的に大資本の生み出す事物の消費者にだれもがなってしまえば、もはや土着の文化を生み出すことなどできまい。
そうして場所の個性が薄れ、銚子は銚子ではなくなってゆく。街はただの住宅地となり、究極的には、銚子という名は消え、千葉県東部一丁目、などといった数字の名前になるだろう。
それで本当にいいのか。
廃線寸前の銚子電鉄が、銚子市の観光名所として第一位になっている理由は、それが「ここにしかない」ものであり、オンリーワンの情緒と輝きを発しているからだろう。
それは観光ガイド本では「レトロ」「昭和の香り」等という言葉になってしまうのかもしれないが、ゆっくりとしたリズム、手作りの良さ、長年時間をかけた風合い、自然との一体感、そして七転び八起きで走り続けるひたむきさ等、銚子電鉄に乗車することで、他の場所では得られない、様々な要素や刺激を、人が感じ取ることができるからに違いない。
さらに言えば、それはまさに銚子の街や歴史と一体となってきたもの。銚子にしかないもの、銚子ならではのもの、銚子の精神を体現するものということさえできるのだ。そういったものに、人は魅力を感じるのではないか。
滅びてゆく銚子の街にあって、銚子電鉄はただ一筋残る個性の光である。それも消えそうな光の残滓であるが・・
そんなことを考えながら、歩いていると涙が出そうになる銚子市街をあとにし、銚子電鉄の旅はさらに続く。
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本銚子駅は、こんもりとした高台の雑木林に囲まれた中にあって、今にも朽ち果てそうな駅である。
本銚子駅のホームから、やってくる上り電車を見る。
この静かな本銚子駅が、賑やかになる時間がある。それは駅のすぐ近くにある小学校の下校時間である。銚子も学校の統廃合が進み、銚子電鉄で通学する子供たちが少なからずいる。
<笠上黒生駅>
本銚子から電車が緑のトンネルを抜けると、もはやそこは市街地ではない。畑地の中に集落が点在するなんだか懐かしい光景となる。かつては黒瓦の生産で有名な土地であったらしい。この駅は銚子電鉄が上下行き違いをする中間駅となっている。
<海鹿島駅>
あしかじま、と読む。周辺には特筆すべきものはないが、キャベツ畑や雑木林の合間に住宅が見え隠れするような、静かな住宅地である。海岸にほど近く、涼やかな潮風の吹くこのあたりの風光を好んで、かつては保養地として明治、大正の文人たちが別荘を構えたという。そんな雰囲気が少し残っているように感じられる、どことなく品のあるところである。
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そして、線路は犬吠、外川へと続いてゆく。。。
その銚子の市街地から犬吠崎をかすめながらトコトコ走る銚子電鉄の電車に揺られること、20分。広く太平洋に面した高台にある「とかわ」というその終着駅が、今回の目的地である。海に向かって斜面を下りてゆくと、都市化、近代化した銚子の町とは異なる、何ともいい雰囲気の小さな漁師町がそこに広がっていた。
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外川駅に到着。
外川駅は、大正12年の創設以来の変わらぬ木造駅舎がそのまま残っていて、なんともレトロな味わいがある。数年前までは45分おきに電車がやってきたが、いまは60~90分間隔と、やや寂しい。
さて、駅から降りたままに歩きだせば、そこはもう外川の町である。
外川は現在は銚子市に組み入れられているが、もとは江戸時代、紀州からやってきた人々が開いた漁村であり、銚子とは異なる出自と雰囲気を持っている。その開祖である崎山治郎右衛門は、海に向かった斜面を碁盤の目に区切り、この地方にはない、さながら都のような整然とした街並みを作り上げた。かつては道筋ひとつひとつに名前が付けられていたという。
家並みの合間からのぞいてくる大海原に、心がときめく。
歴史的な家並みが多く残っているというわけではなく、新しい家も多いが、町全体がのんびりしたムードにつつまれているのは間違いない。
格子状に編まれた路地を気の向くままにたどりながら、斜面を下りたり上ったりする。斜面の道路は一部、デコボコのコンクリート舗装となっていて、石畳というほどではないが、アスファルトより雰囲気があるのは確かだ。
海風にも耐える重厚な黒瓦の平屋。
長崎鼻近くの作業小屋。
海に突き出した長崎地区は特に風が強く、頑丈な黒瓦の平屋が多い。
かつては石垣も多く見られたようだが、今は殆どブロック塀に替えられている。
海に突き出した長崎地区は特に風が強く、頑丈な黒瓦の平屋が多い。
かつては石垣も多く見られたようだが、今は殆どブロック塀に替えられている。
漁港に面した海岸線沿いには、漁師相手の食堂がちらほら。
釣り舟屋のほか、釣り宿もあちこちに見かけることができる。
午後の坂道。
夕方近くになると、猫の姿があちこちで見かけられるようになる
外川駅夕景。
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<<銚子市街地(銚子電鉄の旅)>>
これまで銚子の先っぽにある外川の町を見てきたが、この後は、飯沼観音を中心に形作られ、いまでは日本屈指の漁業基地に発展した銚子そのものの街並みについても見て行きたい。
そのお伴になるのは、やはりJR銚子駅から市街地の中を縫って走る銚子電鉄の電車である。
この銚子電鉄、ご存じの方も多いと思うが、数十年前から赤字続きで、何度も存続の危機に立たされている鉄道なのである。
古い電車ばかりで、部品一つ修理するにも余計なお金がかかるのだが、お客はマイカーにとられて減る一方。そんな中、1970年代には競合するバス会社に会社を乗っ取られて、わざと廃線に持ってゆくようなやり方をされたり、90年代には地元の工務店が経営に加わってくれるようになったが、そこから来た社長が会社の資金を持ち逃げしてしまったり、という具合で、環境にもめぐまれず、苦難の連続であった。
そんな中、銚子名物の醬油を生かした濡れ煎餅を独自に企画、製造販売することで赤字を穴埋めし、なんとか苦しい台所をやりくりしてきた銚子電鉄だったが、2006年には電車の車検を通す為のお金が底をつき、ついに運行停止かという事態にまでなった。そのとき、社員の一人が、自社のホームページに恥をしのんで「濡れ煎餅を買ってください!! 電車修理代を稼がなくちゃ、いけないんです」と赤裸々な一言を掲載し、それをきっかけに全国から濡れ煎餅の注文が目を疑うばかりに殺到、その販売利益で間一髪、期限ぎりぎりのところで車検を通すことができたという話は有名だ。
だが銚子電鉄の苦境はこれで終わらない。2009年、ボロ車両ばかりだった銚子電鉄は会社の命運をかけて他の私鉄から新車両を2編成、譲ってもらったのだが、その頼みの綱の新車両のうち1編成が、2014年1月、まさかの脱線事故を起こして走れなくなったのだ。修理をするお金はなく、2編成のうち1編成しか走れないのでは運行じたいが行き詰まってしまう。こんどこそダメかと思われたが、今度はなんと、沿線の銚子商業高校の生徒たちが奮起。インターネットで全国から募金を募った。この活動はTVや新聞などでも取り上げられ、全国から数百万が寄せられた。これらを高校生たちは全額、修理代に充ててもらうべく電鉄に寄付したのである。おかげで脱線した車両は2015年4月、運転に復帰している。
こうして、もはや廃線かと思われたその度に、奇跡にように命をつないで生き延びてきた、そんな銚子電鉄であるが、いま、観光ガイド本を見れば見開きで紹介されているし、「トリップアドバイザー」で銚子市の観光スポットを検索すると、犬吠埼灯台や観光用の魚市場「ウォッセ」、「地球の丸く見える丘公園」等を差し置いてその人気第一位に銚子電鉄が出てくる。いまや銚子電鉄は銚子市にとって無くてはならない観光資源なのである。
地元の人の利用が冷え込んでいる以上、今も決して経営状況は良くは無いようだが、なんとか食いつないで走り続けてほしい、そんな銚子電鉄である。
<銚子駅>
JR総武本線の終点、銚子駅。そのホームの先端から、銚子の町を抜けてさらに先へ伸びてゆくのが銚子電鉄である。かつては多数の特急や急行が東京から観光客を運んできた時代もあったが、今はすっかり静かになった。それでも時折、特急「しおさい」が思い出したかのようにやってきて、少しのビジネスマンと観光客をはきだす。
左の列車はJR総武本線の普通電車。
<仲之町駅あたり>
全国に星の数ほど駅ありといえど、醬油工場のただ中にある駅はここくらいではないか。ホームに降り立てば醬油のツーンとした匂いに刺激されずにはおられない。有名なヤマサ醬油の工場である。そう、銚子はヒゲタ、ヤマサの二大ブランドをはじめとする醬油の町でもある。銚子電鉄の車庫や事務所もこの駅に併設されている。
入れ替え中の電車とかわいい機関車。
左は駅舎。右の家屋は、驚くなかれ、銚子電鉄の本社である
。仲ノ町駅内部。いい雰囲気である。
少し海側に歩くと銚子の中心市街地に出る。
県道244号である仲通り。
県道244号である仲通り。
銚子市街を東西に貫く県道だが、人通りは少ない。
<観音駅から飯沼観音、銚子銀座、そして第一卸売市場周辺へ>
観音、というからにはもちろん銚子のルーツである飯沼観音への最寄り駅である。とともに、銚子の中心市街地の最寄り駅である。銚子電鉄の駅の中でも、この駅の乗降客数は多めだということで、買い物風のオバちゃんがチラホラ乗降するのが見られた。飯沼観音近くには「銚子銀座」なる商店街もあるという。どれどれ行ってみるか・・・
ファンシーな観音駅舎。
駅入り口付近で売っているたい焼きが名物。
駅入り口付近で売っているたい焼きが名物。
飯沼観音の境内。観音駅より徒歩5分ほど。
飯沼観音の門前は大きな交差点となっている。
飯沼観音周辺にて。
門前からまっすぐ西に伸びる銚子銀座商店街。
・・・・ずいぶん閑散としているようだが。
・・・・ずいぶん閑散としているようだが。
銚子銀座商店街は、飯沼観音の門前町として古くから栄えた場所で、いうなれば銚子の顔ともいうべき町であろう。昭和40年代の最盛期には近隣の町からの多くの人出があり、歩行者天国となって賑わったという。
「ココロード」とも名付けられたこの銚子一の繁華街の今を、歩いてみる。
廃業した店?ばかりがズラリ。恐ろしいほど空疎な光景だ。
歩いている人を探すのもやっとである。
きれいに整備された白い町並み。
「白けた町」というほうが適切だろうか。
「白けた町」というほうが適切だろうか。
西(銚子駅方向)へ進むと現役の店舗がやや増えてくる。
歩いている人を見つけると、追いかけて写真を撮る。
表通りはよく整備された銚子銀座だが、脇道に入ると荒れた表情の通りも。
海沿いに出てくる。魚市場がある通りだが、大規模化、近代化された漁港なので、漁師町の風情は全くと言っていいほどない。だが、水揚げされ、さばいたばかりの魚を食わせる店がわずかながら点在する。
なお、観光用には別の場所に「ウォッセ21」という直売所がある。
<飯沼観音裏手から本銚子駅へ>
さて、飯沼観音の裏手(東側)にも市街地が広がっている。「お寺の裏には・・」のセオリー通り、ここが銚子きっての歓楽街になる。銚子銀座とは別の商店街もあるといい、町名には新地町などといった場所も見受けられ、かつては最も賑わったあたりのようだ。銚子電鉄の駅でいうと「本銚子」。「ほんちょうし」ではなく「もとちょうし」と読むが、いずれにせよこのあたりが本当の銚子の町であると主張する駅名ではある。
飯沼観音の裏口には有名な今川焼の店「さのや」がある。
このあたりも、かつては賑わったエリアのようだ。
このあたりも、かつては賑わったエリアのようだ。
五重塔が見える。
歩道にアーケードのある商店街らしき場所に出てきた。
飯沼観音の裏手に続くこの商店街は、銚子東銀座商店街という。昭和30年代から40年代にかけてがピークで、歓楽街が周辺にあったこともあり、門前側の銚子銀座を越える賑わいを見せることもあったという。
アーケードは切れ切れになり、ところどころ屋根が破けて
トタンが垂れ下がっている個所もある。
トタンが垂れ下がっている個所もある。
元銀行だった建物が、「アートバンク」というギャラリ―になり、
いまはそれも閉まっている。
いまはそれも閉まっている。
「新地町」を示す看板がかつての名残り。いまとなっては片鱗もない。
ここはもはや商店街ではなく、商店街の残骸、なれの果てといった場所である。
どうしてここまでなってしまったのか。
どうしてここまでなってしまったのか。
それでも頑張っている「名前のない店」という喫茶店。
銚子きっての歓楽街(であった)、田中町界隈。
銚子でも、こういう商売の担い手の中心は外国人になってきているようだ。
良いことなのか、悪いことなのか、どちらだろう?
良いことなのか、悪いことなのか、どちらだろう?
骨組みだけあっても、肉がついていなければ血も通わない。銚子銀座といい、東銀座商店街といい、これほどまでに街が死んでしまっている都市も珍しい。木更津や佐原もそうであったが、千葉県にはとくにこうした中心市街地の衰退が著しい都市が多いように思う。なまじ首都圏という大消費地に近い分、町が町でなくなっても、なんとか食ってはいけるのかもしれない。しかしそれは街ではなく、ただ首都圏に魚介や醬油を提供するだけの、後背地。
人が集まるのは、郊外にできた巨大なイオンモールだけ。そのイオンモールが、銚子にしかないものが集まる、銚子らしい、銚子の顔となるものなら、まだ良い。そして、銚子ならではのものを新たに生み出す装置であれば、良いだろう。だが、そうではない。そこには、日本全国どこにでもあるチェーン店が入り、どこででも見れる映画が上映されているだけである。
嬉々としてイオンモールを訪れるたびに、銚子市民は、銚子という場所に対する誇りや共通の意識、感覚をだんだんと忘れてゆくだろう。加えて、お互いに生業者として近隣での物々交換や情報交換をすることが減り、一方的に大資本の生み出す事物の消費者にだれもがなってしまえば、もはや土着の文化を生み出すことなどできまい。
そうして場所の個性が薄れ、銚子は銚子ではなくなってゆく。街はただの住宅地となり、究極的には、銚子という名は消え、千葉県東部一丁目、などといった数字の名前になるだろう。
それで本当にいいのか。
廃線寸前の銚子電鉄が、銚子市の観光名所として第一位になっている理由は、それが「ここにしかない」ものであり、オンリーワンの情緒と輝きを発しているからだろう。
それは観光ガイド本では「レトロ」「昭和の香り」等という言葉になってしまうのかもしれないが、ゆっくりとしたリズム、手作りの良さ、長年時間をかけた風合い、自然との一体感、そして七転び八起きで走り続けるひたむきさ等、銚子電鉄に乗車することで、他の場所では得られない、様々な要素や刺激を、人が感じ取ることができるからに違いない。
さらに言えば、それはまさに銚子の街や歴史と一体となってきたもの。銚子にしかないもの、銚子ならではのもの、銚子の精神を体現するものということさえできるのだ。そういったものに、人は魅力を感じるのではないか。
滅びてゆく銚子の街にあって、銚子電鉄はただ一筋残る個性の光である。それも消えそうな光の残滓であるが・・
そんなことを考えながら、歩いていると涙が出そうになる銚子市街をあとにし、銚子電鉄の旅はさらに続く。
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本銚子駅は、こんもりとした高台の雑木林に囲まれた中にあって、今にも朽ち果てそうな駅である。
以前は駅員さんがここにいた。
静寂に包まれる本銚子の駅。
本銚子駅のホームから、やってくる上り電車を見る。
※※
※※
まさに緑のトンネル!
この静かな本銚子駅が、賑やかになる時間がある。それは駅のすぐ近くにある小学校の下校時間である。銚子も学校の統廃合が進み、銚子電鉄で通学する子供たちが少なからずいる。
小学生たちが乗り込むと、車内は一気に騒がしくなる。
観光客と思しき他の乗客達が、珍しそうに目を細めているのが印象的。
この車掌さんにとっても、いつもの子供たちに違いないと思うが、
そんな子供達一人ひとりに対しても、「定期券を拝見します」「有難うございます」と
大人の乗客に対するのとなんら変わらない態度で接していた。
観光客と思しき他の乗客達が、珍しそうに目を細めているのが印象的。
この車掌さんにとっても、いつもの子供たちに違いないと思うが、
そんな子供達一人ひとりに対しても、「定期券を拝見します」「有難うございます」と
大人の乗客に対するのとなんら変わらない態度で接していた。
<笠上黒生駅>
本銚子から電車が緑のトンネルを抜けると、もはやそこは市街地ではない。畑地の中に集落が点在するなんだか懐かしい光景となる。かつては黒瓦の生産で有名な土地であったらしい。この駅は銚子電鉄が上下行き違いをする中間駅となっている。
<海鹿島駅>
あしかじま、と読む。周辺には特筆すべきものはないが、キャベツ畑や雑木林の合間に住宅が見え隠れするような、静かな住宅地である。海岸にほど近く、涼やかな潮風の吹くこのあたりの風光を好んで、かつては保養地として明治、大正の文人たちが別荘を構えたという。そんな雰囲気が少し残っているように感じられる、どことなく品のあるところである。
海鹿島駅風情。
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そして、線路は犬吠、外川へと続いてゆく。。。
※
撮影:2014年9月 (※は2009年4月、※※は2012年4月)
本文:2015年5月
本文:2015年5月
2015-05-07 16:08
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こんばんは。
銚子〜外川の街並みと静かにそれらを繋ぐ銚子電鉄のお写真、楽しませて頂きました。
銚子電鉄の境遇は不憫に感じる程のものですが、これから先も自助努力を含め頑張り抜いて欲しい鉄道会社です。
銚子の暖かな雰囲気の街を、この小さな電車に乗って旅していると、時間の流れが日常から切り離されて実に心地良いです。
魅力的なお写真、素敵でした。
またお伺いします。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/?pc
by 風旅記 (2015-05-10 19:37)