大多喜 2012 [日本の町散歩(関東)]
房総というとまず連想されるのは海だが、大多喜は房総半島でも山をだいぶ分け入ったところにある、ささやかやな城下町である。
菜の花の色をした小さな列車がトコトコ走り、春はれんげ、夏はあじさい、秋は遅くまで紅葉が楽しめる野山に囲まれた大多喜は、今は観光地というほど旅行者が多いわけでもなく、地味で静かなたたずまいを見せているが、ここは、徳川家の四天王と言われた本多忠勝がその城主を勤め、町づくりを行った由緒ある歴史の町なのである。
秋が間もなく深まりを見せようとするころ、この町を歩いてみた。
菜の花の色をした小さな列車がトコトコ走り、春はれんげ、夏はあじさい、秋は遅くまで紅葉が楽しめる野山に囲まれた大多喜は、今は観光地というほど旅行者が多いわけでもなく、地味で静かなたたずまいを見せているが、ここは、徳川家の四天王と言われた本多忠勝がその城主を勤め、町づくりを行った由緒ある歴史の町なのである。
秋が間もなく深まりを見せようとするころ、この町を歩いてみた。
城下町通りも、脇道に入ると今はのどかな雰囲気。
城を望む。
城を望む。
武蔵野(3) 2011-12 [日本の町散歩(関東)]
2010年、私は都心にほど近い豊島区の椎名町駅周辺に引っ越しをした。
新居の周辺は、もちろん完全な市街地であり、畑もなければ並木もなく、
武蔵野の野の風景を見ることはできない。
かわりに、商店街や、古びたアパートや、小さな公園があるばかりだ。
しかし、もとはここも武蔵野のただなかであっただろう。
人々の顔つきの穏やかさ、街にたゆたう、どこか緩やかな空気に、
その片鱗を感じることができる。
だからなのか、私の武蔵野探訪は、その後も止むことがなかった。
2011年から2012年は、狭山丘陵と呼ばれる地域を歩いたり、三芳町などの畑地をめぐったりした。
新居の周辺は、もちろん完全な市街地であり、畑もなければ並木もなく、
武蔵野の野の風景を見ることはできない。
かわりに、商店街や、古びたアパートや、小さな公園があるばかりだ。
しかし、もとはここも武蔵野のただなかであっただろう。
人々の顔つきの穏やかさ、街にたゆたう、どこか緩やかな空気に、
その片鱗を感じることができる。
だからなのか、私の武蔵野探訪は、その後も止むことがなかった。
2011年から2012年は、狭山丘陵と呼ばれる地域を歩いたり、三芳町などの畑地をめぐったりした。
東大和市蔵敷
2011年3月
2011年3月
小川町 2010 [日本の町散歩(関東)]
東武東上線、池袋駅。成増や志木など近郊止まりの普通電車や準急電車に交じって、遠くへゆく急行電車が20分おきに発着する。その行き先は、「小川町」とある。
小川町、おがわまち・・・ 急行電車の終着駅となっているその町は、どんなところなのだろう。終点であっても、小川「町」というからには、田舎ではなさそうだ。その響きの奥ゆかしさとも相まって、なかなかに興を誘う。
調べてみると、そこは外秩父の山に囲まれた盆地で、秩父往還沿いに古くから開けた商業の町であり、伝統工芸の和紙や日本酒を名産とする豊かな里でもあるようだ。
まだ肌寒い3月のある日、気の赴くままに急行電車に乗って小川町を目指した。
埼玉県比企郡小川町・・・ そうは言ってもそこは東京にほど近い、武蔵の国の「小京都」の散策記である。
小川町、おがわまち・・・ 急行電車の終着駅となっているその町は、どんなところなのだろう。終点であっても、小川「町」というからには、田舎ではなさそうだ。その響きの奥ゆかしさとも相まって、なかなかに興を誘う。
調べてみると、そこは外秩父の山に囲まれた盆地で、秩父往還沿いに古くから開けた商業の町であり、伝統工芸の和紙や日本酒を名産とする豊かな里でもあるようだ。
まだ肌寒い3月のある日、気の赴くままに急行電車に乗って小川町を目指した。
埼玉県比企郡小川町・・・ そうは言ってもそこは東京にほど近い、武蔵の国の「小京都」の散策記である。
小川町の市街地
武蔵野(2) 2009-10 [日本の町散歩(関東)]
東久留米に移り住んで、武蔵野の面影探訪は私のライフワークのひとつとなった。
無機質な団地、没個性な建売住宅、目を覆いたくなるくらい醜い郊外店舗の中に、
埋もれているように見えても、はっとするような美しい武蔵野の風景は、至る所に残っている。
武蔵野のことを調べると、よく「滅びゆく武蔵野」とか「武蔵野は死んだ」などという言い方が常套句のように用いられているのに出会う。しかし、私はそんなことはないと思う。
少子高齢化はまだまだ進むだろうし、都心回帰の動きも、加速化するだろう。
誰もかれもが郊外に家を持って独立したのは、あの時代の、一時的なものだった。
東京の実質的なスプロール化は、もう終わりを迎えているのだ。
だから、武蔵野は静かに、ゆっくりと、目に見えないスピードで、昔に還ってゆくに違いない。
トラックがひっきりなしに通る狭い所沢街道は、昔ながらの曲がりくねった道である。
そして、ほおかむりをした老婆が、2010年のいまも時折、牛を引き連れて歩いてくる。
無機質な団地、没個性な建売住宅、目を覆いたくなるくらい醜い郊外店舗の中に、
埋もれているように見えても、はっとするような美しい武蔵野の風景は、至る所に残っている。
武蔵野のことを調べると、よく「滅びゆく武蔵野」とか「武蔵野は死んだ」などという言い方が常套句のように用いられているのに出会う。しかし、私はそんなことはないと思う。
少子高齢化はまだまだ進むだろうし、都心回帰の動きも、加速化するだろう。
誰もかれもが郊外に家を持って独立したのは、あの時代の、一時的なものだった。
東京の実質的なスプロール化は、もう終わりを迎えているのだ。
だから、武蔵野は静かに、ゆっくりと、目に見えないスピードで、昔に還ってゆくに違いない。
トラックがひっきりなしに通る狭い所沢街道は、昔ながらの曲がりくねった道である。
そして、ほおかむりをした老婆が、2010年のいまも時折、牛を引き連れて歩いてくる。
東久留米市小山。2009年10月
下仁田 2009 [日本の町散歩(関東)]
ねぎ、こんにゃく等、名産が多い下仁田。それがどこにあるのか知らなくても、名前だけは知っているという人も多いだろう。とくに、なべ料理に入れる「下仁田ネギ」の、甘く、とろけるような美味しさといったらない。私も、これがネギなのかという衝撃を受けた記憶がある。長野や高崎などの近隣での生産も試みられているが、どれだけ品種改良をおこなっても、元の下仁田産のもののようには美味しくならないという。
地図で見ると、高崎からわざわざ下仁田まで上信電鉄という私鉄が敷かれているのがわかる。わざわざ鉄道を引くというのは、そこが重要な人や物資の集散地であったということであり、また鉄道を引くだけの富があったということでもある。
そういうことから興味をもった私だが、先般、ひょんなことから、下仁田を訪れることができた。
バイクに乗って、秩父から長野方面へ山越えをしていた私は、十石峠に向かう道路が土砂崩れで通行止めとなり、やむなく北方面へバイクを走らせた。狭く曲がりくねった山道を越えてゆくと、急に小さな盆地が開け、山に囲まれたような町が見えた。
そうして、降りて行ったところが、下仁田であったのだ。
地図で見ると、高崎からわざわざ下仁田まで上信電鉄という私鉄が敷かれているのがわかる。わざわざ鉄道を引くというのは、そこが重要な人や物資の集散地であったということであり、また鉄道を引くだけの富があったということでもある。
そういうことから興味をもった私だが、先般、ひょんなことから、下仁田を訪れることができた。
バイクに乗って、秩父から長野方面へ山越えをしていた私は、十石峠に向かう道路が土砂崩れで通行止めとなり、やむなく北方面へバイクを走らせた。狭く曲がりくねった山道を越えてゆくと、急に小さな盆地が開け、山に囲まれたような町が見えた。
そうして、降りて行ったところが、下仁田であったのだ。
郊外から。 ~(2)東京近郊 [日本の町散歩(関東)]
30歳を過ぎたころ、私はまた東京にやってきた。
名目上は会社の仕事のため。
本当は、ある人のそばに居たかったからであった。
そして、武蔵野の片隅に人知れず住みついたはよいが、
会社の仕事についても、女性との恋愛についても、
いつまでも火をつけることができず、次第に風向きが悪くなり、
さまざまなものが失われてゆくのを、
まるで傍観者のようにただ手をこまねいて、眺めていた。
名目上は会社の仕事のため。
本当は、ある人のそばに居たかったからであった。
そして、武蔵野の片隅に人知れず住みついたはよいが、
会社の仕事についても、女性との恋愛についても、
いつまでも火をつけることができず、次第に風向きが悪くなり、
さまざまなものが失われてゆくのを、
まるで傍観者のようにただ手をこまねいて、眺めていた。
埼玉県新座市新堀
武蔵野(1) 2008-09 [日本の町散歩(関東)]
先ごろまで、東京の西のはずれにある東久留米というところに住んでいた。池袋から郊外電車でわずか20数分という便利な場所で、駅前のロータリーを取り囲むように高層マンションが並ぶ。そんな真新しいマンションの一室が私の部屋であった。
不思議な場所だった。林立する高層マンションに囲まれていても、夜になると、廊下まで涼やかな風が吹き込み、ほのかな草の匂いがした。遠くざわざわと、林の鳴る音が聞こえた。
マンションの脇には、取り残されたようなかぼそい商店街があり、つきあたりまで進んだところに、それはそれは小さくてお粗末な、東久留米駅の旧駅舎が、大規模な新駅とマンションに挟まれて、しかしまだ現役で残されていた。
私は、昭和24年建造というこのおんぼろ駅舎が好きだった。眺めているうちに、かつて一面の農村だった頃のこの地の様子が、ありありと浮かんくるからだ。
さえぎるものの何もない、武蔵野の真っただ中の小さな駅。土埃のもうもうと舞う駅前のあぜ道を、籠を頭上に載せた老婆が歩き、手押し車やリヤカーが行き交った頃があっただろうか。
高度成長の時代が来て、畑や雑木林は切り開かれ、そこにたくさんの団地ができた。ちょうど、私達の父母の世代である。この小さな駅の改札を、明日を信じる多くのサラリーマンパパが利用し、雨の日には、妻であり母である多くの女性たちが、ジャノメ傘で迎えに集まっただろう。
そんな武蔵野の移り変わりを、私は想像して楽しんだ。そして、武蔵野の歴史の残り香を、もっと探してみたいと思った。
不思議な場所だった。林立する高層マンションに囲まれていても、夜になると、廊下まで涼やかな風が吹き込み、ほのかな草の匂いがした。遠くざわざわと、林の鳴る音が聞こえた。
マンションの脇には、取り残されたようなかぼそい商店街があり、つきあたりまで進んだところに、それはそれは小さくてお粗末な、東久留米駅の旧駅舎が、大規模な新駅とマンションに挟まれて、しかしまだ現役で残されていた。
私は、昭和24年建造というこのおんぼろ駅舎が好きだった。眺めているうちに、かつて一面の農村だった頃のこの地の様子が、ありありと浮かんくるからだ。
さえぎるものの何もない、武蔵野の真っただ中の小さな駅。土埃のもうもうと舞う駅前のあぜ道を、籠を頭上に載せた老婆が歩き、手押し車やリヤカーが行き交った頃があっただろうか。
高度成長の時代が来て、畑や雑木林は切り開かれ、そこにたくさんの団地ができた。ちょうど、私達の父母の世代である。この小さな駅の改札を、明日を信じる多くのサラリーマンパパが利用し、雨の日には、妻であり母である多くの女性たちが、ジャノメ傘で迎えに集まっただろう。
そんな武蔵野の移り変わりを、私は想像して楽しんだ。そして、武蔵野の歴史の残り香を、もっと探してみたいと思った。
東久留米駅北口駅舎。2008年8月
鎌倉 2008 [日本の町散歩(関東)]
「梅雨の鎌倉も、きれいだろうな・・・」
そう書いてよこしたのは、彼女のほうだった。
僕は、ある期待をこめて、返事を書いた。
「小雨の降る日曜日が来たら、僕は写真でも撮りに、鎌倉へ行ってみるよ。」
こころが通じているなら、、、
こころが通じているなら、霧雨煙る鎌倉で、僕達は邂逅できるはずだ。
次の日曜日、鎌倉はくもりだった。
でも、僕は夜行バスに乗って、そこへ行った。
そして、言い訳のように、写真を撮った。
そう書いてよこしたのは、彼女のほうだった。
僕は、ある期待をこめて、返事を書いた。
「小雨の降る日曜日が来たら、僕は写真でも撮りに、鎌倉へ行ってみるよ。」
こころが通じているなら、、、
こころが通じているなら、霧雨煙る鎌倉で、僕達は邂逅できるはずだ。
次の日曜日、鎌倉はくもりだった。
でも、僕は夜行バスに乗って、そこへ行った。
そして、言い訳のように、写真を撮った。
明月院への参道付近にて
湘南 2006 [日本の町散歩(関東)]
可愛い女のこに囲まれていたわけでも、ヨットや波乗りができるわけでもなかったけれど、
なぜか、湘南の海と浜辺が好きだった。
学生のころ、用もないのに、授業をサボって逗子にいた。
京急の駅前で、別の教官と鉢合わせになり大変びびった。
社会人一年生のころ、仕事が遅い私は連日オフィスで徹夜。
週末の明け方、スーツも脱がないまま車を借り、第三京浜を南へ飛ばした。
女のこに振られた次の日は、なぜか江ノ電に揺られたくなった。
新しい女のこと初デートがうまくいった次の日も、潮風を浴びにいった。
思えば、私の青春は、実に中途半端なものだった。
それでも、湘南はいつでも私を受け入れてくれた。
20代最後の年となった、2006年のゴールデンウィーク。
追憶を込めて湘南を撮った。
なぜか、湘南の海と浜辺が好きだった。
学生のころ、用もないのに、授業をサボって逗子にいた。
京急の駅前で、別の教官と鉢合わせになり大変びびった。
社会人一年生のころ、仕事が遅い私は連日オフィスで徹夜。
週末の明け方、スーツも脱がないまま車を借り、第三京浜を南へ飛ばした。
女のこに振られた次の日は、なぜか江ノ電に揺られたくなった。
新しい女のこと初デートがうまくいった次の日も、潮風を浴びにいった。
思えば、私の青春は、実に中途半端なものだった。
それでも、湘南はいつでも私を受け入れてくれた。
20代最後の年となった、2006年のゴールデンウィーク。
追憶を込めて湘南を撮った。
藤沢市辻堂