結城 2015 [日本の町散歩(関東)]
結城という町の名前は、小学校のころから知っていた。今でも小学生たちは「結城紬」を学ぶのだろうか。日本の重要文化財である、伝統工芸品の最高級絹織物。それがどんなものかは知らなくても、「ゆうきつむぎ」という語感の美しさは大人になった今も覚えている。そして今回、ふらりとその結城という町にやって来た。
思いのほか沢山の店蔵が健在で、関東圏の町としてはちょっと意外なくらいに味わい深い町並みが残っている。そして大切なことは、そんな町並みが現役の「町」として今もきちんと機能していて、いきいきしたものが感じられることである。数は減ったとはいえ、結城には今も紬の工房や問屋がいくつも残っていて、それがこの町を産業的にも精神的にも、いまだしっかりと自立せしめているように思われた。
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・裏通りの風情
肝入町から浦町にかけての裏通りの表情。
再び表通りへ。
駅前から続く通りを北上し、浦町のさらにひとつ北の交差点が、町の中心であった大町の辻である。大町交差点を東西に貫くのが大町通りで、結城紬の問屋がずらりとならんだ賑やかな場所であったという。
さらに駅前通りを北へ。
大町通りのひとつ北が西の宮住吉通り。
通りの北側にある住吉神社にちなんで付けられた名前である。
鈴木紡績の蔵。
・駅前通りの西側へ
駅前通りの西側は寺町である。主だったものだけでも、妙国寺、光福寺、金福寺、弘経寺、孝顕寺、称名寺、常光寺等があり、静かで落ち着いた雰囲気の界隈である。そんな中に「武勇蔵元」と「結城酒造」の二つの酒蔵があるのがまたゆかしい。
西の宮住吉通りを東へ歩いてゆく。
・結城城への道
結城はまた城下町でもあった。鎌倉時代、源頼朝の家臣として勃興し、その後栄華を築いた結城一族の城のあとが、町の北東のはずれに残されている。結城の街歩きを楽しんだら、次は城跡を訪ねてみるのも面白い。
城跡へは、西の宮住吉通りの東の端から、北東へと伸びる玉岡通りを歩いてゆく。
玉岡通りを5分ほど進むと、すぐに結城用水にかかる橋に出てくる。
ここより北東が、結城城の場内であった。
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城跡から戻り、引き続き町の散策を再開する。
住吉神社前から北へ伸びる道筋が紺屋町、その先が鍛冶町である。
ここから、駅前通りを駅へと引き返してゆく。
・・・ちょっと、寄り道。西の宮住吉通りを少し東に入ったあたりで見つけたこちらの路地。
・・・駅前通りに戻る。
思いのほか沢山の店蔵が健在で、関東圏の町としてはちょっと意外なくらいに味わい深い町並みが残っている。そして大切なことは、そんな町並みが現役の「町」として今もきちんと機能していて、いきいきしたものが感じられることである。数は減ったとはいえ、結城には今も紬の工房や問屋がいくつも残っていて、それがこの町を産業的にも精神的にも、いまだしっかりと自立せしめているように思われた。
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駅前通りより結城駅(JR水戸線)を臨む。駅は近代化されている。
結城駅前の町並み
大がかりな公共施設等はあるが、
個人商店であったと思しき建物は軒並みシャッターを下ろしている
個人商店であったと思しき建物は軒並みシャッターを下ろしている
駅前からそのまま市街地に続く道が結城のメインストリート。
少し進むと右側に現役の石崎旅館がある。このあたりは肝入町という。
通りの左右の建物について、伝統的な建物が否かを問わず、それが何屋なのかを
示す統一された木製の看板が手近の街路灯に取り付けられている。
右の伝統的建築は石崎旅館なので「宿や」という看板。左の昭和なブティックは「婦人服」の看板。
示す統一された木製の看板が手近の街路灯に取り付けられている。
右の伝統的建築は石崎旅館なので「宿や」という看板。左の昭和なブティックは「婦人服」の看板。
肝入町から少し北の浦町あたり。
浦町あたりまで来ると、なかなか壮観な町並みである。
のれんが翻っている店は秋葉糀味噌醸造。
天保3年創業の老舗で今も伝統的製法で「つむぎみそ」等を造る。
天保3年創業の老舗で今も伝統的製法で「つむぎみそ」等を造る。
浦町の交差点。
浦町から東西へ伸びるのが健田(たけだ)通り。
角の制服店も興味深いがその次の店(見世)蔵も良い。
明治8年建築の金物店で、現在も鋼材会社の本店として現役である。
街路灯の例の看板には「鐵屋」と書かれている。
明治8年建築の金物店で、現在も鋼材会社の本店として現役である。
街路灯の例の看板には「鐵屋」と書かれている。
・裏通りの風情
肝入町から浦町にかけての裏通りの表情。
再び表通りへ。
駅前から続く通りを北上し、浦町のさらにひとつ北の交差点が、町の中心であった大町の辻である。大町交差点を東西に貫くのが大町通りで、結城紬の問屋がずらりとならんだ賑やかな場所であったという。
現在の大町交差点。
大町通り(東側)から見た大町交差点。
大町かいわい。駐車場が増えたが蔵も健在。
大町交差点から見た現在の大町通り。問屋街という感じではなくなっているが、
今もいくつかの老舗問屋が古い店蔵で営業を続けている。
今もいくつかの老舗問屋が古い店蔵で営業を続けている。
古い店蔵を利用した観光休憩所。
大町通りを西に進むと、現役の結城紬の製造販売元「縞屋」
「奥順」の現役店舗。いまもここで商取引が行われている。
「奥順」の現役店舗。いまもここで商取引が行われている。
さらに駅前通りを北へ。
大町通りのひとつ北が西の宮住吉通り。
通りの北側にある住吉神社にちなんで付けられた名前である。
交差点。角にある建物は元何屋だったのだろうか?
独特の看板建築が興味をひく。
独特の看板建築が興味をひく。
甘味茶屋「真盛堂」。和菓子屋が隣の蔵をリノベーションしてオープンした和カフェ。
結城にはこうしたリノベーション店舗が比較的少なかったが、これから増えてくるかもしれない。
結城にはこうしたリノベーション店舗が比較的少なかったが、これから増えてくるかもしれない。
鈴木紡績の蔵。
交差点から西の宮住吉通り(東方)を見る
西の宮住吉通りを少し西に入ったところから交差点を見る。
こちらも交差点に面した建物。
・駅前通りの西側へ
駅前通りの西側は寺町である。主だったものだけでも、妙国寺、光福寺、金福寺、弘経寺、孝顕寺、称名寺、常光寺等があり、静かで落ち着いた雰囲気の界隈である。そんな中に「武勇蔵元」と「結城酒造」の二つの酒蔵があるのがまたゆかしい。
浦町交差点から西へ続く道。
武勇蔵元。
結城はまた味噌、醬油のほか酒造りもさかんであった。
結城はまた味噌、醬油のほか酒造りもさかんであった。
孝顕寺参道。
与謝蕪村が滞在したという弘経寺。
弘経寺の東門より西の宮住吉通り方面を見る。
西の宮住吉通りを東へ歩いてゆく。
途中の路地にも趣きがある。
面白い板張りの家。
西の宮住吉通りの東のつきあたりに薬師堂がある。
・結城城への道
結城はまた城下町でもあった。鎌倉時代、源頼朝の家臣として勃興し、その後栄華を築いた結城一族の城のあとが、町の北東のはずれに残されている。結城の街歩きを楽しんだら、次は城跡を訪ねてみるのも面白い。
城跡へは、西の宮住吉通りの東の端から、北東へと伸びる玉岡通りを歩いてゆく。
玉岡通り。
歩道がよく整備され、左の結城小学校の塀は築地塀が再現されている。
歩道がよく整備され、左の結城小学校の塀は築地塀が再現されている。
玉岡通りを5分ほど進むと、すぐに結城用水にかかる橋に出てくる。
ここより北東が、結城城の場内であった。
右の水路が結城用水。左に見えるのは住宅地の親水公園である。
そして、この親水公園が、結城城の南側の濠のあとであるという。
さて、結城用水をわたり、城跡へはごく緩やかな上り坂である。
あたりはすっかり田園風景に。
しかし、どことなく、武家屋敷が並んでいたような雰囲気もする。
内堀跡にかかる橋
現在の、結城城本丸跡である。とくに整備されず公園となっている。
西側に残る内堀のあと。
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城跡から戻り、引き続き町の散策を再開する。
結城市役所の塀も白い築地塀。
住吉神社前。
石町かいわい。
住吉神社前から北へ伸びる道筋が紺屋町、その先が鍛冶町である。
紺屋町。このあたりも古い商店が並び、趣き深い。
紺屋町から駅前通りへ出たところにある、大変趣き深い理髪店。
ここから、駅前通りを駅へと引き返してゆく。
・・・ちょっと、寄り道。西の宮住吉通りを少し東に入ったあたりで見つけたこちらの路地。
中ほどに、非常に立派な石造りの看板建築の建物がある。
この立派な構えの店、「増田書店」と書かれている。
いまは廃業している様子である。
いまは廃業している様子である。
・・・駅前通りに戻る。
左に醬油蔵の小田屋、右にお茶の赤萩。どちらも老舗である。
浦町交差点のところで制服屋と書いた店、石塚洋品店。
撮影:2015年12月
2017-02-23 22:43
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