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伊予大洲 2017 [日本の町散歩(中国・四国)]

内子がまだ観光地として無名だった頃、南予地方で古い町並みといえば大洲であった。その町並みを生かし連続TV小説「おはなはん」の撮影が行われた、等と今もガイドブックなどに紹介されているが、しかし調べてみると「おはなはん」なるドラマの放映は1966年と、えらく前である。その後今に至るまでほかのトピックがないほど、大洲の町はこんこんと眠っていたのだろう。
実際に来てみても、この大洲に吹いているのは、時流の浮沈にわれ関せずという、悠揚たる無頼の風であるようだ。今ふうの店はまず見当たらないし、他地域からの人の流入も少なそうだ。大洲で生まれ育った大洲のオッサンが、今日も変わらず自転車に乗り、古びた通りをゆっくり横切ってゆく。そんな町だからこそ、鵜飼い、芋焚きといった伝統が今に生きているのだろう。
極めつけは、大洲城天守の復元。2004年に、竣工当時の工法を忠実に再現して再建された天守閣は、さすがの風格を見せつける。浮ついた町並み保存や小手先だけの転入者誘致なんぞにカネを使うよりも、ドカンと大きなことをひとつやるという姿勢がまことに面白い。

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神戸 2017 (4) 神戸駅からハーバーランド、そして新開地方面へ [日本の町散歩(近畿)]

三宮よりはるかに地味だが、神戸には神戸駅もある。そして新開地から湊川、東山商店街に至る比較的大きな商業集積が、その近くにある。今は「B面の神戸」等と言われ、観光でもあまり取り上げられないこの商店街こそ、戦前は神戸の中心と云われた大繁華街だったエリア。そもそも神戸という町がなかった頃、この辺りには兵庫の港があるきりだった。近代になって、布引の滝の下に外国人向けの神戸の港と街が造られ、鉄道が敷かれた時、「神戸駅」は折衷案で旧来の兵庫地区と新興の神戸地区の中間に設置されたのだという。そしてやはり兵庫と神戸の中間の新開地・湊川地区に、庶民が集まるようになった。
しかし昭和以降、神戸港の勃興とともに繁華街の比重はより神戸側へ、つまり東へ移動してゆき、元町、そして高度成長前夜の頃から完全に三宮へと移った。いまは残照のようにレトロな趣きを湛えるエリアとなったが、アートヴィレッジセンターが出来たり、洒落たゲートモニュメントがあったりと新しい動きもあって、湿っぽくはならないのが神戸流。なによりも、神戸人の台所といわれる東山商店街の賑わいは、いまもピカ一。南に造成されたハーバーランドも、成績はいまひとつと言われながらも、風景としては定着してきている。

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神戸 2017 (3) 北野界隈 [日本の町散歩(近畿)]

キネマの月が巷に昇る春の夜、稲垣足穂が友人とたどった「カラクリのような小路」は、北野の小路であったろう。外国人たちの居留地だった戦前、戦後の頃まで、北野には200棟以上の洋館があった。スミレのような西洋の少女が行き交った時代はすぎて外国人達は北野を去り、神戸を去り、洋館は朽ちていった。残された30の洋館は、ほとんどが観光用に変化してしまった。
1980年代から90年代、北野は格好のデートコースとなり、オシャレな店がたくさん出来た。山本通りはスポーツカーに乗った若いカップルで鈴なりだったという。しかし、そんな時代を象徴する名店ジャン・ムーランも、ジャック・メイヨールも、今はない。
すっかり落ち着いた今の北野。それでも通りを歩けば外国の血が混じった子供達とすれ違うし、北野坂や山本通りは、やはり眼も覚めるように垢抜けている。ちょっと大きめの家だと思うと、中国人や西洋人の表札がかかっていたりする。修復の進んだ「異人館」を巡るのも良いが、その裏に隠れている路地を抜けて外国人たちによって彩られた北野の歴史に思いを馳せたりする。またこれからが楽しみな、北野である。

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神戸 2017 (2)元町駅から旧居留地、メリケンパーク方面へ [日本の町散歩(近畿)]

三宮を神戸の表の顔というなら、元町界隈は神戸そのものといっていい。開港以来の目抜き通りである元町商店街周辺には風月堂、ユーハイム、ファミリア等名だたる神戸ブランドの本店がいまも軒を連ねているし、欧米系外国人たちのオフィス街であった旧居留地は、一時さびれていたが、クラシックビルの修復や再利用が進み、いまや山手の北野を凌ぐ観光地ともなっている。南京町から栄町通り、そして乙仲通りに至る界隈は、かつて怪しげな零細貿易会社や船員バーがひしめく、最も神戸らしいエリアだった場所。いまは所々に面影を残すだけだが、そのかわりに、小さくても個性的で垢抜けた、神戸らしい雑貨屋や服飾店があちこちに入るようになった。150年前の開港以来、港を通して様々なものを取り入れ、堆積してきた神戸という町のフィルターの役目を果たしたのはこの元町であり、そのしたたるばかりのエッセンスが、今も元町界隈にはたっぷりと残されているのだ。・・・うんちくはそれくらいにして、元町駅からさあ、歩き出そう。

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神戸 2017 (1)三宮駅からトアロード、花隈方面へ [日本の町散歩(近畿)]

大阪近郊に生まれ育った者として、どうしても神戸という町には憧れの感情がある。大阪、奈良、京都は地元と言える私だが、こと神戸にだけは拒否され続けてきた。かつて神戸の学校を受験したが不合格をくらい、神戸の女性に告白したがフられ、神戸の露店で並んだが私の目の前で品切れとなった。そんな私がこの度、ようやく神戸に関わりを持つことができた。東京から関西に戻った際に得た職場が、神戸のホテルだったのだ。私はフロントマンとして一躍、神戸について語り、案内する立場となった。
久しぶりに見る神戸。食べ物はバラエティに富んで美味しく、女の子はやはり洒落ている。そもそも服装の色使いが違う。電車に乗っていても、京都あたりでは緑や茶色のくすんだ色の服を着た地味な娘ばかり。おかげで、春だというのに車内の空気もどんよりしているが、神戸に近づくにつれて、水色やらレモンイエローやらといったキレイな色遣いをうまく取り入れたカワイコちゃんたちが増え、車内は溌溂として行く。
そんな神戸の町を、よそものの私はやはり素敵だと思うし、歩けばやはり浮き浮きとした気持ちになる。今回から4回に渡って、そんな神戸の町歩きの記録を公開させて頂こうと思う。

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内子 2017 [日本の町散歩(中国・四国)]

愛媛県南予地域にある内子(うちこ)もまた、いち早く町並み保存を進め、街おこしに成功した町のひとつとして知られる。ここは城下町や宿場町ではないが、地の利に恵まれ、江戸期から明治にかけて、和紙、そして特に木蠟の生産地として栄えた歴史がある。内子産の木蠟は全国シェアの3割を占め、品質の高さから海外へも輸出される等し、町衆は大いに財をなしたという。しかしその後は鉄道や道路の幹線から外れたこともあり、ひっそりと低迷する時代が長く続き、観光にも縁がなかった。その内子の町が、年間50万人を超える観光客を迎えるまでになったのは、やはり護国・八日市地区の見事な町並み保存、修景によるところが大きいだろう。
内子の面白さは、これらの見事な町並みに、和ろうそく、鉄工芸(蝋台)、竹工芸、棕櫚工芸、行燈(和紙)、染め物、鏝絵など、内子の過去にルーツを持つものも持たないものも含めて、ニッポンの手仕事の担い手たちが、ポツポツと入居していっている点である。若い人も含めて実際に職人自体が町に移り住み、工房を持つというこうした動きがもう少しまとまったものになれば、内子は多彩な伝統工芸文化の集積地として、生きた産業の町に返り咲くことになるのだが。

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長浜 2017 [日本の町散歩(近畿)]

琵琶湖の北東湖畔に位置する長浜は、「街おこし」の成功例のひとつとして名高い。年間の観光客は200万とも300万とも言われる。火付け役となったのは、1988年に設立された第三セクター「黒壁」である。当時、閉鎖された旧百三十銀行の歴史ある建物が取り壊されることとなり、これに危機感を覚えた市役所職員が、地元の民間企業の経営者達に建物の買取と再生事業の開始をもちかけたのだ。彼らは一致団結してお金を出し合い、建物を買い取って保存。その再生にあたって、長浜に新しい産業として「ガラス製作」を取り入れて観光の柱とすることにしたのである。
それは実現した。観光バスが次々とやってきて、降りてきた人々はガラス工房を見学した後、街をぐるりと一周して帰るようになった。一時はシャッターばかりになったさびれた商店街にも、観光客目当ての新しいお店が次々に出店するようになった。

それから30年近くが経った2017年、遅ればせながら私も長浜を歩いてみた。当時の熱気は薄れつつあるとも言われる中の訪問であったが、中高年層のみならず若い女性やカップルが連れ立って古い町並みを散策している。ガラスショップの他にもスタイリッシュな雑貨店やカフェ、レストランが町のあちこちにある長浜の様子は興味深いものであった。

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東急多摩田園都市 2007-15 [日本の町散歩(関東)]

東急多摩田園都市は、文字通り東急グループという民間資本が主体となって開発した城南地区一帯のニュータウンのことであり、現在の東急田園都市線の沿線のうち、梶ヶ谷駅より西を指す。もとよりそれは高度成長期生まれの典型的郊外住宅地であり、歴史的景観も街としてのまとまりもなく、ハワード的な思想ともかけ離れた出来そこないの“田園都市”であったわけだが、それでも次第に「田園都市ライフ」「田園都市マダム」等と言われる確固たる沿線イメージを生み出した。
たとえそれが当初はフィクションであったとしても、「他のニュータウンとはちょっと違う」というひとつのプライドとして住民の間で共有され、ライフスタイルにまで影響を与えた点は特筆されるべきで、イメージは波及し再生産されていく。そうして「フィクション」がどんどん自動的に上書きされ、独り歩きするようになってくると、もはやそれはつくりものではないひとつの文化圏の誕生といっていいように思う。
いまや50万を超える人口を抱えるに至ったこの地域の姿は、ともあれ日本固有とも言われる電鉄的経営思想の一つの集大成であることには間違いない。私は自身も関西の郊外住宅地育ちであることから、この地域のありようには以前から関心を寄せてきたし、実際に3年ほど住んだこともある。現在、郊外住宅地というものが曲がり角にあると言われるなか、改めて数度にわたり撮り歩いてみた。

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岩村 2016 [日本の町散歩(中部)]

岩村は、中央アルプスの最南端、恵那山塊に抱かれた山の町である。名古屋からも快速電車と明知鉄道を乗り継いで1時間半で来られるという手近さだが、歴史的な町並みがしっかりと残されている上に、日本三大山城のひとつである岩村城の城跡もあり、見ごたえのある町だ。戦国期には織田信長の叔母にあたるおつやが一時城主を務めたことから「女城主の里」としても知られる岩村。いまは城壁しか残されていないが、巨大な山城はその城壁をたどるだけでも面白い。
その山城のすぐ下から、流れる落ちる川筋に沿ってなだらかな坂道が続く。その坂道は右も左も、作り物ではない江戸時代からの町並みを残し、今も静かな町民のくらしがそこで営まれている。道筋にはかつての豪商の商家も多数無料開放されているほか、造り酒屋、薬屋、家具屋など現役の老舗も数多く残る。驚くのが「カステラ」を製造販売する店が多いこと。この山合いの小さな町に、西洋渡来のカステラ屋が4軒もあり、覇を競っているのだ。江戸時代、長崎に修行に行った地元の医者がレシピを持ち帰り、町に広まったものという。時代とともに洗練が加えられた長崎のそれとは異なり、岩村のカステラは伝わったがままの素朴な味わい。それが何とも嬉しい。
観光地として決して有名ではない岩村だが、心ある旅人にとっては穴場を探り当てたような、たくさんの楽しみのある町である。

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登米 2016 [日本の町散歩(東北)]

登米、と書いて「とよま」と読む。広域では読み間違えられることが面倒なのか簡単に「とめ」と読ませるが、町の名前はあくまでも「とよま」。北上川の中~下流域にかけての舟運の要として、古くから栄えてきた町には多くのお屋敷や商家建築が残り、「みやぎの明治村」として風情と風格ある一角が形成されている。
しかし私はどうもこの町に対してあまり良い印象は持てなかった。確かに多くの歴史的建築物が散在してはいる。武家屋敷の並ぶ前小路等の風景は見事だ。が、どうも町そのものの鼓動が感じられない。町のしての統一感、まとまりがなく、広域である「登米(とめ)市」の単なる一地区になってしまった印象だ。もっとも閉口したのは、町のど真ん中を東西に突っ切る肝心の大手通りがいまや尋常ならざるダンプ街道になってしまっていることだ。どうしたことか、右からも左からもダンプカーが次から次へとやってきて、地響きとともに通り過ぎて、止むことがない。これでは町の雰囲気も息遣いもなにもあったものではない。聞けばこの県道は、さらに拡幅するのだという。いち旅行者があずかり知らぬ地域の事情があるのかもしれないし、何より歩行者保護のための苦肉の策だろうが、実にまずいことをするものだ。この町は、登米(とめ)市に吸収されて以降、誇りを失ったのかもしれない。

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金山 2016 [日本の町散歩(東北)]

山形新幹線の終点、新庄駅からさらに北へ、バスで揺られること40分。山を越えてたどり着く静かな町、金山(かねやま)は、ほかにどこにもない町である。ここで育った子供達は、大きくなって他の町へ出ればきっと、そのつまらなさ、個性のなさに驚くだろう。そして、わが町金山を、あらためて誇らしく思うに違いない。
金山が「町並み(景観)づくり100年計画」を立ち上げ「新金山町基本構想」を策定したのは昭和58年。そこでは今後、街並みと自然・風景を調和させ、同時に林業等の地場産業の振興や人と自然の共生を図るということが謳われている。
それから30余年。金山は本当に自然の中で自然とともに息づく、 美しい町になった。建物は白壁と切り妻屋根を特徴とする、独特なスタイルのものが多い。山合いの谷間に、周囲の風光と調和していながらも、堂々たる木組みの家々が現れてくる光景は、もはやドイツの村のようにも思え、日本離れした斬新さすら感じさせる。こうした家屋は「金山型住宅」と名付けられ、この地方の風土に根差した在来工法で建てられるほか、地元産の木材がふんだんに使われる。実際のところ新しい住宅ほどこのスタイルで建てられているというから驚きだ。「100年計画」の完成が今から楽しみである。

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真壁 2016 [日本の町散歩(関東)]

真壁は、筑波山のふもとに位置する在郷町である。古くは平安から鎌倉、戦国時代にかけてこの地を支配した真壁氏の城があったとされ、その後も江戸期から明治、大正にかけて、周辺地域の物資の集散地として栄えた。江戸時代の古い町割りがそのまま残っているだけでなく、江戸期建造の書店、明治期の店蔵(醬油店)、大正時代の菓子店、そして昭和初期の洋館建築(郵便局)等、それぞれの時代を語る建物があちこちに散らばっている真壁の街歩きは、モザイク模様をみるような面白さがある。平成23年建築の「真壁伝承館」を我らが平成時代の代表選手として加えても良いだろう。
残念なことに現在の真壁には、鉄道はおろかバスすらも通っておらず、そのせいか知名度の上でもいまひとつだが、関東圏には珍しく、比較的小さい範囲にしっかりと街がまとまっており、前述したような古い老舗がいまだ現役で街のそこここに息づいている点は特筆されるべきことである。広域合併により桜川市が誕生して早10年。バス再開に向けた検証もスタートしたといい、真壁の街は静かに再生の時を待っている。

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酒田 2016 [日本の町散歩(東北)]

最上川の河口に位置する酒田こそは、北前船の出発地として栄えた商業都市。東北各地から集められた米や紅花等が上方や江戸に運ばれ、米取引の中心地として栄えた酒田には、富裕な大商人たちが次々と登場して街を潤した。江戸へ出るには峻厳な山々を越えなければならないこれらの地方は、北前船との交易を通して、江戸よりもむしろ上方から多くの文化的影響を受けたり、逆に与えたりしたに違いない。今のこの地方の風土・気質に、どこか関西ふうな陽気さがあるのはこうした歴史的な歴史的な背景によるものかもしれないし、いずれにしても酒田はそれらの文化の混ざり合う中継地でもあった。
残念ながら市の中心部は昭和51年の大火ですっかり装いを変えてしまい、街歩きの面白みは減じたが、本間家や鐙屋といった廻船問屋の邸宅はいまもそのまま残っているし、街の西側に位置する日和山公園のふもとの一帯には、いまも料亭や小料理屋が残る界隈があり、どこか京都の祇園を思わせる雅趣を感じさせる。明治時代創建の木造の食料倉庫も、現役で使われている。平成の現在でも酒田港は、日本海側有数の国際貿易港であり、外国船が出入りすることも多いそうだ。

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長井 2016 [日本の町散歩(東北)]

最上川の河口にある酒田から北前船が出て、さかんに京・大坂との交易を行ったことはよく知られているが、この北前船、酒田からさらに最上川をさかのぼり、流域にある多くの町々とも直接交易を行っていたという。そのうち、最も上流にあった町が長井である。最上川河口からさかのぼること170km、北前船はここまでやってきた。長井の最上川畔にはふたつの船着き場が出来、長井は「山の港町」としてたいへん栄えた。

現在の長井は、観光ガイドにも取り上げられず、街並み保存という面でも名前が挙がることは少ない。中心市街地の衰退は著しく、連続した古い町並みは期待できないが、歩いてみるとそうした中に意外に多くの商家建築が残っていることに驚かされる。点在する豪商たちの住まいを訪ね歩けば、往時のこの街の繁栄を十分しのぶことができるし、味噌、醬油、酒等の昔ながらの蔵や、伝統産業の織物(紬)などの名産品がまだまだ現役なのも特筆すべきことだ。それだけではない。町には四方八方の山々から最上川へと流れ込む水が集まる。これらの水路が悠久の昔から町に張り巡らされ、いまも清冽な流れをいっぱいにたたえて町じゅうを潤している様子がなんとも心地よく、かけがえのないこの街の財産となっている。

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会津田島 2016 [日本の町散歩(東北)]

会津は喜多方方面に知人を訪ねた時のこと。一般的には郡山まで新幹線で行き、そこから磐越西線に乗って行けば片道3時間少々・・なのだろうが、そこは天邪鬼な私。なんだか昔の旅人のように、その道中、何てことない街道の旅籠で一泊して・・・というようなユックリ旅がしたくなった。
調べてみると、会津にはなんと東武鉄道→野岩鉄道→会津鉄道と、私鉄だけを乗り継いで行く方法がある。始発の浅草から最速の特急等でも4時間半、快速や鈍行だけの乗り継ぎだと合計で7~8時間かかるが、酔狂旅行にはちょうど良い。中継ぎの宿泊地は、野岩鉄道から会津鉄道への乗り換え駅でもある会津田島に決めた。その昔、下野(栃木)と会津を結ぶ西会津街道随一の宿場であったという田島。いまも南会津地方の中心となる高原の町だが、名所旧跡等が多いわけでもなく、古き良き町並みが残されている訳でもなく、観光ガイド等には全くというほど登場しない、まさに「何てことない町」・・・。そんなふうに高をくくって訪れたこの会津田島が、こんなにも印象に残る街だったとは、今もって驚きである。

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松崎 2016 [日本の町散歩(中部)]

西伊豆の小さな港町、松崎に吹く風はとても心地が良い。三方を山に囲まれた静かな入り江、明るい漁港、美しい砂浜の海岸線。ゆるゆると流れる川辺には、昔ながらの風情を残す鄙びた路地が続いている。単なる漁師町ではなく、西伊豆地方の中心地として物資が集散した場所であり、それだけに多くの商家建築が残されているも嬉しい。この地域の特色のひとつであるいわゆる「なまこ壁」を残す建物も多く、それらを見て歩くのも楽しみのひとつ。さらに、松崎の生んだ名工、入江長八の漆喰鏝絵の数々をナマで見られるのも嬉しい。巧みに芸術性を盛り込みながらも、あくまでも実用本位の、左官としての職人芸がベースとなったその至芸こそ、松崎という素朴で伸びやかな町の性格をよく現わしているのではないかと思われる。これでもう少し、街に活気があれば云う事はないのだが・・

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栃尾 2016 [日本の町散歩(中部)]

「栃尾」という地名を聞いただけで、その名物がすぐに思いつく人は、かなりの玄人である。あなたはどうだろうか。栃尾というと・・・油揚げ! そう答えるなら、あなたはかなりのグルメか、飲ん兵衛であろう。最近は東京の居酒屋等でも一部定番メニュー化しつつあるからご存じの人もいるだろうが、栃尾にはなぜか通常の三倍はあると思われるジャンボ油揚げを供する豆腐店が沢山あって、知る人ぞ知る名物になっているのだ。私が、観光地としてはほぼ無名と思われた栃尾を訪ねたのは、この油揚げの食べ歩きを狙ってのことだったが、実は栃尾には町並み的にも日本屈指の名物をいまなお残している。それは、雁木。豪雪地帯ではかつて良く見られた、いわゆる歩道のアーケードである。青森なら「こみせ」と云ったが、信越地方では「雁木」。他の大都市ではどんどん消えているが、総延長4.3キロにも及んで残る雁木こそが、栃尾の誇る偉大なる遺産であり、少しずつ修復も進んでいる。私が栃尾を訪ねたのはあいにくの雨天の中だったが、それでもここが、実に味わい深い、興味の尽きない街であることはよく分かった。

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下諏訪 2016 [日本の町散歩(中部)]

梅雨に入り、曇りや小雨の日が続くようになると撮影に出かけようとするモチベーションも下がってしまう。かつて鎌倉の地を雨の中撮り歩いたことがあったが、どこかほかにも灰色の雲の下で映える街はないものだろうか。。そんなふうに思いあぐねて、何となく「いいんじゃないか」と予感して曇天のもと訪ねたのが、下諏訪であった。
諏訪湖畔には上諏訪と下諏訪という二つの温泉街がある。大型ホテルや温泉施設が並ぶ上諏訪と異なり、下諏訪はかつての宿場町の面影をたっぷりと残す、昔ながらの温泉街であるという。「しもすわ」という響きも落ち着いていて心地よい。そんな穏やかな町なら曇り空でも、いや曇り空だからこそ見えてくる奥ゆかしき風情があるかもしれないと期待をかけて、街をあるいてみた。

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井の頭線 ~アジサイの頃 2011 [日本の町散歩(関東)]

一般的な郊外電車の中で、京王井の頭線ほど個性をしっかり持ち、沿線住民からマスコット的な愛着を持たれている路線も少ないだろう。距離が短く、どことも相互直通をしていないことが、逆に路線の個性を際立てせているし、電車のカラーが七色(七種類ある)というのもカワイイではないか。
そんな井の頭線の特徴のひとつが、なぜか沿線にやたらとアジサイが多く植えられていること。梅雨のころになると、それこそ曇り空の中、多種多様の色のアジサイが線路わきに咲き乱れており、電車のステンレス+パステル調のカラーリングと妙にマッチして楽しいのだ。
私個人にとっても、大学キャンパスが沿線にあったため、井の頭線は青春の大切な記憶と分かち難く結びついている。追憶も込めて一度きちんと撮影しておこうと思っていたが、結局一度、出掛けたきりで中途半端になってしまった。

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東京~都電とその周辺(西ヶ原、庚申塚、向原、雑司ヶ谷) 2013 [日本の町散歩(関東)]

ヒューマンサイズの乗り物がある街はいい。そこは人が下駄履きでうろうろできる街だからだ。自分の家と、街と、それらを結び合わせる乗り物との間に境界がない、あるいは境界があいまいであるというのは、人と街とが同じ息づかいをしているということだろう。すなわち、住みよい街、すぐれた街ということになる。
東京でも、都電荒川線の走っているエリアでは、人々はとりわけ等身大の暮らしをしているように思える。今回は、どちらかというと都電そのものにフォーカスを当てているが、近いうちにそうした街の息ぶきを、改めてとらえてみたいと思う。
なお、向原から鬼子母神前にかけては、こうした街と人と、そして都電の関係を、すべてぶちこわそうとする工事が、残念ながら、他ならぬ東京都によって進められている。

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東京<椎名町> 2010~2016 [日本の町散歩(関東)]

わが街、椎名町。2010年からここに住み始めてかれこれ7年になる。自慢じゃないが、私はかれこれ20回程度引っ越しをし、それと同じ数だけの街に住んできた。どの街も捨てがたい、その街ならではの良さがあったがしかし、椎名町ほど私の肌によくなじみ、住んでいて飽きの来ない街は初めてである。2013年に私は縁あって結婚したが、結婚してからもこの街を離れることができず、やっぱり住んでいる。ありがたいことに、嫁もこの街を気に入ってくれている。
西武線に乗って池袋からわずかひと駅。サンシャインやメトロポリタンを間近に感じながらも、ここは一転、古アパートが並ぶ、普段着にサンダル履きの下町である。かといって台東、江東の下町のような江戸っ子気質的な狭量な雰囲気もなければ、板橋の下町のような不良少年的チャキチャキさもない。都心近くにありながら、若者が多いわけでもなく、至って特徴のない日々つつがない日常が当たり前のように繰り返されるだけの穏やかなこの街は、だからこそ離れがたく、もはや自分の体の一部のようにも感じられるほどに、何気ないのである。

だが何事にも終わりがある。2016年、ついにこの街を離れなければならない時がきた。これを機に、今まで少しずつ撮って来た自宅周辺の町並み写真を、ここでほぼ撮影時期順にまとめておきたいと思う。

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東京<目白> 2016 [日本の町散歩(関東)]

目白は隣町である。東京には都心を少し離れたところにセレブタウンがいくつかあるが、駅前に学習院がある目白もその一つ。通りにはチェーン店も増えてきたが、それとなく洒落た店も点在する。肩肘はったところやトンがったところがないのが目白の魅力。良くも悪くも、大人の街である。
私は椎名町での下町生活を愛しているが、たまにはハイ・ブロウな風に吹かれてみたくなる。そんな時は、眼と鼻の先にある目白界隈をうろつくことにしている。29ある山手線の駅の中で、他の線との接続や乗り換えがないのは新大久保、鴬谷と、この目白だけ。基本的には地元民の為の街であるということが、必要以上の背伸びをしない、落ち着きを街に与えているのであろう。

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黒石 2016 [日本の町散歩(東北)]

弘前から直線距離で15キロ、郊外電車に揺られてわずか30分の距離にあるのが黒石。弘前に本藩があった津軽藩の支藩が置かれた地であり、弘前同様に「こみせ」もあれば「ねぷた」もあるという、まさに弘前とは兄弟のような関係の町である。「こみせ」は雪深い地方ならではの、歩道に設けられたアーケードのことであるが、弘前のそれがいかにも現代的なのに対し、黒石の「こみせ」はズバリ、江戸時代からのもの。まとまった形でそれが残っているのは、全国的にも黒石のみという貴重さである。
古めかしい木造のアーケードが続く風景を求めて、弘前からのプチトリップを敢行した。

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弘前 2016 [日本の町散歩(東北)]

弘前は云わずと知れた津軽地方の中心都市。だが、この街がこんなに垢抜けた、すがすがしい都会であるとは、正直想像していなかった。
もとは津軽藩の城下町であった弘前ゆえ、もちろん弘前城や武家屋敷群が観光の目玉である訳だが、明治、大正期に建てられた多数の洋館が今なお残るのもまた、弘前の魅力である。
明治以降は東奥義塾の設立をはじめ、学術文化の都を目指して外国人教師を多数招聘した弘前。どこかオープンで進歩的な風が、ずっと時代がくだった今も、なお弘前の町を包んでいるように思われる。洋館めぐりの楽しさもさることながら、フランス料理店やカフェの多さはすでに良く知られているし、街ゆく人のファッションにもこの地ならではの洗練が感じられる。
そして、空を見上げればどこからでも見える、たおやかな岩木山。漂ってくる、ほのかなりんごの花の香り。
こんな弘前を私が歩いたのは、五月の良く晴れた日であった。

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太海 / 和田浦 2016 [日本の町散歩(関東)]

房総は東京という地球有数のメガトンシティーに隣接する地域だけに、ワイキキのような巨大ホテルが立ち並ぶ都会派リゾート地帯なのであろうと勝手に想像していた。だから、実際の房総がこんなにも、寂しいくらいに鄙びているのを目にして私はすっかり魅了されてしまい、もっといくつも海辺の町を訪ねてみたくなった。

そんな私が千倉の次に選んだのが、太海と和田(和田浦)という小さな二つの町。いずれも館山と安房鴨川の二つの大きな町の間に挟まれた、交通の便のあまり良くないあたりにある。太海は、安房鴨川からひと駅西に行っただけなのにがらりと雰囲気が変わり、素のままの、ある意味隔絶された海のくらしが垣間見える、別天地のような場所だ。和田浦は今でも捕鯨が行われている数少ない基地(全国で5か所だそうだ)のひとつ。町ではもちろん鯨料理が名物だ。

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千倉 2016 [日本の町散歩(関東)]

東京に住んでいて、ふらりと海を見たくなったらまず鎌倉や葉山や湘南に行く。明らかに都会の延長にあるそんな海が鼻につくような時は、三浦半島の先のほうに逃げたりするし、伊豆だって悪くない。でも、それでも癒されない、もっと素のままの海と風とに相対したい。そんな時は房総が良い。千倉は、房総半島の南端近くにある海辺の町。房総はさすがに広く、ここまで来るには東京から2時間以上。花畑の丘に囲まれ、ぽかぽかと暖かな薫風の中、どこまでも続いていく穏やかな海岸線、漁港、鄙びた町並み。それでもかすかに感じる、嫌みのない都会の香りが千倉の良さだ。
道はもちろん海に近く、ずっと南へ続いている。さわやかな青空に恵まれた春の午後、駅で借りた自転車で、どこまでも走ってゆく。

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三春 2016 [日本の町散歩(東北)]

梅、桃、桜の三つの「春」が一緒に来る町だから「三春」・・・そんな町の名前は出来すぎ、というかちょっとあざとい気もするが、そうは云ってもそんな名前に私もつい魅かれて、いつか行ってみたいとつねづね思っていた。
それは戦国時代から続く、わずか三万石の、山あいの小さな城下町。郊外にある樹齢1000年以上という天然記念物の「三春の滝桜」が全国的に有名だが、それだけでなく、春になると三春の街全体が桜に包まれるという。そんな三春の町を、まさに春らんまんの時期に訪ねることができたのは幸運であった。

それでは、私のしがない成果を、ご覧頂こうと思う。
(滝桜は、町から離れている為、撮影していませんので、あしからず)

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下田 2016 [日本の町散歩(中部)]

この年になるまで、伊豆半島に足を踏み入れたことが無かった。東京から「スーパービュー踊り子」等の特急列車が頻繁に乗り入れている伊豆は、関東人の為の華やかなリゾート地、というイメージ。関西出身の私には、なんとなく敬遠されるにおいが、そこにはあったのだ。
しかし、その関東からもうすぐ離れなければならなくなった2016年の春。私はやおら伊豆に行きたくなった。まだ東京では三寒四温の日々が続く三月、私は南風に誘われて伊豆急行線に乗り、終点の下田まで来てしまった。伊豆半島の先端近くに位置する下田は、黒船に乗ったペリーが来航し、幕末開港の舞台となった、歴史の上でも重要な場所であるが、訪ねてみるとそこは、たおやかな春の風と、素朴なやさしい人情が迎えてくれる、小さくて気持ちの良い港町であった。よくよく考えれば伊豆はもう関東ではなく静岡県なのだ。

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撮影機材変更のお知らせ [日々のよしなしごと]

2016年撮影分より、主たる撮影機材を以下のとおり変更致しました。

(これまでの機材)
メイン機: NIKON FM3A フィルム:PROVIA100F
サブ機: RICOH GRD

(今後の機材)
NIKON D800E

私はその場の空気感を大切にした撮影を行いたく、これまでフィルムで撮影するということにこだわって参りましたが、昨今のフィルム価格および現像価格の高騰に対し、ついに音を上げる形となってしまいました。
ついてはメイン機の一部機能が故障致しましたことを機会として2016年初旬、NIKON D800E中古機を購入致しましたので、これ以降は当該デジタルカメラでの撮影が主となりますことをお知らせします。

今後とも、その場の空気感を伝わる写真撮影を心掛けてまいりますので、何卒よろしくお願い申し上げます。


結城 2015 [日本の町散歩(関東)]

結城という町の名前は、小学校のころから知っていた。今でも小学生たちは「結城紬」を学ぶのだろうか。日本の重要文化財である、伝統工芸品の最高級絹織物。それがどんなものかは知らなくても、「ゆうきつむぎ」という語感の美しさは大人になった今も覚えている。そして今回、ふらりとその結城という町にやって来た。
思いのほか沢山の店蔵が健在で、関東圏の町としてはちょっと意外なくらいに味わい深い町並みが残っている。そして大切なことは、そんな町並みが現役の「町」として今もきちんと機能していて、いきいきしたものが感じられることである。数は減ったとはいえ、結城には今も紬の工房や問屋がいくつも残っていて、それがこの町を産業的にも精神的にも、いまだしっかりと自立せしめているように思われた。

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