富士吉田 2015 [日本の町散歩(中部)]
いうまでもなく、富士山は日本人の心のよりどころであるが、その表情は見る場所によって少しずつ異なるように思う。南側、静岡側から見るといつもたおやかな印象だが、北側、山梨側から見る富士は、より陰影に富み、怒っているような、苦悩しているような、どこか近づき難い、複雑な表情を感じさせる。そんな山梨側の中腹に抱かれた大きな町が、富士吉田である。
何百年の前から富士山信仰の聖地であり宿坊が連なった「上吉田」地区と、昭和の時代に織物産業で栄えた盛り場「下吉田」地区。二つの異なった個性持つ富士吉田であるが、近年大挙して富士に押し寄せる外国人集団も、この街を顧みることはあまりないのだろうか。
ようやく秋めいてきた9月終わりに訪ねてみた富士吉田の街は、ひと気もなく、斜陽の中で静かに時を刻み続けているように見えた。
富士吉田の玄関駅、富士山駅(旧富士吉田駅)。JRではなく、富士急行線という私鉄の駅であるが、富士山観光の拠点となる駅のひとつであり、運転上の要衝でもあり、立派な構えだ。
ただし、2011年の改称に伴い、富士吉田という町の名前が駅名から消えてしまったのは残念だ。
駅前を出るとまずは大きな金鳥居が。ここから富士山のほうを向いたこの一帯が、古くから登山者を迎える宿坊街(御師町)であった上吉田の町である。富士山そのものはもちろん寺社ではないが、古くから信仰の対象であったし、その信仰の直接の拠り所がこの御師町を上り詰めたところにある富士浅間神社であった。
御師とは、特定の寺社に所属し、参詣者の宿泊、料理、案内等の世話をする役割を担う人のことである。伊勢神宮などでは「おんし」と呼ぶそうだが、富士では「おし」と呼ぶ。
上吉田は御師の家が最盛期には86軒も並んだという。それらの御師の家が宿坊であり、信仰者はそこに宿泊して参拝の身支度を整えた。
以下、御師宿坊の風情数々。中には今も営業しているところもある。
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金鳥居から、上吉田と逆の方へ坂道を10分ほど降りてゆくと、やがて下吉田の街である。
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「ことりっぷ」と云えば、昭文社発行の今をときめく旅行ガイド本シリーズ。今どきの気負わない若者や女子の気分にピタリとはまった独特な編集スタイルと可愛いさで旅行ガイド業界に新風を吹き込んだが、時折地元の人も舌を巻くようなプチ情報が載っていたりして、取材力もなかなか侮れない。
その女子に人気の「ことりっぷ」の「河口湖・山中湖」版が、なんとこの寂れたスナック街の下吉田に1ページ以上を割いているのが驚きである。いわく「昭和レトロに酔いしれる、月江寺界隈を散策して」とのタイトルで、以下のような紹介文が掲載されている。
「下吉田の絹屋町は甲斐絹の産地に近く、昭和30年代に織物産業を中心として多くの店が軒を連ね、織物市が開かれた繁栄した。当時の月江寺通りや西裏通りは、そんな業者たちで賑わっていた。50年には日本の繊維産業の衰退とともに町の灯りも消えて行ったが、今なおその名残りを残している」・・・・・・・
月江寺駅と本町通りに挟まれた西裏通り周辺のこの一帯が、織物産業華やかなりし昭和30年代から50年代初頭にかけて、下吉田きっての繁華街、歓楽街であったということである。
西裏通りに沿って斜面を降りてゆく。
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本町通りに出てきた。
下吉田駅の北側にある新倉浅間神社に登り、お参りする。
神社からさらに上に階段が続き、新倉山公園まで登ってゆくことができる。
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さて、再び下吉田の街へと戻る。
本町通りの東側はかつて織物市が開かれ、問屋等が集まっていた「絹屋町」と呼ばれるエリア。
いまもその雰囲気の片鱗がわずかに残っている。
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今度は本町通りを横切って、ふたたび西側の歓楽街のあとへ。。。
日が差してきたので、再び絹屋町へ向かう。
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再び、西裏通りへと戻って来た。
月江寺駅前通り
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番外編
何百年の前から富士山信仰の聖地であり宿坊が連なった「上吉田」地区と、昭和の時代に織物産業で栄えた盛り場「下吉田」地区。二つの異なった個性持つ富士吉田であるが、近年大挙して富士に押し寄せる外国人集団も、この街を顧みることはあまりないのだろうか。
ようやく秋めいてきた9月終わりに訪ねてみた富士吉田の街は、ひと気もなく、斜陽の中で静かに時を刻み続けているように見えた。
富士吉田の玄関駅、富士山駅(旧富士吉田駅)。JRではなく、富士急行線という私鉄の駅であるが、富士山観光の拠点となる駅のひとつであり、運転上の要衝でもあり、立派な構えだ。
ただし、2011年の改称に伴い、富士吉田という町の名前が駅名から消えてしまったのは残念だ。
鳥居まで備えた駅ビルには、土産物屋等のショッピング施設もあり、外国人も多い。
駅前からは高速バスの発着も多数ある。
駅前からは高速バスの発着も多数ある。
私鉄駅だが、東京、新宿からの直通列車もあり、
最近では成田エクスプレスまでやってくる。
最近では成田エクスプレスまでやってくる。
左はフジサン特急と名付けられた特急。右は一般車両。
駅前を出るとまずは大きな金鳥居が。ここから富士山のほうを向いたこの一帯が、古くから登山者を迎える宿坊街(御師町)であった上吉田の町である。富士山そのものはもちろん寺社ではないが、古くから信仰の対象であったし、その信仰の直接の拠り所がこの御師町を上り詰めたところにある富士浅間神社であった。
金鳥居。富士山、浅間神社に向かってまっすぐ伸びる道。
今も道の両側にかなりの数の御師宿坊が残る。
御師とは、特定の寺社に所属し、参詣者の宿泊、料理、案内等の世話をする役割を担う人のことである。伊勢神宮などでは「おんし」と呼ぶそうだが、富士では「おし」と呼ぶ。
上吉田は御師の家が最盛期には86軒も並んだという。それらの御師の家が宿坊であり、信仰者はそこに宿泊して参拝の身支度を整えた。
御師宿坊のひとつ。
どの宿坊も、細長い引き込み道(タツミチという)を持ち、奥まっているのが特徴。
どの宿坊も、細長い引き込み道(タツミチという)を持ち、奥まっているのが特徴。
以下、御師宿坊の風情数々。中には今も営業しているところもある。
後発の御師宿坊は奥まっておらず通りに面している。
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「魁」の文字が躍るこの古民家は居酒屋としてリノベートされたもの。
ところどころにある脇道も面白い
通りに平行して側溝のような小さな清流が富士から走り降りている。
通りを挟む形で東西二本あるが、いずれも「ヤーナ川」と呼ばれる聖なる流れ。
御師宿坊はこの清流を跨いだ所に各々玄関を構えている為、奥まっているのである。
通りを挟む形で東西二本あるが、いずれも「ヤーナ川」と呼ばれる聖なる流れ。
御師宿坊はこの清流を跨いだ所に各々玄関を構えている為、奥まっているのである。
「ヤーナ川」は現在では暗渠となっている部分もある。
裏通りに出てきた。もう田園風景。
上吉田の裏通り。上吉田は御師の宿坊街であり、盛り場等の街場は存在しない。
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金鳥居から、上吉田と逆の方へ坂道を10分ほど降りてゆくと、やがて下吉田の街である。
金鳥居のあった御師町からそのまま続くこの本町通りは
下吉田のメインストリートのはずだが、人通りはない
下吉田のメインストリートのはずだが、人通りはない
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下吉田は金鳥居から下っても良いが、最寄りは月江寺駅。
なかなか趣きある名の、この小さな駅から散策を始めるとよい。
なかなか趣きある名の、この小さな駅から散策を始めるとよい。
月江寺駅前の通りは、下吉田のメインストリート(本町通り)に比べると
営業している店舗がやや多いものの、やはりシャッター通りである。
営業している店舗がやや多いものの、やはりシャッター通りである。
シャッターを下ろした廃屋に交じって、現役の居酒屋やスナックがちらほら。
「ことりっぷ」と云えば、昭文社発行の今をときめく旅行ガイド本シリーズ。今どきの気負わない若者や女子の気分にピタリとはまった独特な編集スタイルと可愛いさで旅行ガイド業界に新風を吹き込んだが、時折地元の人も舌を巻くようなプチ情報が載っていたりして、取材力もなかなか侮れない。
その女子に人気の「ことりっぷ」の「河口湖・山中湖」版が、なんとこの寂れたスナック街の下吉田に1ページ以上を割いているのが驚きである。いわく「昭和レトロに酔いしれる、月江寺界隈を散策して」とのタイトルで、以下のような紹介文が掲載されている。
「下吉田の絹屋町は甲斐絹の産地に近く、昭和30年代に織物産業を中心として多くの店が軒を連ね、織物市が開かれた繁栄した。当時の月江寺通りや西裏通りは、そんな業者たちで賑わっていた。50年には日本の繊維産業の衰退とともに町の灯りも消えて行ったが、今なおその名残りを残している」・・・・・・・
月江寺駅と本町通りに挟まれた西裏通り周辺のこの一帯が、織物産業華やかなりし昭和30年代から50年代初頭にかけて、下吉田きっての繁華街、歓楽街であったということである。
歓楽街のメインストリートの一つであった西裏通り。
本町通りと平行して走っている。
本町通りと平行して走っている。
西裏通りに沿って斜面を降りてゆく。
子の神通り。
このあたりも、溢れんばかりの人で賑わった頃があったのだろうか・・
月江寺通り。西の端に月江寺がある。
月江寺通りは現役ふうの店も多い。
貫禄の店構え、「月の江書店」も現役である。
大正末期の古民家をリノベートした「カフェ月光」
最近の女子はこういう店が大好きのようだ。
最近の女子はこういう店が大好きのようだ。
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本町通りに出てきた。
富士山に向かって延びる商店街だが
歩く人の姿は殆ど見かけない。昭和レトロを通り越して寂しさが募る。
歩く人の姿は殆ど見かけない。昭和レトロを通り越して寂しさが募る。
本町通りの脇道に、昔ながらのユースホステルを発見。
布団が干されている。
布団が干されている。
本町通りをだいぶ下に降りてきたところ。
西裏通りの裏手を走り落ちるように流れてくる宮川。
上吉田では側溝のようだったヤーナ川の流れである。
上吉田では側溝のようだったヤーナ川の流れである。
富士急行の線路に出てきた。
本町通りを下りきった先にある下吉田駅。
市街地からはやや町外れにあたり利用客は少ないが、広い構内を持つ。
織物産業華やかなりし時代には、ここから多くの貨物が運び出されていったようだ。
市街地からはやや町外れにあたり利用客は少ないが、広い構内を持つ。
織物産業華やかなりし時代には、ここから多くの貨物が運び出されていったようだ。
昭和4年の開業当初からの駅舎は、近年りニューアルされて今も残る。
駅舎内部。
下吉田駅の北側にある新倉浅間神社に登り、お参りする。
神社からさらに上に階段が続き、新倉山公園まで登ってゆくことができる。
公園からの眺め。山麓を富士急行の線路が下りてくるのがわかる。
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さて、再び下吉田の街へと戻る。
相変わらず、ひと気のない本町通り。
本町通りの東側はかつて織物市が開かれ、問屋等が集まっていた「絹屋町」と呼ばれるエリア。
いまもその雰囲気の片鱗がわずかに残っている。
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今度は本町通りを横切って、ふたたび西側の歓楽街のあとへ。。。
子の神通り。
とくに趣きのある(?)一角に迷い込んだ。。
ああ、夢の跡・・・
まるでラビリンス。
この一角は「新世界通り」と呼ばれていたそうだ。
日が差してきたので、再び絹屋町へ向かう。
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月江寺通り。
月江寺通りにある立派な医院。
西裏通りと本町通りの間の路地
なんとも魅力的な路地である。
提灯が連なる子の神通り。
ここは夜になると少しは賑わうのだろうか。
ここは夜になると少しは賑わうのだろうか。
再び、西裏通りへと戻って来た。
ふるびたカフェー(?)の跡・・。
路地から本町通りを臨む。
ゲートの向こうに、変わらぬ富士の姿。
月江寺駅前通り
夕暮れせまる、月江寺駅ホーム。
この電車で、帰ろう。
撮影:2016年9月
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番外編
吉田といえば「吉田うどん」ですよ
下吉田「桜井うどん」にて
下吉田「桜井うどん」にて
2017-01-31 23:19
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