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イスタンブール 2014 (2)新市街 [ヨーロッパの町紀行]

新市街といってもそこはイスタンブール、その歴史は古く、12世紀にはすでに街が形成されていたという。東西交易の一大拠点である当時のコンスタンティノープルの中でも羽振りの良かったジェノヴァ人たちが、旧市街から見て金角湾の対岸のこの地に、半ば特権のように居留地の建設を進めたのである。今ではその痕跡はわずかというが、それ以来金角湾の北側は新市街と呼ばれ、今に至るまでヨーロッパの香りが強く自由闊達の気風あふれる地区として、格式ばった旧市街とは一線を画す雰囲気を培ってきた。現在では、若者やビジネスマンの多くは旧市街よりもこの新市街周辺に集まっており、いきいきとしたイスタンブールの今を感じるエリアである。

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イスタンブール 2014 (1)旧市街 [ヨーロッパの町紀行]

かねてから、イスタンブールには行ってみたいと思っていたが、その願いがようやくかなった。古代ローマ時代からの悠久の歴史を持ち、ビザンティウム、コンスタンティノープル、イスタンブールと、3つの名前を経てきた都市。ヨーロッパ大陸とアジア大陸の両方を股にかけた、そのダイナミズム。したがって、そこは東西の文化、宗教のかけ橋となった地でもあり、トルコ系民族のみならず、多くの民族が集まって住んだコスモポリタンでもある。歴史と文化がいく層にも積み重なって、静かに融合している世界的にも稀有な場所、それがイスタンブールである。
今回から4回に分け、イスタンブールでの撮影分を掲載する。写真点数が多いが、ご辛抱願いたい。
  ・イスタンブール 2014 (1)旧市街  →本ページ
  ・イスタンブール 2014 (2)新市街  → (次回)
  ・イスタンブール 2014 (3)アジア側(ユスキュダル) →(次々回)
  ・イスタンブール 2014 (4)メトロとトラムで郊外へ → (次々々回)

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苦楽園口 2008 [日本の町散歩(近畿)]

「東京の広尾や代官山のようなアップタウンが、大阪には無い」などという向きには、是非あなた、阪神間を歩いてみなはれと云いたい。大阪の上澄みは、この六甲のふもとの街々にたっぷりと残されているのだから。この地域を、神戸の一部のように考えるのは誤り。もともとは大阪に根を張る人間が移り住んだ場所だから、経済的にも文化的にも、ミナト神戸とは別物である。西宮市域の気さくで明るい雰囲気にしろ、芦屋市域の豪奢な雰囲気にしろ、いずれも神戸ではなく大阪的なるものの延長のように私は思う。
そんな町の中でも、私の一等お気に入りは「苦楽園口(くらくえんぐち)」。遠方の方は聞き慣れない名前かもしれないが、苦楽園という丘の上の高級住宅地のふもとにある駅の名で、その駅周辺にお店が集まっている。しゃれた店が続く中で、昔ながらの店構えを守るそば屋や本屋などもしっかり残っていて、肩肘張ったところがないのがいい。川べりの並木道でぼーっとすることも出来て、こんな街に住めたら、ぜったい自慢するだろうなと思う。

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奈良 2003 [日本の町散歩(近畿)]

奈良市は、私が12歳から18歳までの思春期を過ごした地である。その頃の私は筋金入りの鉄道少年で、地元を走る近鉄電車の撮影のため、大和盆地を東奔西走したものである。おかげで近鉄電車が通る西の京や斑鳩といった奈良郊外の美しい大和路の風景は、今も私の心の中にセピア色のままに、いつまでも忘れがたく焼き付いている。しかし、その大和盆地の北端にある奈良の町そのものは、若い私にはいかにも古臭く、錆びついて見え、魅力を感じることがなかった。若草山のふもと、興福寺や東大寺のおひざ元に小じんまりとまとまった今の奈良の町は、歴史の町とはいうものの、あの有名な平城京、つまり、名にし負う奈良の都とは場所も異なり、別のものなのである。
とはいえ、社会人も3年目となって気持ちも落ち着き、久しぶりに写真趣味を再開した2003年秋、ふらりと足を向けたのは、かつて嫌っていた奈良の街であった。そこでは相も変わらず昔ながらの路地と暮らしが息づいていたが、私も少しは大人になったのか、あの頃より少しだけ好ましく思えた。
今も私の実家は奈良市にある。

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大宇陀 2004 [日本の町散歩(近畿)]

大宇陀とは、どことなく遥けき響きのする、大和らしい地名であると思う。古代より「阿騎野」の名で呼ばれ、万葉のころには柿本人麻呂が「ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて・・」と詠んだと伝えられる、大和でも山また山の向こうにある、そこは小さな盆地の町である。戦国以降は宇陀松山城が築かれ、江戸時代には街道沿いの城下町としても栄えたらしい。
宇田川に沿ったこの町には鉄道がない。大和盆地からは近鉄電車で山に分け入り、いくつも山越えをしたところにある榛原駅より、さらにバスで山道をたどり、ようやく到着となる。
私はかねてからこの地を訪ねてみたいと思っていたが、写真を再開した社会人3年目、バイクの免許を取ったのを契機に、念願であったこの山中の小さな城下町を訪ねてみた。

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