弘前 2016 [日本の町散歩(東北)]
弘前は云わずと知れた津軽地方の中心都市。だが、この街がこんなに垢抜けた、すがすがしい都会であるとは、正直想像していなかった。
もとは津軽藩の城下町であった弘前ゆえ、もちろん弘前城や武家屋敷群が観光の目玉である訳だが、明治、大正期に建てられた多数の洋館が今なお残るのもまた、弘前の魅力である。
明治以降は東奥義塾の設立をはじめ、学術文化の都を目指して外国人教師を多数招聘した弘前。どこかオープンで進歩的な風が、ずっと時代がくだった今も、なお弘前の町を包んでいるように思われる。洋館めぐりの楽しさもさることながら、フランス料理店やカフェの多さはすでに良く知られているし、街ゆく人のファッションにもこの地ならではの洗練が感じられる。
そして、空を見上げればどこからでも見える、たおやかな岩木山。漂ってくる、ほのかなりんごの花の香り。
こんな弘前を私が歩いたのは、五月の良く晴れた日であった。
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まずは弘前城へ向かおう。
すぐに弘前城のお堀端に出る。
二の丸へ足を踏み入れると、早くも弘前城天守が見えてちょっと拍子抜けする。
というのも、現在、天守閣下の石垣の修理の為、天守が少し場所を移転しているからでもある。
西濠にかかる橋を渡り、弘前城域(弘前公園)を出る。
この屯所のある、西濠の西側地区を、紺屋町という。染物屋さんが立ち並んだ一角であろう。
東へ歩き、城の北側の仲町へ進んでいくと、街並みがいっそう落ち着いてくる。
城の東側を歩く。繁華街に近く、いろいろ入り混じった面白いエリアである。
本当に、弘前城の周辺は名建築のオンパレードだ。
弘前にはそれを支える腕利きの棟梁集団がいたらしい。堀江佐吉とその一族一門で、最初のほうに出てきた青森銀行弘前支店や図書館などはすべて堀江佐吉の設計・施工になるという。佐吉な施工だけでなくもともとの設計からできたというのもすごい。
先ほどからのカトリック教会、翠明荘、プロテスタント教会などもすべてその一門の名工たちの手になるもので、カトリック教会は堀江佐吉の弟である横山常吉、翠明荘は佐吉の九男の堀江弥助、日本キリスト教団弘前教会は佐吉の四男の斎藤伊三郎の手になるものという。まさに競作。
様式はいろいろに異なり、設計者もばらばらだが、それを実際に形にする確かな技術と、それを可能にする文化的教養の幅広さが、当時の弘前に存在したということだろう。
弘前の中心街である土手町界隈は、様々な世代の人々で非常に活気があり、地方都市につきものの空洞化、シャッター通りというものとは無縁のような雰囲気に驚いた。
センスのあるお店も多く、若い人々や女性も通りを闊歩していて、どこか神戸のような開かれた明るさがあるように思う。
さて、土手町の南には「鍛冶町」と呼ばれる一帯が広がっている。
この鍛冶町こそが弘前の歓楽街である。歓楽街は夕刻に行くものだが
ちょっとだけ覗いてみることにする。
鍛冶町はいったん素通りし、市内南西部にある寺町「禅林街」へ向かう。
津軽氏の菩提寺、長勝寺の境内を散策する。
禅林街を出て、すぐ南の住宅街を歩く。
最勝院のすぐ脇を二両編成の郊外電車がかすめて走っている。
付近は住宅地。
先ほどの弘南鉄道大鰐線の「弘高下」駅に出てきた。
せっかくなので、たった一駅だが、電車に乗って市内中心部へ戻ることにしよう。
こんどは鍛冶町方面へ歩いてみる。
夕暮れ時、”仕事始め”の前の歓楽街の息づかいというのは、中々素敵だ。
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逢魔が時・・・ネオンがちらつき始める時刻。
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◎弘南鉄道大鰐線の旅◎
繁華街の片隅から郊外電車が出ているのも弘前の魅力のひとつ。旅先で、ジモティに交じって郊外電車に揺られるのは面白い。自分も弘前の住人になったような気がする。弘前には弘南鉄道という電鉄があり、JR弘前駅から出て黒石方面へ向かう弘南線と、この中央弘前から出ている大鰐線の2路線がある。今回は、大鰐線に乗ってみた。岩木山を車窓に見ながら住宅街やリンゴ畑を抜けて南へと走り、途中12の駅を経て大鰐温泉が終点だ。
こんどは夕暮れ時に・・
こんどは少し(2駅)戻って、「千年(ちとせ)」駅。
中央弘前から4駅め。都市郊外住宅地という雰囲気だ。
もとは津軽藩の城下町であった弘前ゆえ、もちろん弘前城や武家屋敷群が観光の目玉である訳だが、明治、大正期に建てられた多数の洋館が今なお残るのもまた、弘前の魅力である。
明治以降は東奥義塾の設立をはじめ、学術文化の都を目指して外国人教師を多数招聘した弘前。どこかオープンで進歩的な風が、ずっと時代がくだった今も、なお弘前の町を包んでいるように思われる。洋館めぐりの楽しさもさることながら、フランス料理店やカフェの多さはすでに良く知られているし、街ゆく人のファッションにもこの地ならではの洗練が感じられる。
そして、空を見上げればどこからでも見える、たおやかな岩木山。漂ってくる、ほのかなりんごの花の香り。
こんな弘前を私が歩いたのは、五月の良く晴れた日であった。
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弘前パークホテルより市街地を臨む。
市内のどこからでも見ることのできる、この岩木山の美しい姿に見惚れてしまう。
市内のどこからでも見ることのできる、この岩木山の美しい姿に見惚れてしまう。
まずは弘前城へ向かおう。
朝から活気のある中心街。
レトロな喫茶店も
というか、ビル自体がレトロである。
この「三上ビル」は、昭和2年に弘前無尽(弘前相互銀行の前身)
の社屋として建てられたもので、弘前市内でも二番目のモダンな
鉄筋コンクリートビルであったという。
青森工業学校の学長自ら設計した建物といい、当時の心意気が伺える。
の社屋として建てられたもので、弘前市内でも二番目のモダンな
鉄筋コンクリートビルであったという。
青森工業学校の学長自ら設計した建物といい、当時の心意気が伺える。
なんてことない風景にも弘前の面白さが。
またまた文化財級の建物が。
こちらは旧青森銀行本店(現弘前支店)という。明治37年の建築だ。
青森銀行なのに、本店が青森市ではなく当時弘前に置かれたというのが良い。
現在の青森銀行弘前支店のビルはすぐ隣にある。
こちらは旧青森銀行本店(現弘前支店)という。明治37年の建築だ。
青森銀行なのに、本店が青森市ではなく当時弘前に置かれたというのが良い。
現在の青森銀行弘前支店のビルはすぐ隣にある。
すぐに弘前城のお堀端に出る。
このお堀端は追手門通りであり、市役所をはじめとする官公庁や公共施設が集結している。
追手門通りに面して整備された追手門広場。
右奥にきれいに整備された図書館などの文化施設が見えるが、
左の洋館はなんと初代の弘前市立図書館(明治39年築)という。
右奥にきれいに整備された図書館などの文化施設が見えるが、
左の洋館はなんと初代の弘前市立図書館(明治39年築)という。
初代弘前市立図書館を正面から見る。和洋折衷の素晴らしいデザインである。
このような建物が当時の技術で建造され、今も現存することが不思議な気がする。
このような建物が当時の技術で建造され、今も現存することが不思議な気がする。
図書館の奥に、これまた素敵な洋風建築がある。
こちらは東奥義塾の外国人教師の宿舎として明治33年に建てられたものという。
弘前のモダン文化を牽引したともいえる東奥義塾の外国人教師たちの住まいというから
大変意義深い建物である。現在はカフェなどとして使用されている模様。
こちらは東奥義塾の外国人教師の宿舎として明治33年に建てられたものという。
弘前のモダン文化を牽引したともいえる東奥義塾の外国人教師たちの住まいというから
大変意義深い建物である。現在はカフェなどとして使用されている模様。
追手門通りの外濠沿いは見事な散策路。
いよいよ追手門前。
城内に入り、追手門を振り返ったところ。
傍らの八重桜が美しい。
傍らの八重桜が美しい。
中濠。
弘前城のお堀は正面側が外濠、中濠、内濠の3重構造
背後は蓮池濠、西濠の二重構造となっている。
弘前城のお堀は正面側が外濠、中濠、内濠の3重構造
背後は蓮池濠、西濠の二重構造となっている。
左に見える赤い「杉の大橋」を渡ると二の丸である。
二の丸へ足を踏み入れると、早くも弘前城天守が見えてちょっと拍子抜けする。
というのも、現在、天守閣下の石垣の修理の為、天守が少し場所を移転しているからでもある。
ややこじんまりとしているが、楚々とした風情が好ましい。
しかし、関東以北で現存する唯一の天守という。
本来の石垣上に乗った堂々たる天守を見に、いつの日かまた訪れたい。
しかし、関東以北で現存する唯一の天守という。
本来の石垣上に乗った堂々たる天守を見に、いつの日かまた訪れたい。
そして、本丸からは美しい岩木山が良く見える。
弘前城天守背後の蓮池濠。
そしてこの、なみなみと水を湛えた西濠がとても気持ち良い。
一見したところお堀には見えないが、岩木川の流れを引き込んだものだったという。
一見したところお堀には見えないが、岩木川の流れを引き込んだものだったという。
そして、ここからも岩木山が見える。
西濠の対岸(西側)にはしゃれた家並みも。
西濠の周りは桜の木で囲まれており、遊歩道も整備されている。
桜の時期はさぞかし圧巻であろう。
桜の時期はさぞかし圧巻であろう。
西濠にかかる橋を渡り、弘前城域(弘前公園)を出る。
西濠のすぐ近くで見つけた趣ある建物。
昭和8年建築の、旧消防屯所という。とすると、一番上は火の見櫓か。
当時の名士の寄付により建築された建物で、右が消防屯所、左が警察派出所として
消防と警察が同居する形となっていたという。
昭和8年建築の、旧消防屯所という。とすると、一番上は火の見櫓か。
当時の名士の寄付により建築された建物で、右が消防屯所、左が警察派出所として
消防と警察が同居する形となっていたという。
この屯所のある、西濠の西側地区を、紺屋町という。染物屋さんが立ち並んだ一角であろう。
特徴ある洋風建築もある。
山口製畳所の建物も趣き深い。明治期の町屋という。
山口製畳所は前の歩道に張り出した「こみせ」が残る。
「こみせ」は新潟の雁木などと同じく、雪よけの為の昔のアーケードである。
「こみせ」は新潟の雁木などと同じく、雪よけの為の昔のアーケードである。
紺屋町の中を流れるとうとうとした水路。
岩木川から西濠へ水を運んできているのもこの道筋のようだ。
岩木川から西濠へ水を運んできているのもこの道筋のようだ。
東へ歩き、城の北側の仲町へ進んでいくと、街並みがいっそう落ち着いてくる。
北門(亀甲門)にほど近い仲町(なかちょう)は、武家屋敷が立ち並んだあたりという。
今もその風情を残しており、伝統的建造物群保存地区に指定されている。
今もその風情を残しており、伝統的建造物群保存地区に指定されている。
旧梅田家住宅。
梅田家住宅の南側には旧伊東家住宅。
藩医を務めた家の住宅であるという。
藩医を務めた家の住宅であるという。
このあたりの生垣にはサワラという樹木が使用されている。
ヒノキ科の樹木でこのあたりが生育の北限でもあり
生長がゆっくりである為、「生垣に良い」と藩が推奨したものらしい。
ヒノキ科の樹木でこのあたりが生育の北限でもあり
生長がゆっくりである為、「生垣に良い」と藩が推奨したものらしい。
弘前城の北門(亀甲門)あたりに出てきた。
北門の前には石場家住宅。現在も酒屋として現役である。
外濠の一部である北濠から眺める岩木山。
弘前は雪の関係か個性的な屋根の家が散見される
城の北東角にある「津軽藩ねぷた村」。
ねぷた祭りに関する展示や津軽の工芸、特産を扱う施設。
青森市では「ねぶた」であるが、弘前のは「ねぷた」である。
ねぷた祭りに関する展示や津軽の工芸、特産を扱う施設。
青森市では「ねぶた」であるが、弘前のは「ねぷた」である。
城の東側を歩く。繁華街に近く、いろいろ入り混じった面白いエリアである。
優美な弘前カトリック教会。明治43年建築。
また風格ある建物が。。
こちらは翠明荘といい、昭和初期に青森銀行頭取の別宅として建てられた。
現在は懐石料理の店として使用されている。
現在は懐石料理の店として使用されている。
石場旅館。明治12年創業のレトロな宿はいまも現役。人気の宿だ。
また教会? そうです。
こちらはプロテスタント系の日本キリスト教団の弘前教会。
堂々たるゴシック様式。明治39年建築。
こちらはプロテスタント系の日本キリスト教団の弘前教会。
堂々たるゴシック様式。明治39年建築。
本当に、弘前城の周辺は名建築のオンパレードだ。
弘前にはそれを支える腕利きの棟梁集団がいたらしい。堀江佐吉とその一族一門で、最初のほうに出てきた青森銀行弘前支店や図書館などはすべて堀江佐吉の設計・施工になるという。佐吉な施工だけでなくもともとの設計からできたというのもすごい。
先ほどからのカトリック教会、翠明荘、プロテスタント教会などもすべてその一門の名工たちの手になるもので、カトリック教会は堀江佐吉の弟である横山常吉、翠明荘は佐吉の九男の堀江弥助、日本キリスト教団弘前教会は佐吉の四男の斎藤伊三郎の手になるものという。まさに競作。
様式はいろいろに異なり、設計者もばらばらだが、それを実際に形にする確かな技術と、それを可能にする文化的教養の幅広さが、当時の弘前に存在したということだろう。
おっ、また名建築。
こちらは明治13年建築。弘前では最古の洋風建築だそう。
元は呉服屋として建てられたが、のち津軽銀行となった。
なんと平成10年まで現役の現行だったという。
現在は市が運営する文化施設「百石町展示館」となっている。
元は呉服屋として建てられたが、のち津軽銀行となった。
なんと平成10年まで現役の現行だったという。
現在は市が運営する文化施設「百石町展示館」となっている。
百石町(ひゃっこくまち)というのがこのあたりの地名。
由来は定かではないそうだが、趣のある地名である。
由来は定かではないそうだが、趣のある地名である。
「百石町展示館」のすぐ向かいの和菓子店「笹の舎(ささのや)」
こじんまりとしているが、こちらも面白い建物である。
こじんまりとしているが、こちらも面白い建物である。
中心街に戻ってきた。
目抜き通りである土手町(どてまち)通り
弘前の中心街である土手町界隈は、様々な世代の人々で非常に活気があり、地方都市につきものの空洞化、シャッター通りというものとは無縁のような雰囲気に驚いた。
センスのあるお店も多く、若い人々や女性も通りを闊歩していて、どこか神戸のような開かれた明るさがあるように思う。
「土手町」の町名の由来となった土淵川。
この川の土手を中心に発達した町であるという。
この川の土手を中心に発達した町であるという。
土淵川にかかる橋。
背後は「中三(なかさん)」という地元のデパート。
地元デパートが健在なのも嬉しい。
背後は「中三(なかさん)」という地元のデパート。
地元デパートが健在なのも嬉しい。
赤い看板が印象的な「HOMEWORKS」も弘前発のリビング・雑貨店だ。
土手町だけでも4店舗構えているとのこと。
土手町だけでも4店舗構えているとのこと。
ちょっとした裏道にも洒落た表情が
向うにかすむ、教会のシルエット。今度は、日本聖公会。英国国教会の教会である。
弘前は、教会の多い町でもある。
弘前は、教会の多い町でもある。
土手町通りに、また面白い建物を発見。
「一戸時計店」。どうりで時計塔があるはずだ。明治30年の築という。
このようなお店が開業当時の建物のまま現役を続けているのが、弘前の奥の深さだ。
このようなお店が開業当時の建物のまま現役を続けているのが、弘前の奥の深さだ。
いつまでも残ってほしい。
と、時計店の左のピンクの建物も気になる。
「弘前中央食品市場」? 地方都市によくある昭和の残骸か?
と思っていたら、うら若き女子たちが出て来た。
ならば、入ってみよう!
「弘前中央食品市場」? 地方都市によくある昭和の残骸か?
と思っていたら、うら若き女子たちが出て来た。
ならば、入ってみよう!
おお、これぞ市場。昭和47年オープンの市場で、八百屋や鮮魚店など昔懐かしい雰囲気。
しかもいまも結構人通りがある。
しかもいまも結構人通りがある。
少し奥へ進むとラーメン屋やカフェ?等もある。
空いたスペースには若い人がフリマのような雰囲気で新しいお店を出している
。マーケットの裏口近くではねぷたの小さいのが展示されていた。
さて、土手町の南には「鍛冶町」と呼ばれる一帯が広がっている。
この鍛冶町こそが弘前の歓楽街である。歓楽街は夕刻に行くものだが
ちょっとだけ覗いてみることにする。
土手町から鍛冶町に通じる小路のひとつ、「かくみ小路」。
なんともいい雰囲気。
なんともいい雰囲気。
「かくみ小路」の名の由来は、この小道が土手町に出る角に
かつて「角み呉服店」という店があったことから来ているとの事。
かつて「角み呉服店」という店があったことから来ているとの事。
鍛冶町に出て来た。正面の通りは新鍛冶町通り。
ネオンサインの並ぶ近代ビルが多い鍛冶町だが、古い建物も。
こんな路地の奥にも飲み屋が連なる(城東閣とよばれる路地)。
鍛冶町のメインストリート、鍛冶町通り。
鍛冶町はいったん素通りし、市内南西部にある寺町「禅林街」へ向かう。
「禅林街」入り口。大変厳かな雰囲気だ。
津軽藩が領内の禅寺を集めた地域であり、
曹洞宗の寺院が通りの両側にずらりと並ぶ
曹洞宗の寺院が通りの両側にずらりと並ぶ
それにしても、藩政時代の寺町の雰囲気が
ここまで色濃く残っているところは少ないのではないか。
ここまで色濃く残っているところは少ないのではないか。
禅林街に並ぶ33の寺院のうちのひとつ、寶積院。
似たようでいて少しずつ表情の違う寺が並ぶ。
似たようでいて少しずつ表情の違う寺が並ぶ。
寺院と寺院の間の路地の表情も面白い。
高徳院。
万蔵寺。
禅林街の一番奥の突き当りにある長勝寺の山門。
津軽藩の菩提寺を務めた。
津軽藩の菩提寺を務めた。
長勝寺山門より本堂を臨む。
最奥の長勝寺山門前より禅林街を振り返って見たところ。
津軽氏の菩提寺、長勝寺の境内を散策する。
本堂左側に並ぶ五棟の霊廟。いずれも津軽家のものという。
禅林街を出て、すぐ南の住宅街を歩く。
田澤刃物製作所。現役の工房である。
このあたり、「茂森新町」という町名のようだ。どことなく風雅な地名。
雪国、弘前では特徴のある屋根を見ることも多い。
禅林街から新寺町へ上がってゆく坂道。
先ほどの坂道を新寺町に上がったところにある「加藤味噌醤油醸造所」
こちらももちろん現役である。
こちらももちろん現役である。
建物全景。
この通りは「新寺町」という。禅林街ほど濃厚な風情はないが
こちらも多くの寺院が並ぶ(曹洞宗だけではない)
こちらも多くの寺院が並ぶ(曹洞宗だけではない)
「本行寺」
もともと、弘前の寺町は弘前城の東側にあった(現在の「元寺町」)という。
しかし江戸時代に大火があり、焼失した寺院が数多くこちらの「新寺町」に移って
再興を図ったという。
もともと、弘前の寺町は弘前城の東側にあった(現在の「元寺町」)という。
しかし江戸時代に大火があり、焼失した寺院が数多くこちらの「新寺町」に移って
再興を図ったという。
圓明寺。
新寺町の最も東にある最勝院。
境内の五重塔が見え隠れしている。
境内の五重塔が見え隠れしている。
最勝院山門より本堂を覗く。
東北地方唯一の五重塔という。
最勝院のすぐ脇を二両編成の郊外電車がかすめて走っている。
弘南鉄道大鰐線。
鍛冶町近くにある中央弘前駅から南へ13.9km、大鰐温泉までを走る。
鍛冶町近くにある中央弘前駅から南へ13.9km、大鰐温泉までを走る。
付近は住宅地。
先ほどの弘南鉄道大鰐線の「弘高下」駅に出てきた。
せっかくなので、たった一駅だが、電車に乗って市内中心部へ戻ることにしよう。
「弘高」は、すぐ近くにある弘前高校のことと思われる。
住宅街のいい雰囲気の駅だが、利用者は少ないようだ。
電車がやってきた。
乗車することわずか2分で、終点の中央弘前駅に到着。
たいへんレトロな「中央弘前」駅。
いまは利用客はそれほどでもないようだが、鍛冶町や土手町にほど近く便利。
というより、この駅が出来たことで鍛冶町が繁華街として発展した由。
いまは利用客はそれほどでもないようだが、鍛冶町や土手町にほど近く便利。
というより、この駅が出来たことで鍛冶町が繁華街として発展した由。
先ほど、土手町通りから見えた日本聖公会の弘前教会。
大鰐線の中央弘前駅のすぐ近くにある。
大鰐線の中央弘前駅のすぐ近くにある。
中央弘前駅のすぐわきにこのような煉瓦倉庫も残っている。
明治から大正にかけて酒造工場として建設され、
日本酒やシードルが醸造されていたという。
現在は弘前市によってミュージアムとなっており、
弘前出身のアーティストである奈良美智の個展会場等としても知られる。
明治から大正にかけて酒造工場として建設され、
日本酒やシードルが醸造されていたという。
現在は弘前市によってミュージアムとなっており、
弘前出身のアーティストである奈良美智の個展会場等としても知られる。
周辺は公園として整備されている。
大鰐線の中央弘前駅ふたたび。
こんどは鍛冶町方面へ歩いてみる。
夕暮れ時、”仕事始め”の前の歓楽街の息づかいというのは、中々素敵だ。
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逢魔が時・・・ネオンがちらつき始める時刻。
鍛冶町通りと新鍛冶町通りを結ぶ路地、「城東閣」
鍛冶町通り。
こちらは新鍛冶町通り。
「テアトル弘前」も健在。いまどき文化財級ともいえるピンク映画館である。
こうゆう「飲み屋街の中華」って旨いんだよな~
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「かくみ小路」
古くからのスナックのみならず、イケてるバーや料理屋も多数。
古くからのスナックのみならず、イケてるバーや料理屋も多数。
新鍛冶町通り。角にくすり屋が健在なのも飲み屋街らしい。
鍛冶町通りには客待ちのタクシーがずらり。
正しい歓楽街の光景といえる。
正しい歓楽街の光景といえる。
弘前って都会なんだなあ
このまま私も沈没しよう・・・
このまま私も沈没しよう・・・
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◎弘南鉄道大鰐線の旅◎
繁華街の片隅から郊外電車が出ているのも弘前の魅力のひとつ。旅先で、ジモティに交じって郊外電車に揺られるのは面白い。自分も弘前の住人になったような気がする。弘前には弘南鉄道という電鉄があり、JR弘前駅から出て黒石方面へ向かう弘南線と、この中央弘前から出ている大鰐線の2路線がある。今回は、大鰐線に乗ってみた。岩木山を車窓に見ながら住宅街やリンゴ畑を抜けて南へと走り、途中12の駅を経て大鰐温泉が終点だ。
この始発駅がまた良い。
一面リンゴ畑の「松木平(まつきたい)」駅。
中央弘前を出て六駅め。思わず降りてしまった。
中央弘前を出て六駅め。思わず降りてしまった。
電車は行ってしまった。
次の津軽大沢駅まで歩いてみることにする。
次の津軽大沢駅まで歩いてみることにする。
素晴らしい眺め。岩木山とリンゴ畑と弘南電車。。
もう一枚。
津軽大沢駅は車庫を併設している。
駅自体は無人駅のようだが、運転指令室等があるらしい。
駅自体は無人駅のようだが、運転指令室等があるらしい。
この看板すごい・・
(近くの小学校のPTAが制作したとのこと)
(近くの小学校のPTAが制作したとのこと)
こんどは夕暮れ時に・・
中央弘前駅ホーム。
電車は朝は30分おき、昼間は一時間おき。夕方は40分おき。
電車は朝は30分おき、昼間は一時間おき。夕方は40分おき。
また松木平駅で降りてしまう。
こんどは少し(2駅)戻って、「千年(ちとせ)」駅。
中央弘前から4駅め。都市郊外住宅地という雰囲気だ。
千年駅も2007年ごろより無人駅に。
都市郊外の駅なのに寂しいことだ。
都市郊外の駅なのに寂しいことだ。
千年駅前の踏切。なんとなく駅前という雰囲気を残している。
ホーム上には小さな待合室が。
大鰐行きの電車がやってきた。
夕方のラッシュ時。それなりの降車客あり。
この電車に乗って終点まで行ってみよう。
この電車に乗って終点まで行ってみよう。
終点、大鰐駅に到着。
左にJR奥羽線の大鰐温泉駅がある。弘前から少し間隔を空けてほぼ平行して走る。
本数の多い(といっても昼間時60分おきだが)弘南鉄道のほうがやや優勢の様子。
左にJR奥羽線の大鰐温泉駅がある。弘前から少し間隔を空けてほぼ平行して走る。
本数の多い(といっても昼間時60分おきだが)弘南鉄道のほうがやや優勢の様子。
撮影:2016年5月
本文:2017年5月、2020年4月
本文:2017年5月、2020年4月
2017-05-17 22:30
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