阪急電車 1985-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]
小学生の頃は南海沿線、中学校以降大学入学までは近鉄沿線に住んでいた私だが、やはり阪急電車への憬れというものは否定できないものがあった。
他の電車とは比べ物にならないくらい、どの電車もピカピカで、編成も長く、スピードも速く、おまけに運賃も安かった阪急電車は、小林一三にはじまる阪急イズムを直接知らなかった当時の私にとっても、「私鉄の中でも別格」の存在として映ったのである。
小学生三年生の頃から毎年、フリー切符を使った「阪急電車のりまわし」を父親と行っている。毎度毎度、前の日の晩は、ワクワクしすぎて寝付けなかったものだ。
小学校四年生の時は、クラスで「鉄道クラブ」を組織し、メンバーに阪急電車に乗せてやりたいがために、嵐山旅行を企画、実行したりしている(小学生ばかり5人で堺から京都まで行くというのはなかなかの冒険だった)。
堺市に住んでいた私にとっては、阪急とは憧れと尊敬の対象であり、なかなか乗ることができない分、所持していた「カラーブックス 阪急」や「ヤマケイ私鉄ハンドブック 阪急」のページを毎日毎日飽くことなくめくっていたものである。
//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
例によって、まずは小学生時代、父親による撮影分を紹介する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここからは私の撮影分。
小学校3年生の頃から、恒例となっていた、父との「阪急乗りまわし」だが、写真が残っているのは、小学校5年生にあたる1988年1月頃のものから。
中学生になり、近鉄大好き少年になってからも、阪急への憬れは変わらなかった。世の中は表示幕車両(行き先をバスのような、くるくる回る幕によって表示している電車)ばかりになったにもかかわらず、阪急には昔ながらの、看板をつけて行き先を表示する電車が多数走っており、時代の流れに迎合しない孤高の存在感は、私の中での阪急の評価をさらに高めた。
1975年以降、京都線特急車として数ある阪急電車の中でもトップスターに君臨してきた6300系電車は、まさに「キング・オブ・阪急」(クイーンという人もいるが)の品格を漂わせて私を魅了した。今でこそ、屋根まわりがアイボリーに塗られている車両が大半となった阪急だが、当時は新鋭の8000系、8300系を除くと、アイボリーホワイトの屋根は6300系ならではの特徴であった。
高校にあがる頃から、とくに阪急神戸線沿線の持つ、独特の雰囲気に魅かれるようになった。いわゆる阪神間の山の手の、非常に洗練されていながら、ゆったりとした時間が流れる街々の雰囲気にあこがれ、阪急電車とからめて撮るようになった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
再び京都線に戻る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
阪急でも一部、リバーサルフィルムを使って撮影を試みている。
この後、大学への受験勉強で忙しくなった私は、阪急電車はもとより、鉄道撮影そのものから次第に足が遠のくようになったが、阪急への憬れは持ち続けていた。
ただ、その阪急電車に、何年ものち社会人になり、まさか沿線に住んで毎日のように乗車することになるとは思っていなかったが・・
他の電車とは比べ物にならないくらい、どの電車もピカピカで、編成も長く、スピードも速く、おまけに運賃も安かった阪急電車は、小林一三にはじまる阪急イズムを直接知らなかった当時の私にとっても、「私鉄の中でも別格」の存在として映ったのである。
小学生三年生の頃から毎年、フリー切符を使った「阪急電車のりまわし」を父親と行っている。毎度毎度、前の日の晩は、ワクワクしすぎて寝付けなかったものだ。
小学校四年生の時は、クラスで「鉄道クラブ」を組織し、メンバーに阪急電車に乗せてやりたいがために、嵐山旅行を企画、実行したりしている(小学生ばかり5人で堺から京都まで行くというのはなかなかの冒険だった)。
堺市に住んでいた私にとっては、阪急とは憧れと尊敬の対象であり、なかなか乗ることができない分、所持していた「カラーブックス 阪急」や「ヤマケイ私鉄ハンドブック 阪急」のページを毎日毎日飽くことなくめくっていたものである。
キング・オブ・阪急、6300系8連による京都線特急梅田ゆき。
崇禅寺-南方 1993年
崇禅寺-南方 1993年
//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
例によって、まずは小学生時代、父親による撮影分を紹介する。
5200系による普通三宮ゆき。神戸線、阪急六甲。1985年
2000系8連の特急梅田ゆき。阪急六甲。1985年。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここからは私の撮影分。
小学校3年生の頃から、恒例となっていた、父との「阪急乗りまわし」だが、写真が残っているのは、小学校5年生にあたる1988年1月頃のものから。
梅田駅での宝塚線5100系8連による普通池田ゆき。1988年1月。
神戸線5200系8連による特急高速神戸ゆき。1988年1月。梅田。
6300系の中でも1984年に増備されたばかりの6330形8連による京都線特急河原町ゆき。
1988年1月。梅田
1988年1月。梅田
1987年末のダイヤ改正で登場したばかりの珍しい「快速急行」の方向板。
それまでにない、黄色地に黒字が新鮮であった。
持っているのは父である。阪急の関係者の方々、ごめんなさい・・・1988年1月。梅田
それまでにない、黄色地に黒字が新鮮であった。
持っているのは父である。阪急の関係者の方々、ごめんなさい・・・1988年1月。梅田
風前の灯、というか最後の一編成となった1010系1026Fの4連による回送電車。
西宮車庫から伊丹線への回送である。 1988年1月 西宮北口。
西宮車庫から伊丹線への回送である。 1988年1月 西宮北口。
新装なった西宮北口駅から塚口方面へ向けて出発する伊丹線用1010系4連の回送電車。
1988年1月 西宮北口。
1988年1月 西宮北口。
塚口駅で発車を待つ1010系4連の伊丹ゆき。1988年1月。
伊丹線新伊丹-稲野間を快走する1100系4連の塚口ゆき。廃車直前の姿。1988年1月。
1010系1029車内。2000系以降の洗練された雰囲気ではなく、
チーク材模様のアンティックな雰囲気があった。伊丹線塚口。1988年1月。
チーク材模様のアンティックな雰囲気があった。伊丹線塚口。1988年1月。
箕面線で最後の一本となった1100系1106F4連の箕面ゆき。石橋。1988年1月。
1100系1106の運転台。1988年1月。石橋。
中学生になり、近鉄大好き少年になってからも、阪急への憬れは変わらなかった。世の中は表示幕車両(行き先をバスのような、くるくる回る幕によって表示している電車)ばかりになったにもかかわらず、阪急には昔ながらの、看板をつけて行き先を表示する電車が多数走っており、時代の流れに迎合しない孤高の存在感は、私の中での阪急の評価をさらに高めた。
5100系8連の普通雲雀丘花屋敷ゆき。1991年5月
当時はまだ神戸・宝塚の本線系統の8連にも表示幕未改造車が残存した。
当時はまだ神戸・宝塚の本線系統の8連にも表示幕未改造車が残存した。
箕面線桜井駅に停車中の3100系4連の箕面ゆき。1991年9月
石橋駅箕面線ホームに停車中の3100系4連の箕面ゆき。1991年5月。
伊丹線新伊丹-稲野間をゆく3000系4連塚口ゆき。1991年9月。
伊丹駅で並ぶ3100系、3000系。伊丹駅は伊丹市の中心駅で、
支線の終点ながら2面4線の規模を持っていた。1991年9月。
支線の終点ながら2面4線の規模を持っていた。1991年9月。
京都線には比較的多数の看板車が残っていた。元特急車2800系7連による普通梅田ゆき。
1992年。淡路。
1992年。淡路。
京都線5300系8連による急行梅田ゆき。1992年
5300系は堺筋線乗り入れ対応車で1972年製造初年。
2010年現在は全車表示幕改造がされている。
5300系は堺筋線乗り入れ対応車で1972年製造初年。
2010年現在は全車表示幕改造がされている。
宝塚線3000系8連による急行 梅田ゆき。1991年 十三。
3000系はもともと神戸線用だが、宝塚線に入線することもあった。
3000系はもともと神戸線用だが、宝塚線に入線することもあった。
千里線運用についた2800系7連北千里ゆき。1992年。南方。2800系は6300系の先代にあたる
京都線元特急車。連窓にその名残があったが、撮影当時すでに廃車が進んでいた。
京都線元特急車。連窓にその名残があったが、撮影当時すでに廃車が進んでいた。
1975年以降、京都線特急車として数ある阪急電車の中でもトップスターに君臨してきた6300系電車は、まさに「キング・オブ・阪急」(クイーンという人もいるが)の品格を漂わせて私を魅了した。今でこそ、屋根まわりがアイボリーに塗られている車両が大半となった阪急だが、当時は新鋭の8000系、8300系を除くと、アイボリーホワイトの屋根は6300系ならではの特徴であった。
西院-西京極を走行する6300系8連の梅田ゆき特急。1991年7月
急行に格下げ? いえいえ、6300系8連による珍しい急行運用の姿。1991年9月。桂。
すでにライバルの京阪電鉄にはすでに新型の8000系が登場しつつあり、阪急6300系の格下げも
うわさされたが、実際にはその後さらに20年近く、6300系はスターの座を守った。
すでにライバルの京阪電鉄にはすでに新型の8000系が登場しつつあり、阪急6300系の格下げも
うわさされたが、実際にはその後さらに20年近く、6300系はスターの座を守った。
朝の通勤特急仕業に従事する6300系8連の通勤特急梅田ゆき。長岡天神-大山崎。
この区間はいわゆる天王山のふもとにあたり、JRと並走するなど風光明媚な区間であった。
1992年3月。
この区間はいわゆる天王山のふもとにあたり、JRと並走するなど風光明媚な区間であった。
1992年3月。
最終増備の一編成だけは6330形と呼ばれ、他の6300系と仕様が異なった。1992年3月。
先頭車に二丁パンタを掲げて走行する姿は、より一層の風格を感じさせた。
通勤特急梅田ゆき。長岡天神-大山崎。
先頭車に二丁パンタを掲げて走行する姿は、より一層の風格を感じさせた。
通勤特急梅田ゆき。長岡天神-大山崎。
5300系7連による普通梅田ゆき。1992年3月。長岡天神-大山崎。
京都市街を抜けて大阪を目指す、1989年デビューの8300系8連による急行梅田ゆき。
正面の白い飾り帯は後に剥がされることとなるが、この頃は健在。西院-西京極。1991年7月
正面の白い飾り帯は後に剥がされることとなるが、この頃は健在。西院-西京極。1991年7月
8300系は一部が6連で製作され、初期はなぜか嵐山線に入線することもあった。
現在では8連に組成し直されている。懐かしいHマークつきの頃の桂ゆき。1991年。
現在では8連に組成し直されている。懐かしいHマークつきの頃の桂ゆき。1991年。
高架化工事の進展する茨木市駅に進入する2300系7連の普通梅田ゆき。1992年。
十三駅で並ぶ宝塚線電車。表示幕改造された5100系8連の普通雲雀丘花屋敷ゆきと
8000系8連の急行梅田ゆき。1992年
8000系8連の急行梅田ゆき。1992年
今津線の3000系6連西宮北口ゆき。写真は宝塚駅高架化工事期間中、
一部列車が宝塚南口駅で折り返しとなった珍しい時期のもの。1992年12月。逆瀬川-小林
一部列車が宝塚南口駅で折り返しとなった珍しい時期のもの。1992年12月。逆瀬川-小林
今津線5200系6連の西宮北口ゆき。5200系は阪急最初の冷房車。
他の車両より屋根が深い。1992年12月。逆瀬川-小林
他の車両より屋根が深い。1992年12月。逆瀬川-小林
今津線5200系6連の西宮北口ゆき。1992年12月。逆瀬川-小林。
宝塚を出て武庫川を渡ってくる今津線5200系6連の西宮北口ゆき。宝塚-宝塚南口。
当時、宝塚駅高架工事のため、宝塚-宝塚南口が一時的に単線運転となっていた。1992年12月
当時、宝塚駅高架工事のため、宝塚-宝塚南口が一時的に単線運転となっていた。1992年12月
園田駅を通過しようとする神戸線8000系8連による特急梅田ゆき。1992年。
1992年に実施された2000系さよなら運転の一こま。園田
2000系さよなら運転での貸切電車。御影。1992年
千里線運用に入った2300系7連、北千里ゆき。十三。1992年
高校にあがる頃から、とくに阪急神戸線沿線の持つ、独特の雰囲気に魅かれるようになった。いわゆる阪神間の山の手の、非常に洗練されていながら、ゆったりとした時間が流れる街々の雰囲気にあこがれ、阪急電車とからめて撮るようになった。
5000系8連の普通梅田ゆき。神戸線武庫之荘-塚口 1992年4月
桜の名所である夙川堤を渡る甲陽線3000系。苦楽園口-甲陽園 1992年4月
夙川駅を通過し一路神戸を目指す8000系8連の特急新開地ゆき。神戸線夙川-芦屋川
この頃になると車体側面にCI戦略に基づく新社章ステッカーが貼られるようになり、
8000系正面の白い飾り帯も撤去されている。1992年4月。
この頃になると車体側面にCI戦略に基づく新社章ステッカーが貼られるようになり、
8000系正面の白い飾り帯も撤去されている。1992年4月。
芦屋川-夙川間の山の手の住宅地をゆく5000系8連の普通梅田ゆき。1992年4月。
夙川-芦屋川間を走る3000系電車。1992年4月。
芦屋川駅の情景。1992年4月。風見鶏のある洋館が見え、芦屋川の河原ではピクニックも。
本当に豊かな都市生活の風景である。
本当に豊かな都市生活の風景である。
芦屋川駅にて。1992年4月。
夙川-芦屋川間の7000系8連の特急高速神戸ゆき。1992年4月。
御影-岡本間を疾走する3000系梅田ゆき。
桜と阪急電車の撮り合わせは色合いとしても非常に美しいのである。
1992年4月。
桜と阪急電車の撮り合わせは色合いとしても非常に美しいのである。
1992年4月。
閑静な住宅地には庭園付きのお屋敷も多く、まるで雑木林を抜けてゆくかのよう。
8000系8連の特急梅田ゆき。御影-岡本。1992年4月
8000系8連の特急梅田ゆき。御影-岡本。1992年4月
午後の光の中で。御影-岡本。5000系8連の特急梅田ゆき。1992年4月。
御影駅に到着した7000系8連の普通三宮ゆき。1992年4月。
御影(みかげ)はお屋敷街だが、駅前に美味しいケーキ屋が多いことでも知られる。
御影(みかげ)はお屋敷街だが、駅前に美味しいケーキ屋が多いことでも知られる。
御影駅での7000系6連の普通須磨浦公園ゆき。1992年4月
山陽電鉄の須磨浦公園に直通する電車も、今はない。
山陽電鉄の須磨浦公園に直通する電車も、今はない。
六甲山をバックに梅田を目指す7000系6連の普通梅田ゆき。夙川-西宮北口
1993年
神戸線の6連は山陽電鉄直通運転用。編成が短いため混雑し、撮影の頃はすでに特急の直通は
中止されていた。現在は直通そのものが中止となっている。
神戸線の6連は山陽電鉄直通運転用。編成が短いため混雑し、撮影の頃はすでに特急の直通は
中止されていた。現在は直通そのものが中止となっている。
朝ラッシュ時の十三駅にて。神戸線急行梅田ゆき。1993年
神戸線の優等列車は特急が主体。急行は平日ラッシュ時のみの設定で、希少な存在であった。
神戸線の優等列車は特急が主体。急行は平日ラッシュ時のみの設定で、希少な存在であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
再び京都線に戻る。
阪急梅田駅を出発した8300系普通北千里ゆき。
右の高層ビルは劇場や阪急系のホテルやが入居する「茶屋町アプローズ」。
奥の中層ビルが阪急の新本社ビル。6300系も見える。1993年
右の高層ビルは劇場や阪急系のホテルやが入居する「茶屋町アプローズ」。
奥の中層ビルが阪急の新本社ビル。6300系も見える。1993年
同じ場所で、2300系7連の普通、河原町ゆき。1993年。
崇禅寺-南方間で行き交う京都線電車。左は2800系普通河原町ゆき、右は7300系急行梅田ゆき。
1993年
1993年
8300系普通梅田ゆき。崇禅寺-南方。 1993年
5300系急行梅田ゆき。崇禅寺-南方 1993年
2800系普通梅田ゆき。崇禅寺-南方。 1993年
3300系急行梅田ゆき。崇禅寺-南方。 1993年
3300系は堺筋線乗り入れに合わせ、神戸・宝塚線用の3000・3100系より車高が100mm低く
幅が100mm広いため、ふっくらして見える。それ以後の京都線車両もそのサイズを踏襲している。
3300系は堺筋線乗り入れに合わせ、神戸・宝塚線用の3000・3100系より車高が100mm低く
幅が100mm広いため、ふっくらして見える。それ以後の京都線車両もそのサイズを踏襲している。
阪急の王者、6300系8連の特急梅田ゆき。 言うことなし。 崇禅寺-南方。1993年
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
阪急でも一部、リバーサルフィルムを使って撮影を試みている。
梅田駅。京都線ホームで2800系河原町ゆきが停車中。
発着番線ごとに、綺麗にしつらえられた花壇が素敵である。1993年
発着番線ごとに、綺麗にしつらえられた花壇が素敵である。1993年
夕暮れの十三を出発し、京都へ向かう5300系急行河原町ゆきの後ろ姿。
1993年
1993年
大山崎-長岡天神間を走行する6300系特急河原町ゆき。1993年11月
「嵯峨野エクスプレス」のヘッドマークを付けて走る3300系6連の臨時急行嵐山ゆき。
大山崎-長岡天神 1993年11月
大山崎-長岡天神 1993年11月
2300系7連の普通梅田ゆき。長岡天神-大山崎 1993年11月
6300系6330形8連の特急梅田ゆき。長岡天神-大山崎。1993年11月。
この後、大学への受験勉強で忙しくなった私は、阪急電車はもとより、鉄道撮影そのものから次第に足が遠のくようになったが、阪急への憬れは持ち続けていた。
ただ、その阪急電車に、何年ものち社会人になり、まさか沿線に住んで毎日のように乗車することになるとは思っていなかったが・・
以上
2006-11-16 16:26
nice!(1)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0