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長野電鉄 1991/1993 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

長野電鉄に興味を強めたことがあった。
それは、OS-11というその垢ぬけた通勤電車の写真を見たことがきっかけであった。大都市圏の鉄道ではないのに、それは大手私鉄の最新型電車と変わらない、独特の洗練されたスタイルを持ち、私を魅了した。また、2000系特急電車の、人懐っこいスタイルにも興をそそられた。
関西地区から出たことのない私があこがれた、遠い高原を走る、美味しそうな「りんご色」の電車たち。いつしか私はそれに乗り、写真を撮ってみたいと思うようになった。
中学校3年生の夏休み、家族に対し、長野の善光寺へ旅行へ行こうと持ちかけ、そしてそれは実現したのであった。

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2000系D編成による湯田中ゆき。夜間瀬-上条。1991年8月。

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東京の電車(東急、京王、小田急、東武、西武) 1992 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

 関西に生まれ育った人間として、「東京なんか・・・・」という思いはずっと持ち続けていた。しかし、一方でやはり東京への単純な興味もあったのは事実である。東京では、関西よりもさらに多種多様な電車が走りまわり、またその車両たちは、写真で見ても明らかに関西とはテイストの異なったものであった。
 青春18きっぷというものの存在を知り、高校1年の夏、それを使ってクラスメートとともに東京への旅行を計画した。都合良く、東京に単身赴任している伯父がおり、その伯父のアパートに転がり込んで3日間を過ごした。その間、電車ばかり乗りまわし、他のクラスメートを呆れさせたものである。
 どこか重苦しく自己主張の強い関西の電車と違い、はじめて見て、乗ってみた東京の電車は、若々しく洗練されていた。当時の言葉でいう、トレンディでファッショナブルな電車たち。とくに、親しんでしたTVドラマや漫画等に登場する東急や小田急、井の頭線では、その登場人物の知り合いになったような、奇妙なくすぐったさを感じ悦に入ったものだ。その一方で、やはり車内や駅構内の造作などに、どこか貧弱で薄っぺらだなと感じ、わが関西へのプライドを再確認したりした。とにかく、私鉄を中心に、楽しかった1992年の東京の電車乗りまわしである。

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東急東横線 渋谷-代官山で行き交う東急の電車。8590系8連の急行桜木町ゆき。1992年8月。

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野上電気鉄道 1991-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

野上電鉄は、和歌山県海南市のJR海南駅付近から、かつて山のほうへ入り込んでいた11.4kmの私鉄である。私の興味は、高校にあがるかあがらないかの頃から、日ごろ利用する都市圏の電車にだけではなく周辺地域のローカル私鉄に対しても向けられていったが、その契機となったのが、この野上電鉄への数度にわたる撮影行であった。

見るからにおんぼろの電車に乗り込むと木製の床はギシギシと鳴り、古い窓枠にはくもの巣さえ張っているような状況であったが、各駅に残された古い駅舎には味があり、一両の電車でも車掌が乗務し肉声でアナウンスをしてくれる。私は訪問当初こそ、その取り残されたかのような古臭さに驚愕したが、何度か通ううち、廃線の危機に瀕しながらもその日その日の営業を続ける現場の健気さのようなものを感じ、そこに魅かれるようになった。

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神戸電鉄 1991-1993 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

神戸は本当にお洒落な街であるが、この神戸電鉄はあまりオシャレな電車ではなかった。オシャレというにはあまりに路線条件が険しかったのかもしれない。神戸市内から六甲山をまともに登り、裏六甲の山あいや雑木林を抜けて各地に線路を延ばすこの鉄道は、その各所に点在するニュータウンを結ぶ都市近郊鉄道ではあるが、またそもそもは山岳鉄道でもあり、駅のつくりにも電車のつくりにも、どこか都会の電車になりきれないローカル私鉄然とした野暮ったさや田舎臭さも随所にのこしていて、その多面性がとても面白い鉄道であった。
3000系や新型車両等、外見こそスマートさを感じるものの、走りのほうはそれとは裏腹に、がっつり山岳鉄道のそれ。全モーターをフル稼働させ、50~60km/hの低速でうんうん言いながら勾配を這い上がっていく。そのペースはさすがに安定しているが、全線にわたって営業上の最高速度は70km/hで、おせじにも「軽やかに駆けてゆく」という表現のできない走りっぷりであった。

1990年代初頭の当時は裏六甲のあちこちで宅地開発が進み、沿線人口が急増。単線区間が残っていた神戸電鉄もその複線化をどんどん進め、電車の本数や両数を増やすなど輸送力増強に大わらわだった時期。もはや完全な都市鉄道になりきるのも時間の問題かと思われた。神戸電鉄そのものが、横浜の相模鉄道のように、大手私鉄へ昇格するのも決して夢ではない・・・そう誰もが思っていたものである。

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鵯越-菊水山間のトンネルを抜け六甲越えに挑む3000系4連の準急有馬温泉ゆき。1992年7月
 
 

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阪神電車 1991-1992 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

阪神電車には結局なじみがないままであった。子供の頃から書籍等では阪神電車を目にすることはあったが、阪神の車両はどれも切妻型で地味であり、雨樋いや脚置きステップが車両正面に付いていたりと、子供心にも、決して美的な電車に映らなかった。その上、阪神は形式の数が非常に多く、その割に代わり映えがしないので系列を覚えるのもままならず、どうも疎遠なままになってしまったのである。
しかしながら、1984年以降登場した8000系電車の人懐っこい表情は、私にとっての阪神電車のイメージを一変させるものであった。その後、ジェットカーの加速、減速技術はもちろん、甲子園球場での野球開催時の臨時運転、また多種多様な種別による高密度運転の技術など、阪神特有のノウハウがこの小さな私鉄に沢山詰め込まれていることを知り、少しずつ興味を深めていった。
とくに、阪神本線には特急、区間特急、快速急行、急行、区間急行、準急、普通と多くの種別の列車が入り乱れて走っており、その上、上位種別の列車が停車する駅を下位種別の列車が通過したり、時間帯によって停車駅が変わったりと、いわゆる千鳥停車というにも非常に複雑を極めており、これが利用者にとってはどうなのかはともかくとして、実にきめ細かい運行形態が阪神の魅力のひとつでもあった。
 
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梅田ターミナルをあとに神戸を目指す8000系6連の快速急行三宮ゆき。
梅田-福島。1992年7月

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