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京阪電車 1992-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

関西の他の私鉄に比べて、京阪電車になじみをもった時期は比較的遅かった。高校に上がり、宇治にあった吹奏楽部の恩師宅まで京阪電車を利用したり、京都から大阪にあった塾へ通うために時々利用したりする中で、少しずつ愛着を感じて行ったと思う。
 とくに窓のカーテンがどの位置でも止まることや、ドア部分のつり革が跳ね上げ式になっていて乗降を妨げないつくりになっていることなど、京阪独自の細やかな技術開発が随所に見られ、いかにも堅実で誠実な会社であるという印象をもった。
 また、天満橋-萱島間の長い複々線も京阪の目玉であった。近鉄の複々線や阪急の三複線は、複数の路線が合流している区間なのだから、いわばその分だけ線路が多くてもそれは当然であったが、京阪の複々線は純粋に一路線のものだった。京阪は、その複々線を駆使してラッシュ時片道一時間あたり44本などという離れ業的な運転本数を確保していた。京橋駅の上りホームの時刻表には、本数が多すぎるため正確な発車時刻はもはや記されておらず、「この間頻発」としか書かれていなかったのが印象的であった。

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8000系7連による堂々の特急淀屋橋ゆき。淀-八幡市。1992年4月。

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近鉄電車 1986-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

 さて、いよいよ真打ち?の登場である。中学校に上がる頃、私は近鉄奈良線の沿線に引っ越しをした。そして、中学校、高校の6年間、この近鉄電車に乗って毎日京都まで通学したのである。

 最初は、カルチャーショックの連続であった。それまで、私のなじみのある私鉄電車というものは、南海にしても阪急にしても、事故によるダイヤ乱れなどは別にして、一分たりとも遅れてくるということはなかった。しかしながら、この近鉄電車は、ほぼ恒常的にといっていいほど、遅れて来るのである。通常でも2~3分は遅れて来るし、雨の降る日のラッシュ時など、5~6分などまだ良いほうで、ひどい時になるとちょうどワンサイクルずれて、つまり10分などという派手な遅れを発生させながら走っていることも珍しくなかった。
 しかも、電車は短編成のぶつ切りで、8両や10両編成なんかになると、色や大きさの違う電車をお構いなしに数珠つなぎにしてやって来る。こんないい加減な鉄道は初めてであった。お世辞にもスマートとは言えないこの近鉄電車は、私のそれまでの憬れだった阪急とは好対照であった。

 私は、そんな近鉄電車と、切っても切れない関係となり、次第に心の底から愛着を持つようになった。

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9000系ほか6連の準急難波ゆき 西大寺-菖蒲池 1991年4月

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阪急電車 1985-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

小学生の頃は南海沿線、中学校以降大学入学までは近鉄沿線に住んでいた私だが、やはり阪急電車への憬れというものは否定できないものがあった。
他の電車とは比べ物にならないくらい、どの電車もピカピカで、編成も長く、スピードも速く、おまけに運賃も安かった阪急電車は、小林一三にはじまる阪急イズムを直接知らなかった当時の私にとっても、「私鉄の中でも別格」の存在として映ったのである。

小学生三年生の頃から毎年、フリー切符を使った「阪急電車のりまわし」を父親と行っている。毎度毎度、前の日の晩は、ワクワクしすぎて寝付けなかったものだ。
小学校四年生の時は、クラスで「鉄道クラブ」を組織し、メンバーに阪急電車に乗せてやりたいがために、嵐山旅行を企画、実行したりしている(小学生ばかり5人で堺から京都まで行くというのはなかなかの冒険だった)。

堺市に住んでいた私にとっては、阪急とは憧れと尊敬の対象であり、なかなか乗ることができない分、所持していた「カラーブックス 阪急」や「ヤマケイ私鉄ハンドブック 阪急」のページを毎日毎日飽くことなくめくっていたものである。

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キング・オブ・阪急、6300系8連による京都線特急梅田ゆき。
崇禅寺-南方 1993年

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南海電車 1979-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

私の子供の頃、阪堺電車の次に身近な鉄道は、この南海電車、とりわけ緑の濃淡によって塗り分けられた、南海本線の電車であった。当時の私の家が、堺市南郊の、阪堺電車と南海電車がほぼ並行して走っている地域にあったためである。
阪堺電車に対するほどに愛着をもっていたわけではないが、家族単位では最も利用頻度の高い路線であり、大阪市内にある父方、母方の実家に向かう際には、よく父母と乗車し運転席のすぐ後ろでかぶりついていたものだ。

とりわけ、夕暮れ時の石津川河口付近にかかる鉄橋を通過してゆく、下り急行電車のあかあかとしたイメージは、いまだに私の脳裏に焼き付いて離れない。
それはまだ小学生3年生ごろであっただろうか、あたりが薄暗くなり、不気味にくろぐろとした河口の工場地帯を前に、家への帰り道もわからず、不安におびえ切っていたその時、下り急行電車がやってきた。
6両編成の急行電車には煌々と車内灯が灯り、混雑しながらも思い思いにくつろぐ大勢の帰宅客の姿がかいま見えた。そのあかりは闇に沈みつつあった河口周辺をさっと眩しい光で包みこみ、そうしてきらきらと光の残滓を残して、電車は河を渡って行ったのだ。

その光景は、鉄道と街と、そして人の暮らしのあり方とを、まだ物心つかぬ私の心の中で、はじめて大きなひとつの輪に結び付けた。私がいまもって郊外電車というものの社会的役割について、非常に興味を持ち続けているのは、この原体験があるからである。

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9000系4連の普通みさき公園ゆき 箱作-淡輪 1992年3月




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阪堺電車 1979-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

私が鉄道少年になったのはひとえに、住んでいた家の近くを走っていた、この小さな電車のせいである。

下の写真に、その頃の私が写っている。当時は3歳くらいであっただろうか。
よく父や母に連れられて(というより、私が父や母を引っ張って行ったようだが)、最寄駅の石津駅にゆき、電車が往来するのを、何十分も、じっと眺めていた。
当時は、今よりもずっと運転本数が多く、昼間でも8分間隔だったように記憶している。夕方のラッシュ時になると、それこそひっきりなしに電車が到着し、続々と連なって見えることも珍しくなかった。

当時の阪堺電車は、5パターンの色しかなかった。濃緑一色の電車、それに波の模様がついた電車(タマノイ酢の広告電車)のほか、いわゆる黄緑、青、オレンジの3種類の「雲電車」(雲をデザインした立石電機(現オムロン)の広告電車)であり、次に来る電車の色について、父や母とよく当てっこをしたのを覚えている。黄緑色のことを、父は「くさ色(草色)」と呼び、そのたびに小さかった私は「くさい色やって~」と笑った。

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モ161形 石津駅 1979年頃 撮影・父


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