阪堺電車 1979-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]
私が鉄道少年になったのはひとえに、住んでいた家の近くを走っていた、この小さな電車のせいである。
下の写真に、その頃の私が写っている。当時は3歳くらいであっただろうか。
よく父や母に連れられて(というより、私が父や母を引っ張って行ったようだが)、最寄駅の石津駅にゆき、電車が往来するのを、何十分も、じっと眺めていた。
当時は、今よりもずっと運転本数が多く、昼間でも8分間隔だったように記憶している。夕方のラッシュ時になると、それこそひっきりなしに電車が到着し、続々と連なって見えることも珍しくなかった。
当時の阪堺電車は、5パターンの色しかなかった。濃緑一色の電車、それに波の模様がついた電車(タマノイ酢の広告電車)のほか、いわゆる黄緑、青、オレンジの3種類の「雲電車」(雲をデザインした立石電機(現オムロン)の広告電車)であり、次に来る電車の色について、父や母とよく当てっこをしたのを覚えている。黄緑色のことを、父は「くさ色(草色)」と呼び、そのたびに小さかった私は「くさい色やって~」と笑った。
このスタイルの351形、501形は全社オレンジ色の雲電車であったように記憶している。
ちなみに草色の161形には「緑を大切に育てましょう」。青色の301形には「子供にはこの街が故郷です」。そしれオレンジ色の351形、501形には「ふれあいの心をたいせつに」、という言葉が、雲電車にはそれぞれ添えられていた。広告電車であるにもかかわらず、「サイバネーションの立石電機」と控えめに書かれているだけで、今思うとずいぶん奥ゆかしい広告電車であった。
4-5歳になると、私はひとりで石津駅に出かけるようになった。
駅といっても、ご覧のように軌道線の小さな停留所であり、駅員などいない。そこで私は、部屋からおもちゃの笛を持ちだし、電車が来るたびにホームで笛をふいて、駅員の真似をしていた。トンチンカンな笛の音に、乗降客も運転手もさぞ迷惑だっただろう。
小学校に上がり、3年生になった頃くらいから、私は時折、父のカメラを持ち出して、この大好きな電車達を撮り、アルバムに収めるようになった。これが、私の写真趣味の始まりである。たしか、富士フィルムのレンジファインダーカメラだったと思うが、細かいことは思い出せない。
以降、小学生だった私の、稚拙な写真である。
以後はすべて、私の写真である。
1985年、ようやく阪堺電車にも冷房車が登場し、沿線が湧いた。モ501形とモ351形がその後数年かけて冷房化された。夏は何本も電車を待ってこれに乗る一般客も多かったと思う。
この頃、私は友人達と夏休みに浜寺公園にある伝統ある「浜寺水練学校」に通っていた。やはり冷房車が来ると皆で「あっ!れいぼうが来た!!」と、歓声を上げて大喜びし、運転中の運転手を取り囲んで(阪堺電車は、バスと同じで運転台と客室の間に仕切りがない)「おっちゃんはれいぼう運転できるなんてすごいなー」「ふつうのんと(運転方法が)ちがうんやろ?」などとよってたかって話しかけていた。
1987年、今度は、阪堺電車にまさかの新型電車が登場した。私は狂喜し、クラスメート数名とともに、追っかけまくった。小学生の頃は、やはり電車好きの子がクラスに何人もいて、こうした話題も共感を得られたものだ。
小型車のモ205形とモ251形は、殆ど出番がなかった。小学校低学年頃までは、ラッシュ時を中心にごくごく少数だがその姿が見られたと記憶しているが、それ以降は、この両形式を見ることは通常の営業ではめっきりなくなり、正月輸送などの臨時増発時のみとなった。以下は、正月輸送華やかなりし頃、東湊折り返しの区間運転に充当された両形式。
以後、「お受験」のために忙しくなった私は、駅へ電車を見に行くこともなくなり、しばらく写真を撮りに行くこともなくなった。
中学校に入り、奈良県に転居したあと、もはや阪堺電車は身近な存在ではなくなってしまった。
新しい自分のカメラを買ってもらった私の興味の対象は、新居の近くを走る近鉄電車となった。
だが、やはり懐かしくなり、時折、わざわざ阪堺電車を撮りに行った。
以降は中学校時代以降の写真である。
小学校時代と比べると、少しだけ上手になったかな・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■帝塚山の町と阪堺電車■
元は高級住宅地(というよりお屋敷街と言ったほうが雰囲気が合う)だった帝塚山。今でも蔵のある家や旧家がわずかに残っているが、すっかり新築マンションがふえてしまった。1980年代後期には、おしゃれな街として女性の人気を集めた時期もあったようだが、それもすっかり今は昔である。ただ、2010年現在においても、老舗の洋菓子店やジャズバー、カフェなどところどころ存在し、なんとか、そのころの面影をしのぶことができる。
写真は1990年代初頭のもので、好きな町と電車をからめて撮るということを始めた時期。
■天王寺駅前の風景
■えびす町駅■
■浜寺駅前駅
■住吉鳥居前から■
私にとっては幼いころから初詣といえば住吉大社であり、七五三やら何かにつけても、やはり住吉大社であった。幼いころの記憶では、混雑で前に進めない住吉大社は壮大な規模の神社であると思っていたが、大人になってから訪れてみると、意外に小規模なのに驚いた。それでも、大阪第一の由緒正しき古社であることには変わりはない。
モ251形を捉えた最後の写真(1994年)以後、私は阪堺電車の撮影を行っていない。
異色だったモ205形、モ251形はもちろん、モ151形、モ301形、モ121形も全車廃車となり、あれほど当たり前のように沢山いたモ161形も、いつの間にか数両を残すのみとなっている。
乗車人員も下降の一途をたどり、阪堺線は昼間時8分間隔から12分間隔に減便された。
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※堺市が堺市内でLRT(次世代型路面電車)を建設し、阪堺電車と相互乗り入れをするという構想を打ち出したのは2005年頃だったか。2009年には基本計画も発表され、阪堺電車にとっても後がない起死回生策だったが、2010年の市長交代とともに中止となった。だが新市長による阪堺電車支援策による運賃値下げ、また運行系統の大幅見直しにより、2011年、減り続けた阪堺電車の乗客数はわずかながら上昇に転じている。
私も、いまや30代半ば、東京在住の身ながら、このヒューマンスケールの阪堺電車を応援、生き返らせるべく何か努力したいと考えている。
それはノスタルジーからではなく、私達が次の時代の都市生活をどのようにつくってゆくべきかを考えた時、路面電車は環境負荷の面からもコミュニティづくりの面からも、もっともその理想を体現する未来の乗り物であるように思えるからだ。
下の写真に、その頃の私が写っている。当時は3歳くらいであっただろうか。
よく父や母に連れられて(というより、私が父や母を引っ張って行ったようだが)、最寄駅の石津駅にゆき、電車が往来するのを、何十分も、じっと眺めていた。
当時は、今よりもずっと運転本数が多く、昼間でも8分間隔だったように記憶している。夕方のラッシュ時になると、それこそひっきりなしに電車が到着し、続々と連なって見えることも珍しくなかった。
当時の阪堺電車は、5パターンの色しかなかった。濃緑一色の電車、それに波の模様がついた電車(タマノイ酢の広告電車)のほか、いわゆる黄緑、青、オレンジの3種類の「雲電車」(雲をデザインした立石電機(現オムロン)の広告電車)であり、次に来る電車の色について、父や母とよく当てっこをしたのを覚えている。黄緑色のことを、父は「くさ色(草色)」と呼び、そのたびに小さかった私は「くさい色やって~」と笑った。
モ161形 石津駅 1979年頃 撮影・父
モ351形354 石津駅 1979年頃 撮影:父
このスタイルの351形、501形は全社オレンジ色の雲電車であったように記憶している。
ちなみに草色の161形には「緑を大切に育てましょう」。青色の301形には「子供にはこの街が故郷です」。そしれオレンジ色の351形、501形には「ふれあいの心をたいせつに」、という言葉が、雲電車にはそれぞれ添えられていた。広告電車であるにもかかわらず、「サイバネーションの立石電機」と控えめに書かれているだけで、今思うとずいぶん奥ゆかしい広告電車であった。
4-5歳になると、私はひとりで石津駅に出かけるようになった。
駅といっても、ご覧のように軌道線の小さな停留所であり、駅員などいない。そこで私は、部屋からおもちゃの笛を持ちだし、電車が来るたびにホームで笛をふいて、駅員の真似をしていた。トンチンカンな笛の音に、乗降客も運転手もさぞ迷惑だっただろう。
小学校に上がり、3年生になった頃くらいから、私は時折、父のカメラを持ち出して、この大好きな電車達を撮り、アルバムに収めるようになった。これが、私の写真趣味の始まりである。たしか、富士フィルムのレンジファインダーカメラだったと思うが、細かいことは思い出せない。
以降、小学生だった私の、稚拙な写真である。
おそらく私が一番最初に撮った写真。
このころ、すでに雲の広告電車はなくなり、派手な塗装が施されるようになった。
なお左端に写っているのが父である。
当時、自分でつけたこの写真のタイトルは「チャーミングな171とみにくい腹」。
モ161形171。石津。1984年頃。
このころ、すでに雲の広告電車はなくなり、派手な塗装が施されるようになった。
なお左端に写っているのが父である。
当時、自分でつけたこの写真のタイトルは「チャーミングな171とみにくい腹」。
モ161形171。石津。1984年頃。
これは父が撮ったもの。私のものに比べると、さすがに水平もとれて安定感がある。
モ161形173。石津。1984年頃。撮影・父。
モ161形173。石津。1984年頃。撮影・父。
以後はすべて、私の写真である。
天王寺駅前の風景。モ501形501。1986年頃。
左側の近鉄百貨店は現在建設中のものから振り返ると、2世代前の建物になる。
左側の近鉄百貨店は現在建設中のものから振り返ると、2世代前の建物になる。
モ121形121。 天王寺駅前 1986年頃。
この頃、明るい緑に白帯の新阪堺標準色が設定され、121形はこれを纏ったものが多かった。
この頃、明るい緑に白帯の新阪堺標準色が設定され、121形はこれを纏ったものが多かった。
モ121形121、123。石津。1987年9月。
モ121形124。東湊-石津。1987年6月。
121形は、161形などと比べ標識灯の位置等いくつか違いがあり、
男性的な161形グループに比べると、どことなく女性的な雰囲気を持っていた。
121形は、161形などと比べ標識灯の位置等いくつか違いがあり、
男性的な161形グループに比べると、どことなく女性的な雰囲気を持っていた。
浜寺駅前付近。モ151形(左)、モ501形(右) 1986年頃?
モ161形167。石津。1987年7月。
阪堺電車ペイントコンクール?にて特選になった女の子のデザイン・・・
阪堺電車ペイントコンクール?にて特選になった女の子のデザイン・・・
モ161形175。1987年。石津-船尾。
石津駅を発車したところにある石津川の鉄橋。車両は151形か。
当時、この鉄橋を生活道路がわりにわたる人が少なくなく、
私も友人達とおっかなびっくりこの鉄橋を渡ったことがある。
このような淀みきった真っ黒な川と、工場の煙突、そこからもくもくと上がる白煙・・・
こんな風景が、私の原風景でもある。
当時、この鉄橋を生活道路がわりにわたる人が少なくなく、
私も友人達とおっかなびっくりこの鉄橋を渡ったことがある。
このような淀みきった真っ黒な川と、工場の煙突、そこからもくもくと上がる白煙・・・
こんな風景が、私の原風景でもある。
モ161形170。船尾-浜寺駅前。1987年7月。
当時の私はアルバムに
「このものすごーくハデなでんしゃはなんですか。みっともない!」
とコメントしている。
当時の私はアルバムに
「このものすごーくハデなでんしゃはなんですか。みっともない!」
とコメントしている。
モ161形162。石津-東湊。1986年10月。
関西では珍しかったイトーヨーカドー堺店は1985年に開業した。
関西では珍しかったイトーヨーカドー堺店は1985年に開業した。
モ161形172(左)と163(右)。石津。1984年9月。
163は懐かしい雲電車だが、もうこの時期は立石電機の広告電車ではなく、
単なる復刻ペイントであった。
163は懐かしい雲電車だが、もうこの時期は立石電機の広告電車ではなく、
単なる復刻ペイントであった。
モ151形154。あびこ道。1988年7月。
出庫してホームに滑り込む時にホームから撮影したものだが、真正面なので
小学校の友人達が「これどうやって撮ったん!?」と騒いでくれた。。
モ161形とはスカートの形状など細かな違いがあり、モ161よりもさらに重厚な印象があった。
出庫してホームに滑り込む時にホームから撮影したものだが、真正面なので
小学校の友人達が「これどうやって撮ったん!?」と騒いでくれた。。
モ161形とはスカートの形状など細かな違いがあり、モ161よりもさらに重厚な印象があった。
モ151形153。御陵前-東湊。1987年7月。
モ151形は全車昭和2年製であった。御陵前。1987年7月。
ピントがあってない。
ピントがあってない。
モ151形はモ701形の登場とともに一足早く廃車が進められた。
出番の少ないモ251形やモ205形が連なって引きこもっているほか
右端に廃車直前で留置中の151が見える。あびこ道。1987年7月。
出番の少ないモ251形やモ205形が連なって引きこもっているほか
右端に廃車直前で留置中の151が見える。あびこ道。1987年7月。
1985年、ようやく阪堺電車にも冷房車が登場し、沿線が湧いた。モ501形とモ351形がその後数年かけて冷房化された。夏は何本も電車を待ってこれに乗る一般客も多かったと思う。
モ501形505。船尾-浜寺駅前。 1987年6月。
最初はモ501形の5両が順次冷房化された。
最初はモ501形の5両が順次冷房化された。
モ501形503。石津。冷房化直後の姿。1985年8月。
正面腰部にペンギンのキャラクターによる「冷房車」のステッカーが貼られていた。
だが当時つけたこの写真のタイトルは「サングラスのオバハン」とある。
正面腰部にペンギンのキャラクターによる「冷房車」のステッカーが貼られていた。
だが当時つけたこの写真のタイトルは「サングラスのオバハン」とある。
この頃、私は友人達と夏休みに浜寺公園にある伝統ある「浜寺水練学校」に通っていた。やはり冷房車が来ると皆で「あっ!れいぼうが来た!!」と、歓声を上げて大喜びし、運転中の運転手を取り囲んで(阪堺電車は、バスと同じで運転台と客室の間に仕切りがない)「おっちゃんはれいぼう運転できるなんてすごいなー」「ふつうのんと(運転方法が)ちがうんやろ?」などとよってたかって話しかけていた。
モ501形504。御陵前-寺地町。1987年9月
モ501形に続きモ351形も順次冷房化されていった。石津-東湊。1987年
1987年、今度は、阪堺電車にまさかの新型電車が登場した。私は狂喜し、クラスメート数名とともに、追っかけまくった。小学生の頃は、やはり電車好きの子がクラスに何人もいて、こうした話題も共感を得られたものだ。
登場直後のモ701形701。寺地町。1987年7月。
登場時のキャッチコピーをいまだに覚えている。「はじめまして、701(ナウい)電車です」だったと思う。
今となっては時代を感じるコピーである。
今となっては時代を感じるコピーである。
営業開始直前の701。運転士習熟のため試運転が繰り返されていた。
私は友人数人と石津駅で何時間も待ち続けてその姿をカメラに収めた。1987年7月
私は友人数人と石津駅で何時間も待ち続けてその姿をカメラに収めた。1987年7月
冬の日の東湊駅での701。カメラを斜めにしてみた初めての写真。1987年12月
1988年夏には、702、703の二両が同時に登場した。「こんにちは。ぼく703号です」
御陵前-東湊。1988年8月。
御陵前-東湊。1988年8月。
「こんにちは。わたくし702号です」
東湊-御陵前。1988年8月。
東湊-御陵前。1988年8月。
小型車のモ205形とモ251形は、殆ど出番がなかった。小学校低学年頃までは、ラッシュ時を中心にごくごく少数だがその姿が見られたと記憶しているが、それ以降は、この両形式を見ることは通常の営業ではめっきりなくなり、正月輸送などの臨時増発時のみとなった。以下は、正月輸送華やかなりし頃、東湊折り返しの区間運転に充当された両形式。
モ251形は元京都市電。輸送力が小さいうえスピードが遅かった。
255。東湊 1988年1月。
255。東湊 1988年1月。
モ205形は元平野線用の連結用電車であり、小型であった。
平野線廃止後は246、247、248の三両のみがワンマン改造されて残されたが、出番は少なかった。
246。東湊。1988年1月。
平野線廃止後は246、247、248の三両のみがワンマン改造されて残されたが、出番は少なかった。
246。東湊。1988年1月。
以後、「お受験」のために忙しくなった私は、駅へ電車を見に行くこともなくなり、しばらく写真を撮りに行くこともなくなった。
中学校に入り、奈良県に転居したあと、もはや阪堺電車は身近な存在ではなくなってしまった。
新しい自分のカメラを買ってもらった私の興味の対象は、新居の近くを走る近鉄電車となった。
だが、やはり懐かしくなり、時折、わざわざ阪堺電車を撮りに行った。
以降は中学校時代以降の写真である。
小学校時代と比べると、少しだけ上手になったかな・・・
モ301形304。阿倍野-天王寺駅前。1990年8月。
モ301形 301、302。住吉。1990年8月。
モ301形は当時全車このタマノイ酢の広告電車だった。
モ301形は当時全車このタマノイ酢の広告電車だった。
モ301形 302。松虫。1991年1月。
モ161形167。阿倍野-天王寺駅前 1990年8月。
モ161形166。阿倍野-天王寺駅前 1991年1月
モ121形130。あびこ道。 1990年8月
あびこ道。1992年7月
あびこ道検車区。1990年8月。
デビュー時こそ広告とは無縁だったモ701形も、この頃には順次広告電車に。
近鉄百貨店のさわやかな広告電車は私のお気に入りだった。701。1990年8月。
近鉄百貨店のさわやかな広告電車は私のお気に入りだった。701。1990年8月。
モ121形130ほか 住吉鳥居前 1991年1月。
関西一の初詣客を誇る住吉大社を沿線に持つ阪堺では、正月はかきいれ時。
多数の臨時電車や区間運転の珍しい電車が運転された。
関西一の初詣客を誇る住吉大社を沿線に持つ阪堺では、正月はかきいれ時。
多数の臨時電車や区間運転の珍しい電車が運転された。
モ251形も久々に姿を見せた。住吉鳥居前 1991年1月。
毎年、正月だけは出番があったモ205形だったが、1991年の正月は運転されず。
殆どの車両が出払った車庫のすみで248がぽつんと居残っていた。
その小さな体がひときわ小さく見えた。あびこ道。
殆どの車両が出払った車庫のすみで248がぽつんと居残っていた。
その小さな体がひときわ小さく見えた。あびこ道。
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新春の大阪下町の風景。奥にモ301の姿が見える。
東天下茶屋-北畠。1991年1月
東天下茶屋-北畠。1991年1月
帝塚山のシンボル「帝塚山ミューズコート」と704。帝塚山三丁目。1991年
■帝塚山の町と阪堺電車■
元は高級住宅地(というよりお屋敷街と言ったほうが雰囲気が合う)だった帝塚山。今でも蔵のある家や旧家がわずかに残っているが、すっかり新築マンションがふえてしまった。1980年代後期には、おしゃれな街として女性の人気を集めた時期もあったようだが、それもすっかり今は昔である。ただ、2010年現在においても、老舗の洋菓子店やジャズバー、カフェなどところどころ存在し、なんとか、そのころの面影をしのぶことができる。
写真は1990年代初頭のもので、好きな町と電車をからめて撮るということを始めた時期。
帝塚山三丁目駅前にある帝塚山ミューズコートとモ121形130。1992年12月。
ミューズコートは、1984年竣工。
単なるお屋敷街だった帝塚山に突如出現したモダンな複合商業施設。
クラシック音楽専門のバーやフランス料理店、ブティックなどが入居し、
ハイソな街、帝塚山のシンボルとなった。
ミューズコートは、なぜか2008年に取り壊され、もうない。
ミューズコートは、1984年竣工。
単なるお屋敷街だった帝塚山に突如出現したモダンな複合商業施設。
クラシック音楽専門のバーやフランス料理店、ブティックなどが入居し、
ハイソな街、帝塚山のシンボルとなった。
ミューズコートは、なぜか2008年に取り壊され、もうない。
モ701形705。帝塚山三丁目-姫松。1992年12月
モ701形705。姫松。
岡村製作所の洒落た広告電車が帝塚山の街の雰囲気を盛り上げている。1992年12月
岡村製作所の洒落た広告電車が帝塚山の街の雰囲気を盛り上げている。1992年12月
モ701形702。右端に見えるカフェ「POINT」は蔵を改造してできたお店。
1970年代に開業し帝塚山の移り変わりを見続けてきた店。2010年現在も営業中である。
1992年12月
1970年代に開業し帝塚山の移り変わりを見続けてきた店。2010年現在も営業中である。
1992年12月
姫松駅でのモ701形704。1992年12月
姫松駅は、路面電車の停留所だが、路肩に小さな待合室がある。
姫松駅は、路面電車の停留所だが、路肩に小さな待合室がある。
■天王寺駅前の風景
ラッシュ時の天王寺駅前。続々と電車が到着している。1992年12月
この頃の上町線は、朝ラッシュに、一時間あたり25本程度運転本数があったと記憶している。
この頃の上町線は、朝ラッシュに、一時間あたり25本程度運転本数があったと記憶している。
上の写真の続き。ラッシュ時に2車両が一度に入駅することがあり興奮したものだ。
平野線が健在であった頃は、2車両が停車しているのが恒常的な風景であったという。
平野線が健在であった頃は、2車両が停車しているのが恒常的な風景であったという。
さらに続々とモ161形が天王寺に接近中。
この下町風情溢れる狭い「あべの筋」も、再開発と拡幅により昔の風景となった。
この下町風情溢れる狭い「あべの筋」も、再開発と拡幅により昔の風景となった。
■えびす町駅■
阪堺線の大阪方ターミナルでありながら、喧騒とは無縁のえびす町駅。
それでも当時は昼間時8分間隔を堅持していた。モ701形704。1990年頃
それでも当時は昼間時8分間隔を堅持していた。モ701形704。1990年頃
モ501形501。1992年12月
1992年12月
■浜寺駅前駅
夏の浜寺といえばプール。小学校学校時代の私も通った水練学校も開催され、
到着する電車からは子供たちが元気よく駆け下りてきた。1992年7月。
当時の浜寺駅前駅では多客時は降車専用ホームが設けられていたが、
続々と到着する電車のために降車専用ホームは4つもあったと記憶している。
いまは昔である。
到着する電車からは子供たちが元気よく駆け下りてきた。1992年7月。
当時の浜寺駅前駅では多客時は降車専用ホームが設けられていたが、
続々と到着する電車のために降車専用ホームは4つもあったと記憶している。
いまは昔である。
■住吉鳥居前から■
私にとっては幼いころから初詣といえば住吉大社であり、七五三やら何かにつけても、やはり住吉大社であった。幼いころの記憶では、混雑で前に進めない住吉大社は壮大な規模の神社であると思っていたが、大人になってから訪れてみると、意外に小規模なのに驚いた。それでも、大阪第一の由緒正しき古社であることには変わりはない。
住吉鳥居前。えびす町行きと、あびこ道始発の天王寺行きは続行で走る。
モ161形173。この頃は夏でも161は窓を開け放して元気に走っていた。1992年7月
モ161形173。この頃は夏でも161は窓を開け放して元気に走っていた。1992年7月
モ161形168。住吉鳥居前。 1992年7月
住吉大社の内部から捉えた門前の風景。161形が行き交う。 1992年12月
モ501形501。1992年12月。この光景は今もあまり変わらない。
最晩年のモ251形256は京都市電時代のリバイバル塗装となり、1995年に廃車された。
ただしこの256はリバイバル塗装のまま車庫に残り、
イベント時に車庫内限定ではあるが今もその姿を見せている。住吉。1994年。
ただしこの256はリバイバル塗装のまま車庫に残り、
イベント時に車庫内限定ではあるが今もその姿を見せている。住吉。1994年。
モ251形を捉えた最後の写真(1994年)以後、私は阪堺電車の撮影を行っていない。
異色だったモ205形、モ251形はもちろん、モ151形、モ301形、モ121形も全車廃車となり、あれほど当たり前のように沢山いたモ161形も、いつの間にか数両を残すのみとなっている。
乗車人員も下降の一途をたどり、阪堺線は昼間時8分間隔から12分間隔に減便された。
↓↓↓↓↓↓
※堺市が堺市内でLRT(次世代型路面電車)を建設し、阪堺電車と相互乗り入れをするという構想を打ち出したのは2005年頃だったか。2009年には基本計画も発表され、阪堺電車にとっても後がない起死回生策だったが、2010年の市長交代とともに中止となった。だが新市長による阪堺電車支援策による運賃値下げ、また運行系統の大幅見直しにより、2011年、減り続けた阪堺電車の乗客数はわずかながら上昇に転じている。
私も、いまや30代半ば、東京在住の身ながら、このヒューマンスケールの阪堺電車を応援、生き返らせるべく何か努力したいと考えている。
それはノスタルジーからではなく、私達が次の時代の都市生活をどのようにつくってゆくべきかを考えた時、路面電車は環境負荷の面からもコミュニティづくりの面からも、もっともその理想を体現する未来の乗り物であるように思えるからだ。
以上
2006-11-14 15:41
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