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モレ・シュル・ロワン 2014 [ヨーロッパの町紀行]

イル・ド・フランスとはパリ周辺の首都圏地域を指す名称(直訳すると「フランスの島」)であるが、東京周辺のビルやマンションが密集する息詰まるような「首都圏」とはまるで違う。パリ周辺にも無論、団地群が密集するいわゆる「郊外地域(バンリュー)」はあるが、東京のそれのようなとりとめのないものではない。「イル・ド・フランス」とは、そんな郊外地域をさらに広い範囲で包括する地域名であり、セーヌ川、マルヌ川、オワーズ川の3本の美しい川のもたらす豊富な水資源と、肥沃な森と緑野に恵まれた、自然の風光ゆたかな、美しい土地なのである。そんな川のほとりや緑の谷の合い間に、絵のように美しい小さな町や村がいくつも点在する。パリへ旅行するなら、うち一日は列車に揺られ、そんなイル・ド・フランスの小さな町を訪ねてみたい・・・そう思って、私が選んだのが、今回訪れた「モレ・シュル・ロワン」である。

人口3500人という小さなモレの町は、その名のとおり、ロワン川のほとりにある。私の好きな画家、アルフレッド・シスレーが住み、愛し、描いた町。見るものの心に、ただ穏やかに浸みこんでゆくような、柔らかく平明な絵の数々に誘われて、私はパリ・リヨン駅から列車に乗り込んだ。

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パリ 2014 (6) 番外編~パリのメトロ、駅、電車 [ヨーロッパの町紀行]

パリでもやっぱり、鉄道が気になってしまう私。当然、地下鉄や電車は、街歩きの合間合間の交通手段のひとつなわけであるが、ただの手段としてだけでなく、そこにもパリらしさ、パリならではの匂いが嗅ぎとれるとなればより一層、私はそちらに寄り道をしてしまうのである。
とくにパリのメトロは独特の乗り物である。日本でいう「地下鉄」よりもはるかに身近であり、はるかに街に溶け込んでいる。何よりもパリのメトロ網は、東京の鉄道網よりもはるかに細かい。駅間距離も短く、小さな車体でちょこまかと走る。パリの通りを少し歩くだけで、すぐにあちらにもこちらにも、メトロへの降り口があるのに気付くだろう。その階段を少し降りればもうそこはメトロのプラットフォームである。各駅ごとに独自の意匠があり、美意識があるメトロの駅めぐりは、もうそれだけでひとつのパリ体験なのだ。
本稿では、パリ旅の番外編として、こうしたメトロの表情を皮切りに、パリ市内に6つある大きな鉄道ターミナル駅をめぐったり、また普段ガイドブックなどにあまり取り上げられることのない、郊外電車に乗ってみたりした際の写真を掲載する。

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パリ 2014 (5) メニルモンタン [ヨーロッパの町紀行]

メニルモンタン、それはロベール・ドアノーが愛した街であり、あのいとおしい映画「赤い風船」の舞台となった場所でもある。パリ東郊の高台一帯を指し、生粋のパリジャンは少なく、地方や他国からの流入者、比較的貧しい労働者階級の人々の住む街。名所と呼べる場所もおしゃれな店も少なく、観光客向けのガイドブックにはまず載ることのない地味なエリアだが、だからこそなのか、土地っ子のメニルモンタン愛は、人一倍強いのだという。たしかにシャンソンには「メニルモンタン」という名歌(シャルル・トレネ作)があるし、有名なエンターテイナー、モーリス・シュバリエにも「メニルモンタンのマーチ」という楽しい歌がある。

わたしは、今回のパリ旅行ではこの高台の下町、メニルモンタン通りからほど近い場所に宿をとった。たった一週間ではあったが、毎朝私を送り出し、毎晩私を迎え入れ、パリにおける私の「地元」となったこのメニルモンタンをご紹介しよう。

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パリ 2014 (4) モンパルナス / ビュット・オ・カイユ [ヨーロッパの町紀行]

モンパルナスもまた、左岸文化を代表する地域のひとつ。1910年代以降、観光地化され、閉塞感のあった右岸のモンマルトルから多くのアーティスト達がここに移り住んだ。その中心はピカソ、シャガールといった、純粋なフランス人、パリっ子ではない移民アーティスト達であり、既存の概念に縛られない自由な独創性を重んじた人々であった。
その後、パリは世界のアートシーンの先端を行くようになるが、その中心はまぎれもなくモンパルナス。世界中からアポリネール、ミロ、キスリング、藤田嗣治といった貧乏芸術家が集まり、いくつものコミューンをつくり、モンパルナスのカフェに集ってお互いを高め合ったという。こうした動きには、アメリカからやってきた比較的裕福な画商や出版界の名士などがこの地に魅せられ、拠点としたことも少なからず関係があろう。
毎日がお祭りのような当時のモンパルナスの様子は、やはりこの時期アメリカからやってきてモンパルナスに住んだ若きヘミングウェイの著作「移動祝祭日」に克明に記されている。

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パリ 2014 (3) サンジェルマン・デ・プレ / カルチェ・ラタン [ヨーロッパの町紀行]

パリの左岸、それはパリの中でも伝統的に独自の文化的香りを持つエリアである。世間的な既存の価値基準、経済軸、ヒエラルキーからはいい意味で離れた、自由で開放的で、自分自身の価値基準、そしてスタイルをしっかり持っている人が好む地域であるという。その中心は庶民であり学生であり、文化人であり知識人。アナクロニズムとはだいぶ違う。たとえ裕福でなくても、自分を確立して他者と交流し合い、街と人生を謳歌するのが左岸人種なのだ。
今回は、そんな左岸文化を代表するサンジェルマン・デ・プレ界隈と、左岸の精神的シンボルとも言えるソルボンヌ大学を中心としたカルチェ・ラタン周辺をまずは歩いてみた。

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パリ 2014 (2) バスティーユ / サンティエ / モンマルトル [ヨーロッパの町紀行]

パリ市はご存じのとおり市街を流れるセーヌ川によってざっと北側と南側に分けられ、北が右岸、南側が左岸である。そして、右岸と左岸では人々の気質が異なり、したがって街の雰囲気も少し異なっていると言われている。実際には右岸と左岸では右岸のほうが圧倒的に広く、ルーヴル美術館や凱旋門なども右岸側にあってメジャー感があるのに対し、左岸はパリ観光の目玉となる場所は少ない。(だからこそ左岸はいい、という話になるのだが、それは次の(3)で・・・)

本項(2)では、この広くバラエティ豊かな右岸の街の中で、バスティーユ、サンティエ、モンマルトルの3つのエリアをピックアップして歩いてみた。私にとっても今回は3度目のパリ。世界じゅうの人々を集める王道の観光地ではなく、なるべくパリの素顔に触れられる場所を探して歩いてみたつもりだが、その成果やいかに?
エッフェル塔もシャンゼリゼも出てこない右岸散歩だが、しばしお付き合い願いたい。

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パリ 2014 (1) シテ島 / マレ [ヨーロッパの町紀行]

写真をライフワークとする者にとって、パリは永遠の憧れの地のひとつである。ウジェーヌ・アジェ、ブラッサイ、アンリ・カルティエ・ブレッソン、ロベール・ドアノーなど、パリに住み、この街とこの街の人々を撮った歴史的な写真家は数多く、パリを撮ることは写真の基本であり、写真の最も重要なジャンルのひとつであるとさえ言われている。なぜそこまで言うのかと、いぶかる向きもあるだろう。しかし、パリを訪れたことのある人なら分かって頂けるはずである、だって、パリだもの、と。そう言うしかないことを・・

私のパリ入りは今回で3度目である。前2回は、パリが主目的の旅ではなかったこともあり、ろくすっぽ時間がとれなかった。今回は、念願かなっての撮影旅行。5日間、名だたる写真家たちを向こうに回し、私もがっつり写真を撮り歩いた。今回から6回に分けて、その記録をご覧いただきたい。

(1)シテ島 / マレ
(2)バスティーユ / サンティエ / モンマルトル
(3)サンジェルマン・デ・プレ / カルチェ・ラタン
(4)モンパルナス / ビュット・オ・カイユ
(5)メニルモンタン
(6)<番外編>パリの駅と電車

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イスタンブール 2014 (4)新市街のナイトライフ [ヨーロッパの町紀行]

イスタンブール、ベイオール。ヨーロッパ風のカフェやバーが並び、戒律はゆるやかながらイスラム教国であるトルコの中では、異色の場所であろう。イスラム教では、基本的に飲酒は禁じられているし、現に旧市街やアジア側では一部を除き目立った飲み屋街は存在しない。だが、ここベイオールでは、古くからのアンティークなワインバーから最新のクラブまで、老若男女がナイトライフを謳歌している。イスティクラル通りの両側の路地裏には、イスタンブール中の若者や呑み助が集まってくるからか、平日だというのにどこもかしこも超満員で、歓声や嬌声が音楽に交じりさんざめいていた。

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イスタンブール 2014 (2)新市街 [ヨーロッパの町紀行]

新市街といってもそこはイスタンブール、その歴史は古く、12世紀にはすでに街が形成されていたという。東西交易の一大拠点である当時のコンスタンティノープルの中でも羽振りの良かったジェノヴァ人たちが、旧市街から見て金角湾の対岸のこの地に、半ば特権のように居留地の建設を進めたのである。今ではその痕跡はわずかというが、それ以来金角湾の北側は新市街と呼ばれ、今に至るまでヨーロッパの香りが強く自由闊達の気風あふれる地区として、格式ばった旧市街とは一線を画す雰囲気を培ってきた。現在では、若者やビジネスマンの多くは旧市街よりもこの新市街周辺に集まっており、いきいきとしたイスタンブールの今を感じるエリアである。

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イスタンブール 2014 (1)旧市街 [ヨーロッパの町紀行]

かねてから、イスタンブールには行ってみたいと思っていたが、その願いがようやくかなった。古代ローマ時代からの悠久の歴史を持ち、ビザンティウム、コンスタンティノープル、イスタンブールと、3つの名前を経てきた都市。ヨーロッパ大陸とアジア大陸の両方を股にかけた、そのダイナミズム。したがって、そこは東西の文化、宗教のかけ橋となった地でもあり、トルコ系民族のみならず、多くの民族が集まって住んだコスモポリタンでもある。歴史と文化がいく層にも積み重なって、静かに融合している世界的にも稀有な場所、それがイスタンブールである。
今回から4回に分け、イスタンブールでの撮影分を掲載する。写真点数が多いが、ご辛抱願いたい。
  ・イスタンブール 2014 (1)旧市街  →本ページ
  ・イスタンブール 2014 (2)新市街  → (次回)
  ・イスタンブール 2014 (3)アジア側(ユスキュダル) →(次々回)
  ・イスタンブール 2014 (4)メトロとトラムで郊外へ → (次々々回)

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ウィーン 2011 [ヨーロッパの町紀行]

 大学生のころ、一度ウィーンを訪れたことがあった。ガイドブックが示す華やかな王族の都のイメージとは裏腹に、都市としての内実を完全に失ったかのような街のうつろな表情に、いたくがっかりしたことを覚えている。
 有名なリンク通りで囲まれた旧市街は、それはそれは美しいものであったが、そこでは殆ど人の生活というものが感じられなかった。みやげ物にしても、出し物にしても、古くさいものばかりで、現代の感覚に根ざすものは、ここからは何一つ生み出されていないように思えた。
 「この街は、あるいは博物館であって、生きた都市ではない」・・・そう思うしかなかった。
 ハプスブルクの栄華も、ワルツの夢も、世紀末の輝きも、すべてが遠い過去のものとなり、今はその搾りかすだけが残った、都市の屍(しかばね)。そのかすからは残り香さえも感じられず、滞在するだけで全身が倦んでくる街、それがウィーンであった。
 
 しかし今回、12年ぶりに訪れた二度目のウィーンでは、その時とは幾分違う、生き生きした様相を垣間見ることができた。それはちょうど、朽ち果てた倒木の老いた木肌から、新しい芽が吹き出すような有り様でもあった。

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ウィーン 2011 その2  グリンツィングとヒーツィング [ヨーロッパの町紀行]

 ウィーンは、アルプス山脈の西の端っこに位置している。したがって少し郊外に出ると、アルプスが終わるまさにその斜面に、豊かな自然とともに息づく美しい住宅地が広がっているのを目にすることができる。とくにウィーンの北に位置するグリンツィング地区の一帯と、西に位置するヒーツィング地区の一帯は、かねてからウィーンで活躍した芸術家たちばかりでなく、あらゆる市民から愛された豊かな景観を誇る地域である。
どちらも今はすっかり住宅が立て込んでしまってはいるが、公園、庭園や遊歩道など、多くの部分でその豊かな緑の端々に触れることができる。


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ウィーン 2011 その3 ”ウィーン郊外夕暮れ紀行~バーデンへ” [ヨーロッパの町紀行]

 私は街歩きが好きであるが、旅先で心掛けていることがいくつかある。そのうちのひとつが、観光地として整備された街中を離れ、一度は地元の普通の人々に混じって郊外電車に乗ることである。
 現代の都市というものが、郊外と呼ばれる後背地域の存在を抜きにして語ることができないのは言うまでもないだろう。中心市街地が劇場の舞台とすれば、郊外はその舞台袖であり、楽屋でもある。およそ整理整頓されていないそれを、あえて見ないで帰るほうが良いという人のほうが圧倒的に多いだろうが、私は少しはそれを覗いてみたいと思うのだ。

 ウィーンの場合、誠に格好の路線があった。オペラ座前から出ているWiener Localbahn、いわゆるバーデン線である。この路線は最終的にはウィーン南郊にある温泉保養地、バーデンまでおよそ60分かけて結ぶもので、観光路線的要素も持ってはいるが、それ以上に、ウィーン郊外に暮らす人々の日常の通勤通学、買い物の足なのである。
 車両は路面電車タイプで、実際にオペラ座前を出発して20分程度は、ウィーンのストリートを路面電車と一緒に走っている。しかし、その後市街地がいったん途切れた辺りで専用軌道に入り、終点のバーデンの中心広場に滑り込むまでの約40分間、右に左に、めまぐるしく移り変わるウィーンの郊外風景をつぶさに眺めることができる。

 なお、バーデン線でウィーンの市内パスが有効なのは途中のベーゼンドルフの手前まで。それ以遠、終点のバーデンまで行く場合は別途乗車前に切符を買う必要があるので要注意である。

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ウィーン 2011 その4 ”ウィーン車窓めぐり U6とウィーン郊外線 (おまけ:トラム好きの方へ)” [ヨーロッパの町紀行]

 ウィーンの旧市街が「リング」と呼ばれる環状道路によってぐるりと囲まれていることは有名である。しかしそのさらに3~4㎞外側に、「ギュルテル」と呼ばれるもう一つの環状道路があることは、あまり知られていない。リングには市電1番が走っているが、ギュルテルを見物するのにも、ちょうどよい交通機関がある。それが地下鉄「U6」である。「U6」は、分類上「U」が付いているので地下鉄と書いたが、実際には殆どの区間をギュルテルの上に作られた高架線上を走る。高架線であるから、窓からの眺望が楽しい。しかも、この路線の歴史は古く、1898年の開業。駅もオットー・ヴァーグナーのデザインで時代がかっており、楽しい。
 ここでは、ギュルテルよりも街のさらに西側の山裾のあたりを走る国鉄のウィーン郊外線(Sバーン45番線)の車窓も合わせて紹介する。

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1898年開業時を彷彿とさせるU6の駅。

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バルセロナ 1999 [ヨーロッパの町紀行]

 列車を降りるやいなや、ここは僕の生まれた街に似ている、と思った。なんとなく、がやがやざわざわしている。皆、一応はまじめな顔つきをしているくせに、である。格別晴れやかにも見えなければ浮かぬ顔にも見えず、老若男女、ただ同じように小市民の顔をぶらさげているばかりである。この街が、芸術の大家や奇抜な建築を生むというのがどうもよくわからない。

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ウィーン 1999 [ヨーロッパの町紀行]

 ウィーンの日々・・・僕にとってそれは、オペラ座の立ち見と、アイスクリーム・ショップと、市電の乗り回しの日々であった。もちろん舞台は素晴らしかったし、町並みはよく整備されていた。けれども、なぜか、日に日に私はどんどん「かったるく」なってくるのをどうすることもできない。ここは、黄昏の街。「今」を紡ぎだす力など、この街はほとんど失ってしまったかとのように見える。

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ベルリン 1999 [ヨーロッパの町紀行]

 ベルリンは不気味だった。東側。街のあちこちで進行中のリストラクション。林立する巨大クレーンが、全身ミラーガラスの巨大ビルを積み上げる。それは無表情で、無造作だ。東側。街のあちこちで朽ちていく傷ついた建物。その陰から、新しい若者文化の拠点が間断なく生まれてくる。それは瞬発的で、鋭角的だ。なぜだろう、なぜ「音」というものが感じられないのだろう。・・・急激に変わりゆく街並みがこの目にしっかり見えているのに、物音といえばなにひとつ聞こえてこないのだ。

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ロンドン 1998-99 [ヨーロッパの町紀行]

ロンドンでも、うだうだしてばかりいた。
学校はやっぱり、サボってばかりだった。

一日じゅう、パブでとりとめなく駄弁っていた。
一日じゅう、ぼんやり二階建てバスに揺られていた。
一日じゅう、レコード店で新譜を聴きあさっていた。
一日じゅう、お金の心配をしていた。

あの美しいカントリーサイドには行かなかった。
ポートベローマーケットには行かなかった。
ウェストエンドのミュージカルも行かなかったし、
大英博物館にも行かなかった。

でも、いつだって楽しい友人達と一緒だった。
近くのフィッシュ・アンド・チップスは絶品だった。
ホームステイの家は、小さいけれど、厳しく、あたたかかった。

英語は、まあ以前に比べるとそれなりに上達した。
人というものは結局どこでも同じだということが分かった。
素敵な女の子とも知り合った。

たかが半年。
僕は、これでもロンドンを満喫した気でいる。
そして、もうこんなことはできないんだろうな、と思う。

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The City, London


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リスボン(ポルトガル) 1996 [ヨーロッパの町紀行]

私にとって、記念すべき人生初の海外旅行は、ポルトガルだった。
19歳の春、アルバイトで貯めたお金を握りしめて、モスクワ経由で一人、パリに着いた。
パリには2泊だけして、それから、ポルトガルに向かった。
「南方急行」という名の、古びた列車に乗って・・・・

以下は、その時の記録である。
帰国してすぐに書き留めておいた内容を、ほぼそのまま載せてみようと思う。
今読むとさすがに少し恥ずかしいものがあるが、あらためて、あの頃は純情だったのだなあなどと感じる。

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SUD EXPRESS(南方急行)

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