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日本の町散歩(中国・四国) ブログトップ

引田 2019 [日本の町散歩(中国・四国)]

引田(ひけた)は、瀬戸内海に面した香川県の町。瀬戸内の町でも、四国側のほうは私にとって初である。山陽の町の闊達さとはまた異なった、しっとりとしたやさしさがあるように感じた。街並み保存などの目立った動きはなさそうで、そういう意味では地味な印象だが、江戸時代から風待ちの良港として栄えた名残が、この町のそこここに残る。そしてその頃から続く地場産業が、いまも盛んなのが良い。いわゆる讃岐三白(綿、塩、砂糖)のうち、引田は砂糖と塩で知られた。この地でいう砂糖とはもちろん手作りの和三盆の事で、「三谷製糖」等、いくつかの製造所が残る。塩もほうも、近隣でよく取れる小麦や大豆との掛け合わせで、この町に醤油産業を生んだ。最盛期には7軒もの醤油蔵がひしめきあっていたというが、今は赤壁の「かめびし醤油」がのれんを守る。明治期以後、三白に代わる地域最大の地場産業として成長した手袋も重要。いまも隣町の白鳥とともに、国内産製品の9割(!!)を生産するという。「このあたりの女性の花嫁修業というと、何よりも手袋編み」とは「手袋ギャラリー」の地元ご婦人の弁。今に生きる産業が、街に静かな活気を与えている。

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御手洗 2019 [日本の町散歩(中国・四国)]

気候が良くなると瀬戸内方面に出掛けたくなることは「真鍋島」のときに書いた。今年は広島県にある「大崎下島(おおさきしもじま)」に行くことにした。目当ては「御手洗(みたらい)」という小さな町である。
御手洗は江戸時代から瀬戸内を行き来する船の寄港地として栄えた街のひとつ。瀬戸内屈指の遊郭があったことでも知られ、そうした時代の表情を今に残す貴重な街並みがあるという。2016年にはサントリーの「オランジーナ」のCMで、島の街並みを自転車で駆け抜ける若いフランス人の女先生の映像が話題となった。あのCMは、明らかに木下恵介監督の映画「二十四の瞳」の大石先生登場シーンのパロディであったが、1950年代の小豆島の美しい風景にも見劣りしない、現代の瀬戸内の島のさんざめく光が、この御手洗の街で撮られていた。・・・そんな御手洗に向かうのに格好の交通機関がある。JR広駅から出ている瀬戸内産交の路線バスである。下蒲刈島、上蒲刈島、豊島と、芸予の島々を順番に渡り、丹念に集落をめぐってゆくから、それぞれの島の暮らしの様子が車窓からつぶさに見て取れるのだが面白い。揺られること90分。ようやく御手洗に到着だ。

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竹原 2019 [日本の町散歩(中国・四国)]

尾道に通っていたころから、竹原には興味があった。決して街並みとしては美しくない尾道とは対照的に、「安芸の小京都」と言われ、早くから街並み保存の進んだ竹原。大林宣彦監督の映画「時をかける少女」でも、情緒的なシーンでは尾道ではなく竹原で撮影されていた。映画に出てくる「堀川君」の住む醤油屋は、竹原に実際に現在も存在する「堀川醤油醸造所」である。
江戸時代以降、昭和の中期まで、竹原の主な産業は、製塩だった。かつては全国シェアの8割を占めたという広島県の製塩。それによって竹原の街並みは作られていった。製塩業の衰退して久しい今、いったい竹原の街はどのように維持されているのか。街並み保存に長年力を入れてきた街だけに、その成果が見てみたく、今回の訪問となった。

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貞光 2018 [日本の町散歩(中国・四国)]

高松でオシャレな女の子が沢山歩いていたけれど、徳島に入ると、いわゆるキレイな女性を見つけるのが急に難しくなる。列車に乗り合わせた女子高生達はおさげに白ズック、男子に至っては、高校生にもなるというのに鼻水垂らして居眠りしている。田舎にはつきもののはずのヤンキー風の不良学生さえ、徳島では見かけない。誰もが野暮ったく、純朴そのものだ。そこがいい。
今回訪れた貞光という町は、そんな徳島の朴訥とした感じが、良い形で結晶化されている町だ。脇町と同じく、吉野川流域における物資の集散拠点として栄え、うだつのある街並みを特徴とするが、観光化という意味では脇町に大きく後れを取り、脇町で進んでいた電線地中化や道の駅の開設等も全くなされていない。しかし、それがいい。決して観光客のためではなく、住民のための生活の場として、うだつの町並みや昭和の街並みがいまに生きているというのは、じつは全国的にも貴重なのではないか。・・・私はすっかり貞光が好きになってしまった。

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脇町 2018 [日本の町散歩(中国・四国)]

徳島県を西から東へと流れる吉野川は、日本三大暴れ川のひとつに数えられ、「四国三郎」の異名もとる堂々たる大河。脇町は、この中流域の北岸に位置する小さな町である。江戸期以降、ここには周辺の農村から葉藍が集まり、職人や商人たちがこれを染料の藍にした。吉野川の舟運によって下流の町や京・大阪へも運ばれた「阿波藍」は、この町に富をもたらし、脇町の商人たちは、その富の象徴としてこぞって我が家と隣家との境界部分に「卯建(うだつ)」と呼ばれる防火壁をこしらえたが、現在でも通りの両側に約400メートルにわたって続く「うだつの町並み」は日本でも唯一無二の存在である。
しかし私がこの脇町のことを知ったのは、うだつへの興味からではなく、山田洋二監督に「虹をつかむ男」によってであった。映画では、西田敏行演じる中年男が、つぶれかけた映画館の再興を期して、このうだつの町並みを奔走するのであるが、そこでは、日本の古き良き町の人々の交流の様子が実に生き生きと活写されていた。

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真鍋島 2018 [日本の町散歩(中国・四国)]

気候が良くなると、瀬戸内の町に、時折ふらりと行ってみたくなる。尾道、笠岡、下津井、牛窓と、いつも陸から海を眺めてばかりだったのだが、やはりたまにはこの穏やかな海に浮かぶ島に渡ってみたいという衝動にかられる。小島まで含めるとその数1000を超えるという瀬戸内の島。その中で、私が最初に選んだのがこの真鍋島である。笠岡からのフェリーが、白石島、北木島を経て最後にたどりつく島は、本州側からも四国側からも20kmと、どちらからも隔たっており、瀬戸内古来の漁村風景が残されているという。
そんなのどかな空気に触れてみたくて、この夏、私もフェリーに乗り込み訪ねてみた。結論から言うと、その日は撮影行には暑すぎたのであるが、、、、ともかくご覧頂きたい。

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卯之町 2018 [日本の町散歩(中国・四国)]

卯之町(うのまち)は、南予地方の山中にポツリとある小さな町。昔ながらの宿場町風情を残す町並みが有名だが、それ以上に、不思議な異国情緒の残り香があるところが面白い。歩いていると、石畳の坂、現役の教会、アーチ型の窓を持つ旧学校等、まるで長崎ではないかと思わせるような風景が開けてくる。それもそのはず、ここはシーボルトの弟子でもあった二宮敬作が住んで拠点とした町であり、敬作を慕う多くの蘭学者が集った町でもあるのだ。シーボルトの娘であるイネも青春時代をここで過ごして日本最初の女医となったし、江戸幕府に追われた高野長英が潜伏していた時期もある。山間にありながらも、文明開化の貴重な脇役となって花開いた町なのだ。
いまの卯之町は、商店街を歩く人も少なく、賑わいはすっかり遠のいてしまった。しかし、いまも卯之町教会の十字架は空高く聳え立ち、風にそよぐ棕櫚の木が町に彩りを添えている。

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伊予大洲 2017 [日本の町散歩(中国・四国)]

内子がまだ観光地として無名だった頃、南予地方で古い町並みといえば大洲であった。その町並みを生かし連続TV小説「おはなはん」の撮影が行われた、等と今もガイドブックなどに紹介されているが、しかし調べてみると「おはなはん」なるドラマの放映は1966年と、えらく前である。その後今に至るまでほかのトピックがないほど、大洲の町はこんこんと眠っていたのだろう。
実際に来てみても、この大洲に吹いているのは、時流の浮沈にわれ関せずという、悠揚たる無頼の風であるようだ。今ふうの店はまず見当たらないし、他地域からの人の流入も少なそうだ。大洲で生まれ育った大洲のオッサンが、今日も変わらず自転車に乗り、古びた通りをゆっくり横切ってゆく。そんな町だからこそ、鵜飼い、芋焚きといった伝統が今に生きているのだろう。
極めつけは、大洲城天守の復元。2004年に、竣工当時の工法を忠実に再現して再建された天守閣は、さすがの風格を見せつける。浮ついた町並み保存や小手先だけの転入者誘致なんぞにカネを使うよりも、ドカンと大きなことをひとつやるという姿勢がまことに面白い。

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内子 2017 [日本の町散歩(中国・四国)]

愛媛県南予地域にある内子(うちこ)もまた、いち早く町並み保存を進め、街おこしに成功した町のひとつとして知られる。ここは城下町や宿場町ではないが、地の利に恵まれ、江戸期から明治にかけて、和紙、そして特に木蠟の生産地として栄えた歴史がある。内子産の木蠟は全国シェアの3割を占め、品質の高さから海外へも輸出される等し、町衆は大いに財をなしたという。しかしその後は鉄道や道路の幹線から外れたこともあり、ひっそりと低迷する時代が長く続き、観光にも縁がなかった。その内子の町が、年間50万人を超える観光客を迎えるまでになったのは、やはり護国・八日市地区の見事な町並み保存、修景によるところが大きいだろう。
内子の面白さは、これらの見事な町並みに、和ろうそく、鉄工芸(蝋台)、竹工芸、棕櫚工芸、行燈(和紙)、染め物、鏝絵など、内子の過去にルーツを持つものも持たないものも含めて、ニッポンの手仕事の担い手たちが、ポツポツと入居していっている点である。若い人も含めて実際に職人自体が町に移り住み、工房を持つというこうした動きがもう少しまとまったものになれば、内子は多彩な伝統工芸文化の集積地として、生きた産業の町に返り咲くことになるのだが。

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牛窓 2015 [日本の町散歩(中国・四国)]

「日本のエーゲ海」としてこの十数年来売りだしてきた瀬戸内の牛窓。穏やかな多島海、気候は温暖で、オリーブ栽培とマリンスポーツがさかんとくれば、エーゲ海になぞらえたくもなるのも分からなくもないが、その一方で、一歩路地に入ると古くからの町並みが残っている場所でもあるという。
古代から潮待ち、風待ちに良いとされてきた天然の良港が瀬戸内地域にはいくつかあるが、じつは牛窓もそんな悠久の歴史を持つ街のひとつ。「唐琴(からこと)の瀬戸」と呼ばれ参勤交代一行や朝鮮通信使の停泊地としても栄えたという。
ある夏の日の午前、そんな相反する魅力を持つという牛窓を私も歩いてみた。

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玉島 2015 [日本の町散歩(中国・四国)]

「香ばしい町並み」という表現がある。歴史が古く由緒正しい町並みを指す言葉なのだが、往時の町並みがよく保存整備されている場所に対して使われるのではなく、今は顧みられず干からびて、朽ちてゆくような町並みを指すもののようだ。玉島は、そんな表現が似合う街である。
高梁川の河口(三角州)に位置し、かつて備中松山藩が大規模に行った干拓、新田開発によって生まれた街は、備中松山城下(現在の備中高梁)と高梁川の水流によって結ばれ、同藩の藩港として廻船問屋が立ち並ぶ等して大いに栄えた。明治以降も瀬戸内の重要な港湾都市としての存在感を保ち続けたが、昭和以降は次第に衰退していったという。そして、昭和後期から平成以降のモータリーゼーションの進展は、玉島という街をもはや街でなくしてしまった。
「昭和レトロ」を売りにした街おこしもそこそこに、玉島は今も朽ち続けている。単なる「ノスタルジー」という言葉を通り越した何がしかの感慨を覚えるという意味で、非常に歩きごたえのある場所であった。

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備中高梁 2015 [日本の町散歩(中国・四国)]

備中高梁は、中国山地の山間にある由緒正しく美しい城下町である。古くは松山と呼ばれ、その中心となった備中松山城は現役の天守を持つ城としては最も高い位置にあり、いまも日本三大山城のひとつに数えられている。
それにしても、この城下町の清々しい空気はどうであろうか。緑に囲まれた盆地は、深山幽谷といっていいほど彫り深く、その中央を、高梁川の渓流が川岸を洗わんばかりに音をたてて流れている。夜明けごろ、町には決まって霧が立ち込め、しだいにそれが晴れてくるにつれて、朝露に濡れてしっとりした城下町の家並みが現れ出る。それは堂々として、決して小さな町ではないのに、同時に、主張しすぎない謙虚さを感じさせ、まことに好ましい。
この町の造成を担当したのは、文化人、芸術家としても名高いあの小堀遠州(小堀政一)であるというが、その美意識が、いまに至るまで受け継がれているのではないかとさえも、思ってしまう。

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日生 2015 [日本の町散歩(中国・四国)]

日本全国を見ても、駅の目の前がすくに海であるというロケーションは、意外に少ない。だが、JR赤穂線の列車に乗っていると、突如として視界が開け、きらめく瀬戸内の海に躍り出て停車する駅がある。それが「日生」と書いて「ひなせ」と読む、この駅である。瀬戸内でも最も東に位置する地域となり、観光地として著名なわけでは決してないが、鹿久居島をはじめ瀬戸内海に浮かぶ日生諸島へ渡ることができるほか、小豆島への大型フェリーの発着もある。最近では名産の牡蠣がたっぷり入った「カキオコ」が食せるお好み焼き屋が多く集まることでも知られ、春はアナゴにサワラ、夏はエビと、食通をも魅了する漁師町なのだ。瀬戸内の海のかがやきと、ジューシーな「カキオコ」の匂いに誘われて、私もふらりと列車を降りてみた。

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鞆(鞆の浦) 2013 [日本の町散歩(中国・四国)]

鞆は瀬戸内でも古代から潮待ちの港としてとくに栄えた地である。万葉集にもその名が登場するというから並みの歴史ではない。平安・室町時代から江戸時代にかけても、朝鮮から日本への使者は決まってこの鞆に寄港し歓待を受けるのが通例であったといい、その迎賓施設の跡も今に残されている。
現在の鞆の港およびその周辺市街は、主に江戸時代に形作られたものというが、その頃から区画や街路は殆ど変化がないばかりか、当時の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」のすべてがそのまま残っている。
もちろん今の鞆は近隣の走島と仙酔島へ向かう定期航路が発着するほかは、時代に取り残されたような小さな漁港といっていい場所である。私はここを2004年の夏に初めて訪れているが、歴史遺産としての魅力はあれど、静かでなんだか色褪せたような町だという印象を持ったものである。
しかし、それからさらに10年近くが経ち、いつの間にかその古さがゆえにスポットライトがあたる時代になってきた。今回ふたたびここを訪れてみると、町には気の利いたお店や施設も増え、訪れる人の数も増えて、かつてよりもずっと生き生きとして見え、私は印象を新たにした。

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下津井 2012 [日本の町散歩(中国・四国)]

下津井は、歴史ある瀬戸内の港町である。古代奈良時代からすでに風待ちの湊として賑わっていたらしい。江戸時代以降は、四国への船が発着する玄関口でもあったし、北前船の中継地に指定され、問屋や遊郭等が並び町はますます賑わったらしい。明治以降も、下津井の重要性は変わらなかった。この下津井から四国の丸亀へ向かうフェリーは重宝され、その連絡のために、岡山方面からこの下津井へ、鉄道も敷かれた。

いま、この歴史ある下津井の町を歩く人は、ごくわずかである。長い歴史を持った丸亀航路は消え、岡山方面とを結んでいた下津井電鉄も、とっくの昔に廃線となった。町は、往時の街並みそのままに、瀬戸内の明るい日差しに照らされ、うつうつと眠るように今もそこに横たわっている。


真上を、瀬戸大橋を渡るトラックやJR瀬戸大橋線の快速電車が、ひっきりなしに通ってゆく。


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下津井地区


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笠岡 2009 [日本の町散歩(中国・四国)]

倉敷と福山の間、山陽本線の列車の車中から、ひときわ歴史ある街並みが続くのが見える。古くから天然の良港として知られた、笠岡の町である。山間部への街道筋も整備され、物資の集散地として栄えた城下町でもあったらしく、車窓からは蔵や商家だったらしき建物も散見される。
かつて山陽本線に長距離列車が多数走っていたころは、急行列車も停車したという、瀬戸内有数の要衝の地であった。

興味をひかれ笠岡駅で降りて、わずか半日ではあるが、周辺を散策してみた。

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HOLGA de ONOMICHI 2008/09 [日本の町散歩(中国・四国)]

HOLGAは、トイカメラの王様と言われているが、硬派?な私には縁のないものだと思っていた。
しかし、何かどうなったのか分からないが、ひょんなことで入手してしまった。

レンズはプラスチック。このピントの合わない、ゆるーいカメラで何を撮るべきか?

結局、尾道がいいと思った。

はたして、どうなることやら。

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尾道 2004‐09 [日本の町散歩(中国・四国)]

 私が二十歳になる前、ちょうど、駅で改札の仕事をしていた頃である。仲の良かった同僚が、ある日の夜、突然、リュックサックを背負って職場に現れた。今から、ひとりで夜行列車に乗り、尾道というところに行くのだという。

 そこがどんなところなのか、聞いてみたいと思ったが、私は改札口での業務に忙しかった。「なんで尾道なん?」とだけ聞くと、彼は子供のような丸い目をして、「だって、尾道、いいじゃん!」とニコニコしている。私が接客を済ませて振り返ると、だがもう彼はそこにいなかった。改札口の向こうへと駆け出していった彼の、青いリュックが楽しげに揺れるのが、ちらりと見えた。

 私が念願の二輪免許を取得したのは二十七歳になってからだった。なんとかその年は夏休みを確保し、生まれて初めてのツーリングに出かけることにしたが、前日になるまで、行き先を考える余裕はなかった。いよいよ明朝出発だという晩、東へ向かうべきか、西へ向かうべきか、と考えあぐねた私の脳裏に、突然、あの小さなリュックが映し出された。  ・・・眠れなかった。次の朝がきて、太陽が昇り始めたころ、もう私は、瀬戸内の海岸沿いを、尾道目指して疾走していた。


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海雲塔下の道

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萩 2005 [日本の町散歩(中国・四国)]

津和野の後に訪れた、萩の町。
日本海に面した毛利氏36万石の城下町であるとともに、
幕末にはあの松下村塾があった町である。

木戸孝允、高杉晋作等、言わずと知れた明治維新の指導者を数多く輩出した萩の町。
そこは、津和野よりもずっと広く、人口も多いはずなのだが
なぜか静謐が町を支配し、とりとめなく広がる遺跡のように
もの言わぬ、その剛毅な滅びの風情が、私を魅了した。


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城下地区、菊屋横丁の風情。かつては商家が並んだという。

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津和野 2005 [日本の町散歩(中国・四国)]

バイクの免許をとって最初の夏は、尾道に行った。
翌年の夏は、さらに遠出となる津和野、そして萩へ行った。
京都から、名神と中国道を乗り継いで向かった二つの町は、
まるで対照的な表情を私に見せてくれた。

最初に訪れたのは島根県の津和野。
山脈を裂くがごとくぶっ飛ばしてきた中国自動車道を六日町インターで降り、
津和野街道でさらに山を分け入ると、
小さな盆地が開け、津和野のささやかな町へ下りてゆくことができた。

町の中心を高津川が流れる津和野藩、亀井氏の城下町は、
かつてそこが武家の町であったとは思えないほどに優美な風合いを持ち、
女性的でしとやかな空気に静かに包まれていた。

さっそく、中心部にある小さな旅館に投宿し、町を散策してみた。

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高津川に沿って。町方向を臨む。



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