さよなら「りんご特急」(長野電鉄2000系)~長野電鉄写真集 [鉄道撮影行]
2012年3月31日は、長野電鉄2000系、最後まで残ったD編成の引退日でもあった。
私が好きだった、ふっくらホッペのりんご色の特急電車、2000系。
1957年登場のA編成から1964年登場のD編成まで、日本が夢と活力に満ちていたあの時代に、4編成が作られ、以来、約50年もの長きにわたって長野電鉄の看板電車として愛されてきた車両。
志賀高原へ向かうスキー客や温泉客を乗せて、善光寺平を駆け回った電車である。
中でも、最後のD編成は、スカート付きでバランスがとれたスタイルを持ち、好ましかった。
2005年と2006年に、それぞれB編成とC編成が廃車となった。
その後も、残ったA編成とD編成によって特急運用が続いたが、それも新型特急2100系スノーモンキーの登場まで。2011年2月をもってA編成は引退、D編成も定期運用を外れ、廃車を待つばかりとなった。
だが、2000系の人気は引退後も続き、A編成もスクラップされることなく須坂駅構内に留置され、D編成に至っては引退を2012年3月まで延期され、細々とではあるが、普通電車や貸切電車として使用された。
そのD編成も、3月30日で定期列車としては運転を終了し、31日の記念運転をもってついに正式引退となった。
私にとっても、久しぶりに鉄っちゃん魂を取り戻し、2000系D編成を追いかけたこの2年間。
本稿では、その間の2000系D編成の写真を中心に、A編成や他の長野電鉄の車両、また沿線風景の写真を交えて、その活躍の頃を振り返りたい。
私が好きだった、ふっくらホッペのりんご色の特急電車、2000系。
1957年登場のA編成から1964年登場のD編成まで、日本が夢と活力に満ちていたあの時代に、4編成が作られ、以来、約50年もの長きにわたって長野電鉄の看板電車として愛されてきた車両。
志賀高原へ向かうスキー客や温泉客を乗せて、善光寺平を駆け回った電車である。
中でも、最後のD編成は、スカート付きでバランスがとれたスタイルを持ち、好ましかった。
2005年と2006年に、それぞれB編成とC編成が廃車となった。
その後も、残ったA編成とD編成によって特急運用が続いたが、それも新型特急2100系スノーモンキーの登場まで。2011年2月をもってA編成は引退、D編成も定期運用を外れ、廃車を待つばかりとなった。
だが、2000系の人気は引退後も続き、A編成もスクラップされることなく須坂駅構内に留置され、D編成に至っては引退を2012年3月まで延期され、細々とではあるが、普通電車や貸切電車として使用された。
そのD編成も、3月30日で定期列車としては運転を終了し、31日の記念運転をもってついに正式引退となった。
私にとっても、久しぶりに鉄っちゃん魂を取り戻し、2000系D編成を追いかけたこの2年間。
本稿では、その間の2000系D編成の写真を中心に、A編成や他の長野電鉄の車両、また沿線風景の写真を交えて、その活躍の頃を振り返りたい。
屋代線、最後の日 [鉄道撮影行]
長野電鉄屋代線は、2012年3月31日をもって廃線となった。
その日、多くの沿線住民が駅につめかけ、その最後の姿を見送った。
屋代線は、利用する人も少なく、地域から忘れられたかのような存在と聞いていた。
そのような路線の廃止に対して、沿線の方が高い関心を寄せるとは、とても思えない。
集まるのは、私のような鉄道マニアか、好事家の人々ぐらいのものかと思っていた。
しかし、それは全く間違っていた。
本稿では、松代駅を中心に、運行最終日の3月31日の様子、その最終列車の発車までを、
ダイジェストにてお伝えする。
その日、多くの沿線住民が駅につめかけ、その最後の姿を見送った。
屋代線は、利用する人も少なく、地域から忘れられたかのような存在と聞いていた。
そのような路線の廃止に対して、沿線の方が高い関心を寄せるとは、とても思えない。
集まるのは、私のような鉄道マニアか、好事家の人々ぐらいのものかと思っていた。
しかし、それは全く間違っていた。
本稿では、松代駅を中心に、運行最終日の3月31日の様子、その最終列車の発車までを、
ダイジェストにてお伝えする。
松代駅へのオマージュ ~駅の、ものがたり [日本の町散歩(中部)]
2012年3月31日。90年の間営業し続けてきた長野電鉄の松代駅が、その歴史に幕を閉じた。ここを通っていた長野電鉄の「屋代線」が、廃線になったからである。
昼間は一時間に一本すら電車が来ない超ローカル線の駅。長野市内まで出るにも時間も費用もかかる。長野市内への道路が整備され、バスも30分おきに走っている今となっては、地元の人ももはや駅をあまり利用しないという。だから、通学の中学生と高校生達、病院通いのお婆さん、そしてわずかな観光客・・そうした人たちがこの駅の利用者であった。
だが、その駅は、もの言わぬ昭和の語り部でもあった。いかにも古めかしくはあったが、歴史の町、松代の玄関と呼ぶにふさわしい風格と、風雪を耐え忍んできた者だけがもつ、厳しさと、あの優しさのある駅だった。
数少ない利用客、それでも一日600人(2005年データ)が乗り降りした松代駅。戦時中、松代大本営ができていれば、首都の玄関になっていたかもしれない歴史を秘めたこの駅。その名残りのだだっ広い敷地をそのままに、高度成長の波に乗ることを拒み、時代の移り変わりの中で自動車に主役をゆずり、長かった昭和時代の、人々の記憶をそこここに残したまま、駅は静かに眠りについた。
本稿では、駅がまだ営業していた最晩年の様子を、写真で偲びたい。
昼間は一時間に一本すら電車が来ない超ローカル線の駅。長野市内まで出るにも時間も費用もかかる。長野市内への道路が整備され、バスも30分おきに走っている今となっては、地元の人ももはや駅をあまり利用しないという。だから、通学の中学生と高校生達、病院通いのお婆さん、そしてわずかな観光客・・そうした人たちがこの駅の利用者であった。
だが、その駅は、もの言わぬ昭和の語り部でもあった。いかにも古めかしくはあったが、歴史の町、松代の玄関と呼ぶにふさわしい風格と、風雪を耐え忍んできた者だけがもつ、厳しさと、あの優しさのある駅だった。
数少ない利用客、それでも一日600人(2005年データ)が乗り降りした松代駅。戦時中、松代大本営ができていれば、首都の玄関になっていたかもしれない歴史を秘めたこの駅。その名残りのだだっ広い敷地をそのままに、高度成長の波に乗ることを拒み、時代の移り変わりの中で自動車に主役をゆずり、長かった昭和時代の、人々の記憶をそこここに残したまま、駅は静かに眠りについた。
本稿では、駅がまだ営業していた最晩年の様子を、写真で偲びたい。