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大阪(平野郷) 2007-08 [日本の町散歩(近畿)]

大阪第三のターミナル、天王寺(阿倍野)からJR線で2駅、地下鉄なら5駅で、平野(ひらの)という駅に到着する。ここは、中世には大坂から独立した自治都市「平野郷(ひらのごう)」として、堺と並び称されたほどの、立派な由来を持つ土地である。戦国時代には、集落の周りに環濠を巡らせ、徳川や豊臣による武力制圧に対し敢然と立ち向かったそうだ。
いまは大阪市に取り込まれ、環濠もほとんど埋め立てられてしまっているが、その旧市街を歩けば、古い区割、商家、寺院などがいくつも残り、修景も進んで歴史的な自治都市の面影を十分に感じることができる。それでだけではない。平野の街の面白さは、今なお生きる自治都市の気風そのものである。その象徴とも言えるのが、「まちぐるみ博物館」と呼ばれるプロジェクト。平野の旧市街に残された様々な歴史的な建物(寺院や商家など)を、その所蔵品も含めて一般公開するというもので、現在では日本全国の歴史的な街区で珍しくなくなったスキームのように思えるが、ここ平野のものは1980年代よりスタートと、全国に先駆けて、それも町民レベルで発生し、今なお立派に存続しているのである。

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大阪(帝塚山) 2008 [日本の町散歩(近畿)]

大阪市南郊に位置する街、帝塚山(てづかやま)は、お屋敷街として有名な場所であった。阪神間の西宮、芦屋、御影等の高級住宅地よりも歴史は古く、明治後期から大正時代にかけて開発されたというだけあって、財界人というよりも、士族の末裔のようなもの静かな人々が、下町の喧騒を離れ静かに暮らす街だったのだろう。
1980年代、路面電車の停留所の前に、ミューズコートというモスグリーンのタイルに囲まれた、迷路のような複合施設ができた。それをきっかけに、帝塚山はおしゃれタウンとして注目され、ファッション誌などにも取り上げられるようになった。街には洒落たブティックやバーがポツポツでき、大人カップルの夜の散歩道となった。

いまの帝塚山は、かつて「高級住宅地だった」「おしゃれタウンだった」と、過去形でしか語ることのできないような、変哲のない街になってしまっている。お屋敷を相続できなくなった旧家の人々は郊外へ移住し、その跡地はマンションやアパート群、駐車場になってしまった。帝塚山のランドマークであったミューズコートも取り壊され、いまや目も当てられない安っぽいアパートに変わった。
本稿は、ミューズコートが取り壊されると聞いて2008年夏、あわてて撮影に行った際の記録である。

つぶさに見れば今もわずかに蔵や旧家が点在し、街を貫いて走る路面電車の行き交う姿は変わらない。いまも街にはどこかおっとりとして、静かで穏やかな風が吹いている。

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大阪ノワール(島之内の夜) 2007~08 [日本の町散歩(近畿)]

30歳の頃、私はミナミの繁華街にほど近い、島之内のビルに一人暮らししていた。
道頓堀や宗右衛門町から堺筋をわたってすぐの一帯だが、喧騒はひと段落し、マンションが増え、中国、韓国などの小料理屋やバーなどがその合間にチラホラ見受けられる。
それらのマンションの多くは保証人不要、住んでいるのはホステスやチンピラ、外国人ばかりだと聞かされて、じっさい、道路には50メートルおきに警察への通報ボタンが設置されているというありさまだったが、住んでみるとそこは、大都会で隅に押しやられた、弱きもの、いわくあるものたちが、お互いに無関心を装いながらも、ひっそりと肩を寄せ合いながら暮らす街であって、そこには確かに、ある種の安らぎにもにた雰囲気が漂っていた。
夜が明けるまで、点滅し続ける巨大なネオン街の灯を、かすむ眼でぼんやりと見ながら、私はその町で宙ぶらりんに生息していた。

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大阪(汐見橋線) 2007 [日本の町散歩(近畿)]

大阪の街中に、南海電鉄汐見橋線(しおみばしせん)という、知る人ぞ知る鉄道路線がある。
難波の繁華街にほど近い汐見橋という駅を起点として伸びる路線ながら、利用客が極端に少ない。たとえば木津川駅という駅などは、大阪市内の駅なのに、乗車人数は一日わずか39人(2011年調べ)しかおらず(!)、本数は日中もラッシュ時も、変わらず30分に一本という、都市鉄道としては実に異色の路線なのである。
都会の路線がなぜこんなことになってしまったのかは、様々な要因が絡んでおり一概には言えないようだが、もともと路線が繁華街から微妙に外れて走っていて乗客が少なめだったことに加え、地下鉄などの平行路線が整備されて乗客がさらに減るにつれ、どんどん本数を削ってしまったことが、悪循環を生んだともいえよう。
いまやほとんどの大阪市民も、この路線のことを知らない。古びて手つかずの小さな駅を、人知れずひっそりと往復するだけになってしまった汐見橋線。
だが、だから私はあえて宣伝したい。もし、あなたが人生に疲れ果て、うらぶれて行く当てなくさ迷うとき、この路線に乗ってほしい、と。 ・・・なにかがあなたの心の中に、芽生えるだろうと思う。

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大阪(西周り) 2005-08 [日本の町散歩(近畿)]

在阪の写真家、妹尾豊孝氏のカメラになる「大阪環状線 海回り」という写真集をご存じだろうか。大阪環状線とは、もちろん大阪市内を環状に走る鉄道路線であるが、その東半分と西半分では、その車窓風景はじつはかなり異なる。東半分の路線は、ほぼビル街といっていい市街地を走り、電車本数も多ければ利用者も多いが、西半分は、臨海部に近い工場街や住宅地を走り、その沿線は独特の雰囲気を持っている。この違いに着目し、その西半分を「海回り」と詩情をこめて謳ったネーミングのセンスとともに、この地域が持つ、単なる下町とも異なる、なんとも言いようのない雰囲気を的確にとらえたその写真集は、確かに秀逸なものであった。
私にとっては、その地域こそがまさに、父や母の生まれ育った場所であり、お盆や正月に帰省するふるさとである。だから、その場所を客観的に対象化することひときわ難しいし、今回こうしてブログにアップする写真たちも、それをテーマに撮り歩いたわけでもない、ただの寄せ集めである。だが、どこか憂いを帯びて淀み、どこか貧しくすさんでうらぶれたこの地域に対する私のノスタルジアが、少しは表れているだろうか。

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