龍野 2015 [日本の町散歩(近畿)]
「夕焼け小焼けの赤とんぼ、負われて見たのはいつの日か・・・♪」とは誰もが知っている童謡である。作詞者である三木露風は、赤とんぼが舞い飛ぶ、風光豊かな故郷で過ごした幼少期への思慕の念をこの歌に託したという。そしてその三木露風の故郷が、この播州龍野の街である。
清流として知られる揖保川がゆるやかに流れる傍ら、小高い丘に抱かれた小さな城下町は、いまも「赤とんぼの故郷」と云いたくなるような古い城跡と町並みを残し、静かな詩情に包まれている。
しかし、この町においてそれ以上に特筆すべきことは、ここが「淡口(うすくち)醬油」やそうめんの「揖保の糸」といった全国区の名産品やブランドを生み出し、産業化に成功した町であるという点である。うすくちしょうゆの一見はんなり、実はシッカリという味わいの妙は、そのまま龍野という街の特性なのかもしれない。
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朝の街並みを歩く
いったん、十文字川に沿って右に折れ、中心部へ取って返す。
十字路を右に曲がると、再び大手界隈へと出る。
いうまでもなく、龍野の醤油の特徴はいわゆる「うすくち(淡口、と書く)」である事。少なくとも関西ではおなじみの醤油で、その名の通りふつうの醤油(濃口)よりも色がうすい。料理の見た目の繊細さを重視する上方文化においては、素材の色合いを残しギトギトの醤油色に仕上げたくない調理等で現在でも重宝されている。私も製法について全く明るくないのであるが、製造途上で米を甘酒にして加えることで、熟成を抑えるのだそう。しかし味のほうは決して薄味ではなく、濃口のようなパンチこそ控えめだが、材料に米が加わることもあってか独特の味の複雑味、妙味が生まれている。これが料理素材そのものの持つ旨みとうまく噛み合うとお互いがお互いを引き立てあい、得も言われぬ味の調和と広がりが生まれる。
こうしたうすくち醤油の味わいの妙の形成には柔らかな水も重要であった。そして揖保川の美しい軟水がいくらでも使用でき、醤油づくりに不可欠な大豆、小麦、そして塩が豊富に手に入る龍野は、まさに地の利を得ていたと言えよう。
現在でも、ヒガシマルのほか、末広醤油、カネヰ醤油の3社がこの旧市街で操業を継続しているほか、近隣の揖保川の流域にさらに3社の醤油メーカーがある。
なお、ヒガシマルのヒット商品のひとつに「うどんスープ」があるが、その高級バージョン「うどんスープ・のれん味」は龍野でしか手に入れることができない。さらに、毎年秋に通販のみで限定出荷されるヒガシマルの知る人ぞ知る最高級醤油「龍野乃刻」は、原料にすべて龍野近隣産のものを使用し、龍野で昔ながらの製法をもって醸造されている。(最高級品といえども、一本900円程度である)
浦川沿いの通りから一本西(揖保川寄り)の通りは上川原町といわれ、下川原の通りから引き続いて町家が並び、お店となっているところも多い。
上川原と揖保川の間が旭町。路地が連なる。
旭町の北側は「門の外」という町名になっている。
城下町の内外の境がこのあたりにあったのであろうか。
今度は西に向かい、鶏籠山のふもとを回り込でゆく。
十文字川に沿って市街南側へ降りてゆく。
本町界隈からゆるやかにカーブしながら南へと道が続くが、この沿道沿いにも街道筋を思わせる古い町並みが形成されている。(日山地区)
本町のほうへ戻っていく。
龍野橋を渡って駅方面へと歩いてみる。
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本町から、今度は十文字川に沿って山裾の旧武家屋敷方面へと登っていく。
龍野小学校の周辺は旧武家屋敷がたくさん残っており、非常に落ち着いた雰囲気である。小学校自体の広大な敷地も、旧家老屋敷だったのではないか。こんな恵まれた環境で勉強ができる龍野の小学生がうらやましい。
龍野神社から南の白鷺山まで、山の中腹をめぐる道をたどる。
「文学の小径」と名付けられている。
白鷺山から、また市街地へと降りてゆく。
立町あたりまで降りてきた。
商店の並ぶ下河原の通りに出てきた。
ここから北へ向かおう。
上川原通りを歩く前に、うしろにある煙突が気になって西側へと回り込む。
再び上川原の通りへ戻り北上する。
下河原の商店街は善龍寺に突き当たって終わり。
さらに北東へ進むと「門の外」という町名になる。
「門の外」から旭町、水神町あたりの路地を歩く。
ぐるぐると同じところばかり歩き回っている。
再び豆板の小路。
龍野は非常に清廉、健康的な雰囲気のする町で、色町めいた部分がすくない。
実際、龍野にはここといった色町は存在せず、妓楼などは町中に散在していたという。
そんな中でも、豆板の小路から西へとつづく「桶屋町」の界隈は、少しだけ艶やかな香りを今に伝えている。
本町へ抜ける道。
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再び、山裾の武家屋敷方面へあるいていく。
夕暮れ時の下川原通り。
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下川原からさらに南へ。
川原町という細い通りとなる。
さらに南へ歩いていく。
散策を終えてみて、ひとつだけ気になることがあった。それは、この素晴らしい情緒を保った龍野の旧市街が、これまで歩いてきた町に比べて、どことなく「町」「街」という感じがしないことである。町らしい求心性、独立性が希薄で、単なる一エリアという感じがする。そう、京都における「嵐山」のように。。。
どうしてそういう感じを受けるのか、今もってわからない。歩く人が少ない、中心となるエリアに衰退が目立つ、ただそういうことならば、他の町も軒並み同じであったし、龍野に独自の文化が感じられないということもない。。おそらく、姫路等の都市から十分に近く、都市性という意味では周辺地域に埋没してしまっている、呑み込まれている感じがするからだろうか。地形的にも、また産業的にも閉鎖性が少なく、他に向かって開かれていることも影響しているのかもしれない。あるいは、お店はちらほらあっても、「飲食店」がほとんど見られない、というような単純な理由かもしれない。その地で飲食をしなければ、どうも私はその町を「体で経験した」という気になれず、傍観者のまま去ってしまった気がするのである。
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日没後の町
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◎今回の宿 「片しぼ竹の宿 梅玉」(梅玉旅館)
龍野は宿泊施設が少ない。旧市街には白鷺山の国民宿舎「赤とんぼ荘」と、この旅館があるきりだ。今回私は選んだのはこちら。山裾の古い家老屋敷の敷地内に建つ立派な宿。
今日の宿泊客は少なく、おかみさんが部屋をアップグレードしてくれた上、つかず離れずでよく面倒を見てくれた。非常に印象の良い宿であった。
清流として知られる揖保川がゆるやかに流れる傍ら、小高い丘に抱かれた小さな城下町は、いまも「赤とんぼの故郷」と云いたくなるような古い城跡と町並みを残し、静かな詩情に包まれている。
しかし、この町においてそれ以上に特筆すべきことは、ここが「淡口(うすくち)醬油」やそうめんの「揖保の糸」といった全国区の名産品やブランドを生み出し、産業化に成功した町であるという点である。うすくちしょうゆの一見はんなり、実はシッカリという味わいの妙は、そのまま龍野という街の特性なのかもしれない。
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朝の街並みを歩く
旧桶屋町あたり
醤油蔵の多い、大手あたり
うすくち醤油の全国ブランドであるヒガシマルが本拠としていたのもこのあたり。
現在はうすくち醤油資料館(旧本社)や倉庫がある。
うすくち醤油の全国ブランドであるヒガシマルが本拠としていたのもこのあたり。
現在はうすくち醤油資料館(旧本社)や倉庫がある。
醤油資料館の裏手あたりの路地
旧町名「豆板の小路」
水路「浦川」に沿って、白壁の醤油蔵が並ぶ
ヒガシマルの旧醤油蔵と思われる建物にも、きちんと水路が引かれている
大手から本町へ抜けていく下川原の通りは、商家建築が並び
今も現役の店舗もちらほらある様子。
今も現役の店舗もちらほらある様子。
本町あたり。駅方面から揖保川を渡ってきた龍野橋のたもとになる。
この周辺が旧市街の中心か。右の建物は姫路信用金庫。
この周辺が旧市街の中心か。右の建物は姫路信用金庫。
本町の南側の川原町も重厚な町屋が多い。
先ほどの浦川とは別の十文字川が流れる。
先ほどの浦川とは別の十文字川が流れる。
すぐ向こうに揖保川の流れ
町中を縫って流れる十文字川。「どじがわ」と読むらしい
常照寺
このあたりも表通りらしく、古い商家が並んでいる。
菊屋商店という古い看板が上がっているが、
ヒガシマルの前身となった醤油蔵のひとつらしい。いまは倉庫?家屋?
菊屋商店という古い看板が上がっているが、
ヒガシマルの前身となった醤油蔵のひとつらしい。いまは倉庫?家屋?
そのまま南(日山町)へ続いていく通りも趣深そうだ。
いったん、十文字川に沿って右に折れ、中心部へ取って返す。
再び常照寺付近。正面に見える鶏籠山(けいろうざん)に龍野城があった。
このあたり、町名を「福の神」という。
このあたり、町名を「福の神」という。
普音寺の近くに、明らかに元料亭であったような趣ある建物
立町かいわい
龍野城の正面から伸びてくるこの立町の通りは大手筋にあたり
西の山側が武家屋敷、東の川側が町人街であった。
龍野城の正面から伸びてくるこの立町の通りは大手筋にあたり
西の山側が武家屋敷、東の川側が町人街であった。
立町界隈にもぽつぽつと艶っぽい建物が残されているが
右の白い建物は最後の龍野芸者と言われた方が経営していたという、元カフェー
右の白い建物は最後の龍野芸者と言われた方が経営していたという、元カフェー
十字路を右に曲がると、再び大手界隈へと出る。
左の白壁の倉庫にヒガシマルの社紋が見える。
右のレンガ作りの建物は旧ヒガシマル本社。
現在の本社は揖保川の対岸へと移りこちらは「うすくち醤油資料館」となっている。
現在の本社は揖保川の対岸へと移りこちらは「うすくち醤油資料館」となっている。
西側から見たところ。
いうまでもなく、龍野の醤油の特徴はいわゆる「うすくち(淡口、と書く)」である事。少なくとも関西ではおなじみの醤油で、その名の通りふつうの醤油(濃口)よりも色がうすい。料理の見た目の繊細さを重視する上方文化においては、素材の色合いを残しギトギトの醤油色に仕上げたくない調理等で現在でも重宝されている。私も製法について全く明るくないのであるが、製造途上で米を甘酒にして加えることで、熟成を抑えるのだそう。しかし味のほうは決して薄味ではなく、濃口のようなパンチこそ控えめだが、材料に米が加わることもあってか独特の味の複雑味、妙味が生まれている。これが料理素材そのものの持つ旨みとうまく噛み合うとお互いがお互いを引き立てあい、得も言われぬ味の調和と広がりが生まれる。
こうしたうすくち醤油の味わいの妙の形成には柔らかな水も重要であった。そして揖保川の美しい軟水がいくらでも使用でき、醤油づくりに不可欠な大豆、小麦、そして塩が豊富に手に入る龍野は、まさに地の利を得ていたと言えよう。
現在でも、ヒガシマルのほか、末広醤油、カネヰ醤油の3社がこの旧市街で操業を継続しているほか、近隣の揖保川の流域にさらに3社の醤油メーカーがある。
なお、ヒガシマルのヒット商品のひとつに「うどんスープ」があるが、その高級バージョン「うどんスープ・のれん味」は龍野でしか手に入れることができない。さらに、毎年秋に通販のみで限定出荷されるヒガシマルの知る人ぞ知る最高級醤油「龍野乃刻」は、原料にすべて龍野近隣産のものを使用し、龍野で昔ながらの製法をもって醸造されている。(最高級品といえども、一本900円程度である)
揖保川の清流を町中へ引き入れた「浦川」が醤油蔵へと流れていく
白壁の蔵にはやはりヒガシマルの社紋が。
揖保川の対岸(東側)に大きな工場が出来た現在、
現役で醤油蔵として使われているかは不明。
奥は如来寺。龍野も寺が多い。
揖保川の対岸(東側)に大きな工場が出来た現在、
現役で醤油蔵として使われているかは不明。
奥は如来寺。龍野も寺が多い。
右は如来寺。左の白壁は、龍野の御三家?のひとつ「カネヰ醤油」の蔵。
浦川沿いの通りから一本西(揖保川寄り)の通りは上川原町といわれ、下川原の通りから引き続いて町家が並び、お店となっているところも多い。
上川原と揖保川の間が旭町。路地が連なる。
旭町の北側は「門の外」という町名になっている。
城下町の内外の境がこのあたりにあったのであろうか。
「末廣醤油」の重厚な蔵が並ぶ、門の外界隈。
今度は西に向かい、鶏籠山のふもとを回り込でゆく。
龍野城へのアプローチ。正面は「埋門(うずみもん」という。
城はもとは鶏籠山の山頂にあった山城だったというが
秀吉の頃から山麓に移り、江戸時代には脇坂家が入って藩主となった。
城はもとは鶏籠山の山頂にあった山城だったというが
秀吉の頃から山麓に移り、江戸時代には脇坂家が入って藩主となった。
振り返ると向うに「カネヰ醤油」の煙突が見える。
写真左側が三木露風の生家という。
山麓には旧家老屋敷の名残かと思われる邸宅群がある。
右は街の南側へと流れていく十文字川の上流
右は街の南側へと流れていく十文字川の上流
正面が旧脇坂屋敷のあったところ
十文字川に沿って市街南側へ降りてゆく。
正面は白鷺山。頂上に国民宿舎「赤とんぼ荘」が建つ。
本町界隈からゆるやかにカーブしながら南へと道が続くが、この沿道沿いにも街道筋を思わせる古い町並みが形成されている。(日山地区)
日山町の少し南、揖保川にほど近いところに、このような一角が現れる。
古い蔵の数々と煙突・・・操業している気配はないが、古い醤油工場ではないか。
古い蔵の数々と煙突・・・操業している気配はないが、古い醤油工場ではないか。
ひっそりしている。
煙突を反対側(南側)から見ると・・・
ハイ、かすかに「ヒガシマル醤油第二工場」の文字が見える。
明治期に出来た醤油蔵群ということで、古くから操業していた様子だが、
文字のかすれ具合からはかなり前から「第二工場」だったようでもある。
現在の「第一工場」は川の対岸にある近代的な工場だが、
あるいは大手界隈の蔵群を元は「第一」と言っていたのかもしれない。
ハイ、かすかに「ヒガシマル醤油第二工場」の文字が見える。
明治期に出来た醤油蔵群ということで、古くから操業していた様子だが、
文字のかすれ具合からはかなり前から「第二工場」だったようでもある。
現在の「第一工場」は川の対岸にある近代的な工場だが、
あるいは大手界隈の蔵群を元は「第一」と言っていたのかもしれない。
本町のほうへ戻っていく。
裏通りに入ると、あちこちに寺がある。
ちらほら人通りのある下川原の通り。
古い町家と昭和のレトロビルが混在している。
龍野橋を渡って駅方面へと歩いてみる。
揖保川の流れ。今も美しい清流である。
対岸(東側)にヒガシマルの第一工場が見える。
対岸(東側)にヒガシマルの第一工場が見える。
龍野橋より龍野の旧市街を臨む。
正面右のこんもりした山が鶏籠山。
正面右のこんもりした山が鶏籠山。
龍野橋を渡ったところにレトロな建物。昭和初期に銀行として建てられたという。
今はカフェ「ガレリア アーツアンドティ」として使用されているが、その開業は
1999年というから驚く。20年近くもこうした店を継続するというのは凄いことだ。
今はカフェ「ガレリア アーツアンドティ」として使用されているが、その開業は
1999年というから驚く。20年近くもこうした店を継続するというのは凄いことだ。
ヒガシマル第一工場にも揖保川の支流(水路)が流れている。
やはり清らかな流れだ。この水でヒガシマルの醤油は作られているのか?
やはり清らかな流れだ。この水でヒガシマルの醤油は作られているのか?
と、第一工場近くの道端にこんな遺構を発見!
いつのものか不明だが「龍野醤油株式会社」とある。ヒガシマルの前身企業のひとつだ。
いつのものか不明だが「龍野醤油株式会社」とある。ヒガシマルの前身企業のひとつだ。
駅へと続く道。右はヒガシマル研修センター
龍野周辺のもうひとつの名産「揖保乃糸」(手延べそうめん)
「揖保乃糸」も全国ブランドであるが、単一業者の商品名ではなく、
この地の様々な生産者たちが協力してつくられた統一ブランドだという。
そのような動きは今でこそそう珍しくもないが、なんと明治39年から続くものという。
「揖保乃糸」も全国ブランドであるが、単一業者の商品名ではなく、
この地の様々な生産者たちが協力してつくられた統一ブランドだという。
そのような動きは今でこそそう珍しくもないが、なんと明治39年から続くものという。
さらに駅方面へ進むと真新しい「ヒガシマル食品」の工場。
「うどんスープ」等はこちらで造られている。2012年の竣工だ。
「うどんスープ」等はこちらで造られている。2012年の竣工だ。
旧市街から徒歩15分足らず。駅が見えてきた。
龍野市街の最寄り駅、JR姫新線の「本竜野」駅である。
駅周辺は大規模な再開発中らしく、ややがらんとしている。
龍野市街の最寄り駅、JR姫新線の「本竜野」駅である。
駅周辺は大規模な再開発中らしく、ややがらんとしている。
ローカル線の駅だが、古い駅舎は取り壊されて真新しい駅舎に。
実は別に山陽本線に「竜野」駅もあるが、龍野の旧市街から5kmも離れており
旧市街への玄関口とはいえない。(一日4本のコミュニティバスでのアクセス)
実は別に山陽本線に「竜野」駅もあるが、龍野の旧市街から5kmも離れており
旧市街への玄関口とはいえない。(一日4本のコミュニティバスでのアクセス)
2両編成のローカル列車だが、日中でも30分に一本は確保されている
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本町から、今度は十文字川に沿って山裾の旧武家屋敷方面へと登っていく。
もうおなじみとなった菊屋商店。
ここもおなじみ。日山町への道筋。ここを右に曲がると十文字川の川筋となる。
角の建物も趣深いが、元なんの建物だったかはわからなかった。
角の建物も趣深いが、元なんの建物だったかはわからなかった。
十文字川に沿って続く菊屋商店の白壁。
ここでも醤油づくりが行われていたのだろう。
ここでも醤油づくりが行われていたのだろう。
登ってきて振り返ると、再び白鷺山と「赤とんぼ荘」
大手方面へ降りてゆく道。
なんとも風情のあるタバコ屋。この角を曲がると龍野小学校。
龍野小学校の周辺は旧武家屋敷がたくさん残っており、非常に落ち着いた雰囲気である。小学校自体の広大な敷地も、旧家老屋敷だったのではないか。こんな恵まれた環境で勉強ができる龍野の小学生がうらやましい。
正面のいかめしい門のそばに木札がかかっているが
なんと「龍野小学校水練場」と書かれている。要は学校のプールだと思うが・・
なんと「龍野小学校水練場」と書かれている。要は学校のプールだと思うが・・
そうめん(にゅうめん)の店「霞亭」。麺はもちろん揖保乃糸。
龍野城は「霞城」という風雅な別名を持ち、このあたりの現地名も
「上霞城」(かみかじょう)という
龍野城は「霞城」という風雅な別名を持ち、このあたりの現地名も
「上霞城」(かみかじょう)という
左が旧脇坂(藩主)屋敷跡という。
登りつめたところに龍野神社がある。脇坂家の開祖である脇坂安治を祭神としている。
龍野神社から南の白鷺山まで、山の中腹をめぐる道をたどる。
「文学の小径」と名付けられている。
白鷺山から、また市街地へと降りてゆく。
白鷺山の山裾あたりは、元武家屋敷らしい高級住宅街となっている。
振り返って、山の方を臨む。
右に立派な茅葺屋根の家屋が残されているのがわかる。
立町あたりまで降りてきた。
午後の立町通り。
ヒガシマルの旧醸造施設が並ぶ大手あたり。
うすくち醤油記念館(旧ヒガシマル本社)の隣は旧仕込み蔵。
浦川沿いの白壁群。
下川原へ抜ける旧「豆板の小路」。
朝も来た路地だ。
朝も来た路地だ。
商店の並ぶ下河原の通りに出てきた。
ここから北へ向かおう。
ちょっと広場のようになっている交差点。
龍野では古くから「角目(かどめ」と呼んで町民の憩いの場になっていたという。
ここから北は上川原になる。
龍野では古くから「角目(かどめ」と呼んで町民の憩いの場になっていたという。
ここから北は上川原になる。
上川原通りを歩く前に、うしろにある煙突が気になって西側へと回り込む。
カネヰ醤油の煙突でした。
この蔵もまた趣深い。
ここを進むとまた大手界隈に戻ってしまう。
カネヰ醤油の向かいの山裾に、醤油資料館別館なる建物が。
レンガ造りの瀟洒な洋館風が覗いているが、
大正13年に龍野醤油協同組合の事務所として 建てられたものという。
レンガ造りの瀟洒な洋館風が覗いているが、
大正13年に龍野醤油協同組合の事務所として 建てられたものという。
再び上川原の通りへ戻り北上する。
下河原の商店街は善龍寺に突き当たって終わり。
さらに北東へ進むと「門の外」という町名になる。
龍野第二のメーカー「末廣醤油」は「門の外」にある。
「門の外」から旭町、水神町あたりの路地を歩く。
ぐるぐると同じところばかり歩き回っている。
再び豆板の小路。
龍野は非常に清廉、健康的な雰囲気のする町で、色町めいた部分がすくない。
実際、龍野にはここといった色町は存在せず、妓楼などは町中に散在していたという。
そんな中でも、豆板の小路から西へとつづく「桶屋町」の界隈は、少しだけ艶やかな香りを今に伝えている。
桶屋町夕景。
料亭「みやぎく」の看板が見える。
料亭「みやぎく」の看板が見える。
本町へ抜ける道。
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再び、山裾の武家屋敷方面へあるいていく。
小学校入口近くのタバコ屋さん
旧脇坂屋敷付近。
龍野城の入口付近から市街を臨む。少し先の横断歩道のあたりに大手門があったという。
左の蔵と楼閣のある建物は、現在は人家のようだが、もとは何だろうか。
左の蔵と楼閣のある建物は、現在は人家のようだが、もとは何だろうか。
立町かいわい。
夕暮れ時の下川原通り。
「とゆに注意」の看板が微笑ましい
右のお店は醤油饅頭で有名な「觜崎屋」(はしさきや) 本店。
そう、龍野にはもうひとつ名物がある。「觜崎屋」のほかにも「吾妻屋」「大三萬年堂」等
静かな旧市街のあちこちに和菓子屋があるのだ。昔から茶の湯もさかんだという。
うすくち醤油を生地に練りこんだ醤油饅頭は「ひしお饅頭」等とも呼ばれるが
どの店でも看板商品である。田舎町の温泉まんじゅうのような野暮ったいものを
想像していると良い意味で裏切られる。かじった瞬間にほんのり香るもろみの匂い、
餡の甘味に醤油のしょっぱさがわずかに加わり、絶妙な味わいのバランス。
非常に洗練された品の良い菓子だ。これでひとつ120円は安い。是非お試しあれ。
そう、龍野にはもうひとつ名物がある。「觜崎屋」のほかにも「吾妻屋」「大三萬年堂」等
静かな旧市街のあちこちに和菓子屋があるのだ。昔から茶の湯もさかんだという。
うすくち醤油を生地に練りこんだ醤油饅頭は「ひしお饅頭」等とも呼ばれるが
どの店でも看板商品である。田舎町の温泉まんじゅうのような野暮ったいものを
想像していると良い意味で裏切られる。かじった瞬間にほんのり香るもろみの匂い、
餡の甘味に醤油のしょっぱさがわずかに加わり、絶妙な味わいのバランス。
非常に洗練された品の良い菓子だ。これでひとつ120円は安い。是非お試しあれ。
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下川原からさらに南へ。
川原町という細い通りとなる。
この通りにもちらほら老舗が残る。
さらに南へ歩いていく。
向こうにヒガシマル第二工場の古い煙突が見えてきた。
左の洋館は個人宅。
再び、第二工場(跡?)。
これだけ遺構が残っているのはもはや産業遺産である。何かできないか。
これだけ遺構が残っているのはもはや産業遺産である。何かできないか。
散策を終えてみて、ひとつだけ気になることがあった。それは、この素晴らしい情緒を保った龍野の旧市街が、これまで歩いてきた町に比べて、どことなく「町」「街」という感じがしないことである。町らしい求心性、独立性が希薄で、単なる一エリアという感じがする。そう、京都における「嵐山」のように。。。
どうしてそういう感じを受けるのか、今もってわからない。歩く人が少ない、中心となるエリアに衰退が目立つ、ただそういうことならば、他の町も軒並み同じであったし、龍野に独自の文化が感じられないということもない。。おそらく、姫路等の都市から十分に近く、都市性という意味では周辺地域に埋没してしまっている、呑み込まれている感じがするからだろうか。地形的にも、また産業的にも閉鎖性が少なく、他に向かって開かれていることも影響しているのかもしれない。あるいは、お店はちらほらあっても、「飲食店」がほとんど見られない、というような単純な理由かもしれない。その地で飲食をしなければ、どうも私はその町を「体で経験した」という気になれず、傍観者のまま去ってしまった気がするのである。
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日没後の町
本町界隈
觜崎屋
下川原商店街
こちらは「吾妻屋」。觜崎屋と並ぶ有名店。
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◎今回の宿 「片しぼ竹の宿 梅玉」(梅玉旅館)
龍野は宿泊施設が少ない。旧市街には白鷺山の国民宿舎「赤とんぼ荘」と、この旅館があるきりだ。今回私は選んだのはこちら。山裾の古い家老屋敷の敷地内に建つ立派な宿。
今日の宿泊客は少なく、おかみさんが部屋をアップグレードしてくれた上、つかず離れずでよく面倒を見てくれた。非常に印象の良い宿であった。
右はレストラン等のある新館、左が旧館。
旧館は「男はつらいよ」にも登場する
部屋は旧館内だったが、大変きれいに改装されている。
抜群の居心地で、心ゆくまでゆったり休むことができた。
抜群の居心地で、心ゆくまでゆったり休むことができた。
風呂もヒノキ(ヒバ?)の香りがしていうことなし。
撮影:2015年10月
本文:2016年1月、2020年3月
本文:2016年1月、2020年3月
2017-02-14 21:29
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