近鉄電車 1986-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]
さて、いよいよ真打ち?の登場である。中学校に上がる頃、私は近鉄奈良線の沿線に引っ越しをした。そして、中学校、高校の6年間、この近鉄電車に乗って毎日京都まで通学したのである。
最初は、カルチャーショックの連続であった。それまで、私のなじみのある私鉄電車というものは、南海にしても阪急にしても、事故によるダイヤ乱れなどは別にして、一分たりとも遅れてくるということはなかった。しかしながら、この近鉄電車は、ほぼ恒常的にといっていいほど、遅れて来るのである。通常でも2~3分は遅れて来るし、雨の降る日のラッシュ時など、5~6分などまだ良いほうで、ひどい時になるとちょうどワンサイクルずれて、つまり10分などという派手な遅れを発生させながら走っていることも珍しくなかった。
しかも、電車は短編成のぶつ切りで、8両や10両編成なんかになると、色や大きさの違う電車をお構いなしに数珠つなぎにしてやって来る。こんないい加減な鉄道は初めてであった。お世辞にもスマートとは言えないこの近鉄電車は、私のそれまでの憬れだった阪急とは好対照であった。
私は、そんな近鉄電車と、切っても切れない関係となり、次第に心の底から愛着を持つようになった。
中学校から、受験勉強で忙しくなる高校2年生ごろまで、撮影した近鉄関係の写真は膨大な量にのぼるのだが、ここでは撮影時期順に紹介していきたい。
なお、私は堺在住でまだ近鉄にはなじみのなかった小学生時代に撮影したカットもあり、まずそこから。つまりは、有史以前?の写真である。まず、1986年、近鉄大阪線の下田駅近くまで、父の友人を家族で訪ねたときのもの。
1988年、私が小学6年生にあがった年の春、衝撃的にカッコイイ電車が近鉄に登場した。言わずと知れた、21000系「アーバンライナー」である。この列車の登場は、鉄道好きのみならず一般の旅客をもあっと言わせた。私の伯父は、とくに鉄道好きでもなんでもなかったが、この列車にのるためだけに名古屋に所用をつくって出かけたらしい。
私も、父にせがんでその年の夏、はじめての「近鉄電車のりまわし」を実行した。コースは、大阪難波から、伊賀線、内部・八王子線、北勢線、養老線に乗車し、名古屋から念願のアーバンライナーに乗車して大阪へ帰宅するというもの。本当に興奮したのをよく覚えている。
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さて、これ以降が中学校に入り近鉄奈良線沿線の富雄に引っ越して以降の写真である。
まずは、自宅周辺で・・
そして、通学で利用する近鉄京都線の三山木-狛田間、ついで興戸-新田辺間で、私としては初の本格的な撮影をした。この区間、いまでは車庫ができて少し印象が変わってしまったが、当時はご覧の通り田園が広がる非常に気持ちのよい区間であり、それまで堺の工場地帯の煤煙の中で暮らしてきた私にとっては、まさに夢見心地で電車に揺られたものである。
ある時、私は自転車で少し遠出をして「冒険」に出かけたのだが、その際、思いもかけず近鉄生駒線の東山駅に出くわし驚いたものである。私は、そのときまで無人駅というものを見たことがなかったからである。
生まれて初めて見た無人駅がこの東山駅。生駒線は、実際にはこの時すでに沿線開発が進みつつある都市近郊路線で、この東山駅も数年後にはニュータウンの駅になってしまうのであるが、このときばかりはとほうもない山間の秘境駅のように感じられたものである。
・・・このひなびた東山駅もすっかり周辺の宅地開発が進み、今では線路も新線に移設され、まったく様相を変えている。
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このあたりから、はじめて手にした自分の一眼レフカメラ(PENTAX)での撮影である。
■1990年(中学2年生)夏の「近鉄電車乗りまわし」の記録。
■生駒線に沿って・・ 1991年4月
大阪平野と奈良盆地の間に横たわる生駒山地。奈良線はその横っ腹を長いトンネルでくり抜いて、阪奈間を行き来しているわけだが、その奈良側の生駒山麓に沿ってトコトコ南北に走るのが生駒線。
もともと、平群の里山や竜田川の渓谷、集落を縫って走っていたローカル線だが、大阪近郊の郊外路線としての顔もあり、単線だったり複線になったり、その多彩な変化が楽しく、また趣深い路線である。
私の自宅からちょっとした日帰りサイクリングが設定できる距離にあったため、何度か撮影に出かけている。
■自宅周辺の奈良線ほか 91年春~夏頃
■1991年(中学3年)夏の「近鉄乗りまわし」
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■1991年~92年にかけての撮影分から。
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■1992年8月(高校1年)夏の「近鉄乗りまわし」
場所を変えて・・・
~志摩線の旅~
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■大和路を走る~橿原線紀行 1993年
橿原線は大和盆地を縦断して走る路線。線形は立派で本数も多く、都市近郊路線の顔も持っている幹線であるが、田畑や古墳、寺院、ため池など大和盆地ならではの風景も健在である。郊外特有の大型店の看板や田園の中のパチンコ屋などに混じって、これまた大和路ならではの素っ気なさで、それらが見え隠れする橿原線沿線。奥ゆかしい路線であった。
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奈良線で西大寺駅を出た奈良ゆき電車がスピードを上げると、
突如家並みが途切れ、悠久の大地を思わせる平原が視界いっぱいに広がる。
平城宮跡である。
現在では復元工事が進み、往時を再現した建物がいくつも建造されているが、
撮影当時は本当にただの広大な草むらであり、
私にとっては、何よりも奈良を感じることができる風景であった。
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三たび、生駒線へ・・・・
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関西にも時々雪が降り積もることがある。
近鉄は前述のとおり、雨が降っただけで遅れるのだが、雪になると軽く10分~15分は遅れる。
各線を横断的に走る列車が多いという複雑な運転形態や、Mc車が多く起動時の空転が多いというような事情もあると思うが、ラッシュ時などは徐行につぐ徐行で30分は遅れを覚悟しなければならなかったように記憶している。
写真は、わが高校の最寄り駅、京都線東寺駅での1994年1月のスナップ。
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近鉄でのリバーサルフィルムでの撮影分。
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いつしか、私は真剣に近鉄への入社を考え始めるようになった。
運よく希望する大学に入学することができた私は、入学直後から近鉄へ入社したOBを訪ね、就職活動を開始したくらいである。
近鉄沿線の住宅地を訪ね歩き、写真を撮り、さまざまなグループ会社と生活者の関わりを調べ、はては長野線沿線の石川沿いに、大規模な職住近接型とユートピアをつくる壮大な計画まで考案し、「ハートランド構想」と銘打って有頂天になっていたのを思い出す。
大学4年の就職活動の時期になり、万全を期して臨んだ近鉄の面接でも、トントン拍子に駒を進めた。
しかし、最終面接の直後、まさかの「今回はご縁がなかったということに・・・」の連絡。大学時代を通じて5年以上見続けた夢は、はかなく散ったのであった。
今の私はあるのは、まさに近鉄に不合格となったおかげであると言える。
最初は、カルチャーショックの連続であった。それまで、私のなじみのある私鉄電車というものは、南海にしても阪急にしても、事故によるダイヤ乱れなどは別にして、一分たりとも遅れてくるということはなかった。しかしながら、この近鉄電車は、ほぼ恒常的にといっていいほど、遅れて来るのである。通常でも2~3分は遅れて来るし、雨の降る日のラッシュ時など、5~6分などまだ良いほうで、ひどい時になるとちょうどワンサイクルずれて、つまり10分などという派手な遅れを発生させながら走っていることも珍しくなかった。
しかも、電車は短編成のぶつ切りで、8両や10両編成なんかになると、色や大きさの違う電車をお構いなしに数珠つなぎにしてやって来る。こんないい加減な鉄道は初めてであった。お世辞にもスマートとは言えないこの近鉄電車は、私のそれまでの憬れだった阪急とは好対照であった。
私は、そんな近鉄電車と、切っても切れない関係となり、次第に心の底から愛着を持つようになった。
9000系ほか6連の準急難波ゆき 西大寺-菖蒲池 1991年4月
/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////中学校から、受験勉強で忙しくなる高校2年生ごろまで、撮影した近鉄関係の写真は膨大な量にのぼるのだが、ここでは撮影時期順に紹介していきたい。
なお、私は堺在住でまだ近鉄にはなじみのなかった小学生時代に撮影したカットもあり、まずそこから。つまりは、有史以前?の写真である。まず、1986年、近鉄大阪線の下田駅近くまで、父の友人を家族で訪ねたときのもの。
旧塗装車(あずき一色)の並ぶ高安駅を通過する新塗装(あずきパフェ色)の
2600系4連の急行宇治山田ゆき。
近鉄は3200系の登場以後、約3年で車両の新塗装化を完了した。1986年7月。
2600系4連の急行宇治山田ゆき。
近鉄は3200系の登場以後、約3年で車両の新塗装化を完了した。1986年7月。
下田駅を通過する30000系ビスタカー4連の特急難波ゆき。1986年7月。
下田駅に入る11400系新エースカー6連の特急鳥羽ゆき。
11400系は近鉄特急の中でも古い車両であるが、ブタ鼻のような標識灯が恰好悪く
好きになれなかった。1986年7月。
11400系は近鉄特急の中でも古い車両であるが、ブタ鼻のような標識灯が恰好悪く
好きになれなかった。1986年7月。
1988年、私が小学6年生にあがった年の春、衝撃的にカッコイイ電車が近鉄に登場した。言わずと知れた、21000系「アーバンライナー」である。この列車の登場は、鉄道好きのみならず一般の旅客をもあっと言わせた。私の伯父は、とくに鉄道好きでもなんでもなかったが、この列車にのるためだけに名古屋に所用をつくって出かけたらしい。
私も、父にせがんでその年の夏、はじめての「近鉄電車のりまわし」を実行した。コースは、大阪難波から、伊賀線、内部・八王子線、北勢線、養老線に乗車し、名古屋から念願のアーバンライナーに乗車して大阪へ帰宅するというもの。本当に興奮したのをよく覚えている。
伊賀神戸駅に停車中の伊賀線880系上野市ゆき。
880系は1955年登場の元奈良線のエース選手800系。1986年から改造されて伊賀線に移った。
なお、ホームに立っているのは父である。1988年8月
880系は1955年登場の元奈良線のエース選手800系。1986年から改造されて伊賀線に移った。
なお、ホームに立っているのは父である。1988年8月
伊賀線880系車内からの一枚。元奈良線820系の860系伊賀神戸ゆきと交換する。
猪田道。1988年8月
猪田道。1988年8月
四日市駅に到着する内部・八王子線の260系。1983年登場のナローゲージのホープ。
1988年8月
1988年8月
馬道駅に進入する北勢線220系北大社ゆき。220系は1931年製造のオールドタイマー。
北勢線全線開業時からの生え抜きであるが、1992年に廃車となっている。1988年8月。
北勢線全線開業時からの生え抜きであるが、1992年に廃車となっている。1988年8月。
馬道駅での北勢線220系北大社ゆき。1988年8月。
北勢線北大社駅での200系西桑名ゆき(左:1959年登場)と
270系阿下喜ゆき(右:1977年登場)。
270系は廃線も囁かれたナローゲージで久々の新車投入となりファンを喜ばせた。1988年8月
270系阿下喜ゆき(右:1977年登場)。
270系は廃線も囁かれたナローゲージで久々の新車投入となりファンを喜ばせた。1988年8月
北勢線北大社車庫で休む130形。1988年8月。
名古屋駅から、念願の21000系アーバンライナーに乗って帰宅した。
ハイグレードな車内、飛ぶように走る疾走感。夢のようなひとときであった。名古屋。1988年8月。
ハイグレードな車内、飛ぶように走る疾走感。夢のようなひとときであった。名古屋。1988年8月。
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さて、これ以降が中学校に入り近鉄奈良線沿線の富雄に引っ越して以降の写真である。
まずは、自宅周辺で・・
高級住宅地を抜けて学園前駅に進入する8600系他6連の快速急行奈良ゆき。1989年4月。
学園前から富雄駅に勾配を下ってくる11400系エースカー3連の特急難波ゆき。1989年4月。
生駒線へ回送される800系4連。800系は1955年に奈良線近代化の草分けとして登場。
料金不要な”バンビ特急”として華々しくデビューした。撮影当時はラッシュ時に生駒線に少し出る
だけとなり、1992年までに全車廃車されている。 学園前-富雄。1989年4月。
料金不要な”バンビ特急”として華々しくデビューした。撮影当時はラッシュ時に生駒線に少し出る
だけとなり、1992年までに全車廃車されている。 学園前-富雄。1989年4月。
西大寺駅に停車中の20100系「あおぞら」3連。1962年に団体専用のダブルデッカー車
として登場し修学旅行や遠足の子供達の夢を乗せて走った。1990年に廃車されている。
私も、小学校の伊勢志摩への修学旅行で、古びたこの列車に乗った。1989年4月。
として登場し修学旅行や遠足の子供達の夢を乗せて走った。1990年に廃車されている。
私も、小学校の伊勢志摩への修学旅行で、古びたこの列車に乗った。1989年4月。
今里駅を通過する21000系アーバンライナー6連の特急難波ゆき。1989年4月。
スマートでありながら先頭車の2丁パンタがカッコイイ。
スマートでありながら先頭車の2丁パンタがカッコイイ。
大和八木駅を通過する21000系アーバンライナー6連の特急難波ゆき。1989年4月。
大和八木駅を出て大阪方面へ向かう12400系サニーカーの特急京都ゆき。
遠くのマンションがいい感じ。1989年4月。
遠くのマンションがいい感じ。1989年4月。
登場直後の1233系ほか準急なんばゆき。学園前-富雄。1989年9月。
そして、通学で利用する近鉄京都線の三山木-狛田間、ついで興戸-新田辺間で、私としては初の本格的な撮影をした。この区間、いまでは車庫ができて少し印象が変わってしまったが、当時はご覧の通り田園が広がる非常に気持ちのよい区間であり、それまで堺の工場地帯の煤煙の中で暮らしてきた私にとっては、まさに夢見心地で電車に揺られたものである。
うららかな春の沿線を走る、8600系4連の急行橿原神宮前ゆき。三山木-狛田。1989年4月。
現在ではこの場所に近鉄宮津駅および車庫が建設され、趣は変わっている。
現在ではこの場所に近鉄宮津駅および車庫が建設され、趣は変わっている。
18400系ミニスナックカー未更新車2連の特急奈良ゆき。
三山木-狛田。1989年4月。
三山木-狛田。1989年4月。
近鉄唯一のステンレスカー3000系3連による普通西大寺ゆき。三山木-狛田。1989年4月。
この写真の3002号は1991年に運転台撤去、中間車化され
以後は3000系が3連で走ることはなくなった。
この写真の3002号は1991年に運転台撤去、中間車化され
以後は3000系が3連で走ることはなくなった。
18400系ほか4連の特急奈良ゆき。18400系は12200系スナックカーを当時車両限界の狭かった
京都線用にアレンジして製造された狭幅車。新田辺-興戸。1989年7月。
京都線用にアレンジして製造された狭幅車。新田辺-興戸。1989年7月。
8810系4連の普通京都ゆき。興戸-新田辺。1989年7月。
この8810系はそれ以降の新車に比べても乗り心地が良くお気に入りだった。
この8810系はそれ以降の新車に比べても乗り心地が良くお気に入りだった。
8810系4連の普通西大寺ゆき。高の原-平城。1989年7月。
京都線は高の原-平城間で名にし負う「平城山(ならやま)」を超える。
森を抜けて疾走するこの区間も、臨海部から来た私には新鮮であった。
京都線は高の原-平城間で名にし負う「平城山(ならやま)」を超える。
森を抜けて疾走するこの区間も、臨海部から来た私には新鮮であった。
ある時、私は自転車で少し遠出をして「冒険」に出かけたのだが、その際、思いもかけず近鉄生駒線の東山駅に出くわし驚いたものである。私は、そのときまで無人駅というものを見たことがなかったからである。
生まれて初めて見た無人駅がこの東山駅。生駒線は、実際にはこの時すでに沿線開発が進みつつある都市近郊路線で、この東山駅も数年後にはニュータウンの駅になってしまうのであるが、このときばかりはとほうもない山間の秘境駅のように感じられたものである。
雑木林を抜けて東山駅に接近してくる900系2連の生駒ゆき。
900系は奈良線初の大型車。2002年に廃車となっている。元山上口-東山 1989年8月
900系は奈良線初の大型車。2002年に廃車となっている。元山上口-東山 1989年8月
東山駅に停車中の900系2連の生駒ゆき。1989年8月。
東山駅の情景。秘境駅の趣いっぱい。1989年8月
東山駅の駅名板と時刻表。上下とも15分おきに電車がくる。1989年8月。
東山駅の情景。駅の周りにあるものは、ごみ箱と電話ボックスだけ。1989年8月。
・・・このひなびた東山駅もすっかり周辺の宅地開発が進み、今では線路も新線に移設され、まったく様相を変えている。
生駒線に到着した820系4連。まだこの頃は生駒線・田原本線に中型車が残存した。1990年6月。
田原本線佐味田川-大輪田間を走る820系2連の新王寺ゆき。
沿線の宅地開発が進むとともに、当時大型車3連の入線が進んでおり
中型車は風前のともしびであった。1991年7月。
沿線の宅地開発が進むとともに、当時大型車3連の入線が進んでおり
中型車は風前のともしびであった。1991年7月。
京都線用狭幅特急車としては18400系の兄貴分だった18200系は、
1989年特急車としては引退し、団体専用車両「あおぞらⅡ」に改造された。
私は18200系の特急としての活躍を見ることはできなかった。
写真は高安車庫で改造を待つ18200系。1990年9月
1989年特急車としては引退し、団体専用車両「あおぞらⅡ」に改造された。
私は18200系の特急としての活躍を見ることはできなかった。
写真は高安車庫で改造を待つ18200系。1990年9月
京都線新田辺駅に進入する3000系4連の急行京都ゆき。3000系はご存じのとおり近鉄唯一の
ステンレスカー。京都地下鉄との乗り入れの為の試作車で1978年製造。しかし地下鉄乗り入れが
1988年まで実現しなかったこともあり4連1本しかない。1990年4月
ステンレスカー。京都地下鉄との乗り入れの為の試作車で1978年製造。しかし地下鉄乗り入れが
1988年まで実現しなかったこともあり4連1本しかない。1990年4月
西大寺検車区で出庫を待つ11400系新エースカー11520形ほか。1990年3月。
西大寺の車庫はすぐ脇に一般人の通れる小道があったりと比較的開放されており
このように外から撮影できる部分が多かった。
西大寺の車庫はすぐ脇に一般人の通れる小道があったりと比較的開放されており
このように外から撮影できる部分が多かった。
紫煙たなびく春の吉野川を渡る16000系2連の特急。夏にはキャンプやアユ釣りで賑わう吉野川も
春はのんびり。吉野特急は16000系の2連というトホホな感じの列車が多いが、4連や6連もある。
大和上市-吉野神宮。1990年4月。なぜか故意にフレームを傾けてみた一枚。
春はのんびり。吉野特急は16000系の2連というトホホな感じの列車が多いが、4連や6連もある。
大和上市-吉野神宮。1990年4月。なぜか故意にフレームを傾けてみた一枚。
抑速ブレーキを利かせながら生駒山麓を大阪平野へ下る1233系ほか6連の快速急行難波ゆき。
石切-瓢箪山間を33パーミル勾配がえんえんと続く区間で、登る列車はフルパワーで、下る列車は
慎重に走る。石切-額田。1990年6月。
石切-瓢箪山間を33パーミル勾配がえんえんと続く区間で、登る列車はフルパワーで、下る列車は
慎重に走る。石切-額田。1990年6月。
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このあたりから、はじめて手にした自分の一眼レフカメラ(PENTAX)での撮影である。
■1990年(中学2年生)夏の「近鉄電車乗りまわし」の記録。
南大阪線6400系ほか吉野ゆき急行。藤井寺。1990年8月。
山間部を走る6000系4連の急行あべの橋ゆき。吉野線大阿太駅にて。1990年8月。
飛鳥駅を出発し大阪へ向かう16000系特急あべの橋ゆき。1990年8月。
吉野へ向けラストスパートの6020系4連急行吉野ゆき。吉野神宮-吉野。1990年8月。
南海極楽橋駅と並ぶ、山間の終着駅、吉野駅の風景。
16000系特急と6020系急行(ともにあべの橋ゆき)が停車中。1990年8月。
16000系特急と6020系急行(ともにあべの橋ゆき)が停車中。1990年8月。
長野線汐ノ宮駅に接近する6400系他の準急あべの橋ゆき。
長野線は南海高野線沿いに開発された郊外住宅地のちょうど裏手を走っており、
高野線沿線と対照的に開発が進んでおらず、ローカル色いっぱい。
現在でも富田林を過ぎると単線で、大阪都心から30分圏内とは思えないムード。
写真は、なぜか故意にボカした一枚。1990年8月。
長野線は南海高野線沿いに開発された郊外住宅地のちょうど裏手を走っており、
高野線沿線と対照的に開発が進んでおらず、ローカル色いっぱい。
現在でも富田林を過ぎると単線で、大阪都心から30分圏内とは思えないムード。
写真は、なぜか故意にボカした一枚。1990年8月。
場所は変わって大阪線の撮影名所、榛原-長谷寺間で21000系アーバンライナーを撮る。
まずは難波ゆき特急。1990年8月。
まずは難波ゆき特急。1990年8月。
難波ゆきアーバンライナーの後撃ち。榛原-長谷寺。1990年8月。
名古屋行きアーバンライナー。この区間はアーバンライナーのみならず特急はみな
カッ飛ばしているので、撮影が大変であった。長谷寺-榛原。1990年8月。
カッ飛ばしているので、撮影が大変であった。長谷寺-榛原。1990年8月。
■生駒線に沿って・・ 1991年4月
大阪平野と奈良盆地の間に横たわる生駒山地。奈良線はその横っ腹を長いトンネルでくり抜いて、阪奈間を行き来しているわけだが、その奈良側の生駒山麓に沿ってトコトコ南北に走るのが生駒線。
もともと、平群の里山や竜田川の渓谷、集落を縫って走っていたローカル線だが、大阪近郊の郊外路線としての顔もあり、単線だったり複線になったり、その多彩な変化が楽しく、また趣深い路線である。
私の自宅からちょっとした日帰りサイクリングが設定できる距離にあったため、何度か撮影に出かけている。
生駒-菜畑間をゆく900系2連王寺ゆき。背後は生駒山。1991年4月。
奈良線に近いこのあたりは完全なベッドタウンだが、生駒線沿線は田畑が残っていた。
写真の区間は1994年に高架・複線化されている。
奈良線に近いこのあたりは完全なベッドタウンだが、生駒線沿線は田畑が残っていた。
写真の区間は1994年に高架・複線化されている。
複線区間が終わる南生駒駅を出て王寺に向かう900系2連。1991年4月。
竜田川が寄り添い、だんだんと線形は険しくなっていく。萩の台-東山間が複線化された現在でも
この南生駒-萩の台間は単線のままである。
竜田川が寄り添い、だんだんと線形は険しくなっていく。萩の台-東山間が複線化された現在でも
この南生駒-萩の台間は単線のままである。
萩の台駅周辺こそ新興住宅地なものの、上記のとおり,次の東山駅は秘境駅、そして
生駒線の白眉はこの東山-元山上口の区間であった。鬱蒼とした森を出ると急に
渓谷となった竜田川が現れ、渓谷に貼りつくようにできた集落の中を電車は突き抜けて
走るのであった。900系2連王寺ゆき。1991年4月。
生駒線の白眉はこの東山-元山上口の区間であった。鬱蒼とした森を出ると急に
渓谷となった竜田川が現れ、渓谷に貼りつくようにできた集落の中を電車は突き抜けて
走るのであった。900系2連王寺ゆき。1991年4月。
渓谷に沿った狭い集落を抜けて走る900系2連生駒ゆき。このあたりでは線路端で布団を干したり
線路を生活道路がわりに歩いたりというような光景がよく目に着く。元山上口-東山。1991年4月
線路を生活道路がわりに歩いたりというような光景がよく目に着く。元山上口-東山。1991年4月
元山上口を過ぎるとやや景観が広がる。このあたりも現在では宅地開発が進んでいる。
元山上口-平群。1991年4月。
元山上口-平群。1991年4月。
古代から豪族の平群氏が住みついていた平群の里を抜けて走る900系2連王寺ゆき。
生駒線はほぼ全線にわたって複線化のための用地が確保されている。平群-竜田川。1991年4月
生駒線はほぼ全線にわたって複線化のための用地が確保されている。平群-竜田川。1991年4月
勢野北口-竜田川間で再び森の中を走る900系2連生駒ゆき。左は釣り堀である。1991年4月。
勢野北口駅に近付くと今度はJR大和路線に沿ったベッドタウンとなり住宅が増える。
竜田川-勢野北口。1991年4月。
竜田川-勢野北口。1991年4月。
■自宅周辺の奈良線ほか 91年春~夏頃
当時の私にとって会心の一枚。桜咲く春の住宅地を疾駆する、9000系ほか6連の準急難波ゆき。
西大寺-菖蒲池。1991年4月。
西大寺-菖蒲池。1991年4月。
富雄を出発し35パーミル勾配を登る8810系4連の普通難波ゆき。奈良市西部は高級住宅地として
知られる学園前エリアを筆頭に、完全な新興住宅地である。私にとっては懐かしい景色である。
1991年4月
知られる学園前エリアを筆頭に、完全な新興住宅地である。私にとっては懐かしい景色である。
1991年4月
ツツジの咲く学園前付近を抜けて奈良へ向かう11400系新エースカー3連の特急。
11400系11520形は12200系スナックカー同様の前面スタイルに改造されたものもあり
編成で両側の先頭形状が違うという状態であった。1991年5月。
11400系11520形は12200系スナックカー同様の前面スタイルに改造されたものもあり
編成で両側の先頭形状が違うという状態であった。1991年5月。
西大寺-菖蒲池間を走る8000系4連の準急難波ゆき。当時は普通・準急に4連が残存していた。
現在では4連の準急は存在しないが、陽性の沿線とよくマッチしており好きだった。
この車両は8000系の中でもベンチレータの残った初期タイプ。1991年7月。
現在では4連の準急は存在しないが、陽性の沿線とよくマッチしており好きだった。
この車両は8000系の中でもベンチレータの残った初期タイプ。1991年7月。
学園前から富雄駅に勾配を駆け下りて来た8000系他8連の快速急行難波ゆき。
後ろは8810系かな? 1991年7月。
後ろは8810系かな? 1991年7月。
珍しく奈良線にやってきた学園前-菖蒲池間の団体専用車20000系「楽」4連。
「楽」は1990年登場のダブルデッカー。4連一本しかなく近鉄の路線上どこにいるかわからないので
出会えるとラッキー感があった。20100系「あおぞら」亡きあと登場した「楽」は人気で、
この日は近鉄主催のあやめ池遊園地ツアー旅行の貸切として使用されていた。
「楽」は1990年登場のダブルデッカー。4連一本しかなく近鉄の路線上どこにいるかわからないので
出会えるとラッキー感があった。20100系「あおぞら」亡きあと登場した「楽」は人気で、
この日は近鉄主催のあやめ池遊園地ツアー旅行の貸切として使用されていた。
菖蒲池駅で貸切客を下ろす20000系「楽」。歴史のあったあやめ池遊園地も今はない。
1991年7月
1991年7月
大阪線安堂-国分間の大和川橋梁を走る1220系ほか6連による普通国分ゆき。1991年7月。
待っていた18200系「あおぞらⅡ」がやって来た! 京都線系統の特急車だった18200系が、
装いも明るく団体専用車として再登場した。大阪線安堂-国分間の大和川橋梁にて。1991年7月。
装いも明るく団体専用車として再登場した。大阪線安堂-国分間の大和川橋梁にて。1991年7月。
■1991年(中学3年)夏の「近鉄乗りまわし」
さくらライナー26000系4連の特急吉野ゆき。吉野線飛鳥-壺阪山。1991年7月。
16010系ほか4連の特急あべの橋ゆき。吉野線壺阪山-飛鳥。1991年7月。
16010系はサニーカーを母体に1980年に製造されたが2連一本しかない貴重な存在。
16010系はサニーカーを母体に1980年に製造されたが2連一本しかない貴重な存在。
大阪線のターミナル上本町駅の様子。1991年7月。
上本町駅は創業以来の近鉄最大のターミナル。百貨店、巨大ホテル、劇場等が集積するほか
近鉄本社も控えるが、繁華街というほどではなく、大阪市内でもやや中途半端な位置づけで、
日中は閑散としている。その微妙な空気感がまた面白いエリアでもある。
上本町駅は創業以来の近鉄最大のターミナル。百貨店、巨大ホテル、劇場等が集積するほか
近鉄本社も控えるが、繁華街というほどではなく、大阪市内でもやや中途半端な位置づけで、
日中は閑散としている。その微妙な空気感がまた面白いエリアでもある。
上本町ターミナルを出る2430系ほか準急榛原ゆき。当時の大阪線にはまだ看板車が
比較的多く残存していた。1991年7月。
比較的多く残存していた。1991年7月。
毎朝、ピチピチの魚介を乗せて伊勢方面からやって来る1480系3連の「鮮魚列車」上本町ゆき。
布施-今里。1991年7月。
布施-今里。1991年7月。
2800系6連の普通上本町ゆき。山本-八尾。1991年7月。
豪雨の榛原駅を通過する12200系新スナックカー+30000系ビスタカー6連の特急難波ゆき。
突然の豪雨にやられた撮影行、一日わずか4~5本のバスが運よく来てくれたために
命拾いしたのもいい思い出である。1991年7月。
突然の豪雨にやられた撮影行、一日わずか4~5本のバスが運よく来てくれたために
命拾いしたのもいい思い出である。1991年7月。
中川駅で並ぶ特急。左の名古屋行きは10400系旧エースカー。右は賢島ゆき30000系ビスタカー。
中川駅は中線に入った特急が左右の扉を開き、乗換に非常に便利である。1991年7月。
中川駅は中線に入った特急が左右の扉を開き、乗換に非常に便利である。1991年7月。
志摩線白木駅にて30000系特急と退避する賢島ゆき1200系2連。
現在は新線化されてこの場所に駅はもうない。1991年7月
現在は新線化されてこの場所に駅はもうない。1991年7月
名古屋線川原町-阿倉川間を快走する12200系新スナックカー未更新車他8連の名古屋ゆき特急。
12200系は1969年より登場した、1970年代を代表する近鉄特急の最大世帯で、2連、4連、6連
の固定編成があり汎用性に富んだ万能選手である。更新前のスナックカーはこのような差し込み式
の行き先表示と、羽根のマークの特急表示がなかなか良かった。
12200系は1969年より登場した、1970年代を代表する近鉄特急の最大世帯で、2連、4連、6連
の固定編成があり汎用性に富んだ万能選手である。更新前のスナックカーはこのような差し込み式
の行き先表示と、羽根のマークの特急表示がなかなか良かった。
北勢線に1990年たった1両で登場した最新型277形ほか3両の阿下喜ゆき。北大社にて。
北大社は北勢線の中核駅で運転所と17両収容の車庫がある。1991年7月。
北大社は北勢線の中核駅で運転所と17両収容の車庫がある。1991年7月。
北勢線北大社-六把野間をコトコトゆく270系西桑名ゆき。1991年7月。
この時期から、277形と同様、オレンジ色との二色塗装に変更になる。
この時期から、277形と同様、オレンジ色との二色塗装に変更になる。
北勢線をゆく270系 1991年7月
北勢線の古豪220形もついに定期を外された。
北大社車庫の奥で留置されていた時期の写真。1991年7月。
北大社車庫の奥で留置されていた時期の写真。1991年7月。
桑名駅に停車する11400系新エースカー他の特急名古屋ゆき。1991年7月。
桑名駅に進入する養老線440系2連の桑名ゆき。元名古屋線の6441系。
二色塗装が標準となった近鉄だが養老線はマルーン一色のままだった。1991年7月。
二色塗装が標準となった近鉄だが養老線はマルーン一色のままだった。1991年7月。
名古屋線蟹江駅を通過する12200系アコモ改造車ほか7連の特急鳥羽ゆき。1991年7月。
12200系は1991年よりアーバンライナーに準じた大胆なアコモ改造が施工され、
施工車の一部がご覧のような「フレッシュアップ」した新塗装で登場して周辺を驚かせた。
12200系は1991年よりアーバンライナーに準じた大胆なアコモ改造が施工され、
施工車の一部がご覧のような「フレッシュアップ」した新塗装で登場して周辺を驚かせた。
左がフレッシュアップ塗装の編成、右が従来塗装(11400系)。
オレンジも紺も、従来のものよりかなり明るい。
この時期近鉄特急の塗色を変更する計画があり、何種類かの試験塗装が出たが、これもその一つ。
結局、このビックリ特急色も、幻に終わった。1991年7月。四日市。
オレンジも紺も、従来のものよりかなり明るい。
この時期近鉄特急の塗色を変更する計画があり、何種類かの試験塗装が出たが、これもその一つ。
結局、このビックリ特急色も、幻に終わった。1991年7月。四日市。
米野駅を通過し、終点名古屋へ進んでゆく10400系旧エースカーほか8連の特急名古屋ゆき。
10400系は11400系とともに、1960年代の近鉄特急を代表する車両である。
とくに10400系は旧エースカーと呼ばれ、冴えない表情となった11400系新エースカーと対照的に、
更新後の全面デザインもなかなかイケており、2編成しかない小所帯であったことも手伝い、
名古屋線系統でしか見ることのできない、憧れの存在であった。
10400系は1992年に廃車となっており、終焉間近の10400系旧エースカーを、
自分としては満足できるレベルで写真に残せたことは幸いであった。1991年7月。
10400系は11400系とともに、1960年代の近鉄特急を代表する車両である。
とくに10400系は旧エースカーと呼ばれ、冴えない表情となった11400系新エースカーと対照的に、
更新後の全面デザインもなかなかイケており、2編成しかない小所帯であったことも手伝い、
名古屋線系統でしか見ることのできない、憧れの存在であった。
10400系は1992年に廃車となっており、終焉間近の10400系旧エースカーを、
自分としては満足できるレベルで写真に残せたことは幸いであった。1991年7月。
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■1991年~92年にかけての撮影分から。
京都線伏見-丹波橋間をゆく11400系新エースカー6連の特急奈良ゆき。
11400系の晩年は京都・奈良線系統の特急運用が多かった。1992年4月
11400系の晩年は京都・奈良線系統の特急運用が多かった。1992年4月
京都線丹波橋-桃山御陵前のSカーブをゆく11400系新エースカー3連の特急橿原神宮前ゆき。
「吉野連絡」のサボをつけている。1992年4月
「吉野連絡」のサボをつけている。1992年4月
西大寺駅に停車中の12200系新スナックカーの特急京都ゆき。
行先表示板が無かったのか、行き先が手書きなところが近鉄らしい。1992年2月。
行先表示板が無かったのか、行き先が手書きなところが近鉄らしい。1992年2月。
西大寺駅に停車中の12400系サニーカーの特急天理ゆき(臨時)。
1960年代登場のエースカー、70年代の代表車スナックカー、そして80年代のサニーカー
近鉄特急3代のデザインの変化をたどるのも面白い。1992年4月
1960年代登場のエースカー、70年代の代表車スナックカー、そして80年代のサニーカー
近鉄特急3代のデザインの変化をたどるのも面白い。1992年4月
京都線高の原-平城間を走る12200系新スナックカー更新車2連の特急天理ゆき(臨時)。
天理はご存じのとおり天理教のお膝元の宗教都市。天理教祭礼時は日本全国から天理に
人が集まるため、臨時特急が運転される。 1992年4月。
天理はご存じのとおり天理教のお膝元の宗教都市。天理教祭礼時は日本全国から天理に
人が集まるため、臨時特急が運転される。 1992年4月。
西大寺駅で並ぶ18400系ミニスナックカー特急京都ゆきと12400系サニーカーの回送電車
サニーカーはおそらく出庫しての奈良への送り込みのための方向転換であろうか、
乗務員氏たちがホーム上を疾走している。1992年2月。
サニーカーはおそらく出庫しての奈良への送り込みのための方向転換であろうか、
乗務員氏たちがホーム上を疾走している。1992年2月。
菜の花咲く学園前駅に到着する12200系更新車特急奈良ゆき。1992年4月。
学園前駅を出る8400系快速急行難波ゆき(右)と8000系快速急行奈良ゆき(左)1992年4月。
京都線高の原-平城間の平城山(ならやま)を走る18400系ミニスナックカー4連の特急橿原神宮前ゆき。
他の特急に比べ狭い18400系はあまり好きではなかった。1992年5月。
大阪市内の複々線上をゆく12200系新スナックカー4連の特急賢島ゆき。 鶴橋-今里 1992年5月
上本町ターミナルを出て鶴橋駅に下りてきた5200系ほか10連の回送電車。
大阪線の上り朝ラッシュには最後尾に5200系クロスシート車が併結された長距離急行が数本
運転される。1992年4月
大阪線の上り朝ラッシュには最後尾に5200系クロスシート車が併結された長距離急行が数本
運転される。1992年4月
2800系6連のよる高安ゆき普通。上本町-鶴橋。1992年4月。
特急汎用車に待望の新型車両が登場!!
車内、車外ともこれまでの特急車とは全く異なったデザインで1990年代を代表するスタイルとなった。
形式は22000系、愛称はACE。エースカーの代替車両という位置づけである。
名古屋ゆき特急。上本町-鶴橋。1992年4月
車内、車外ともこれまでの特急車とは全く異なったデザインで1990年代を代表するスタイルとなった。
形式は22000系、愛称はACE。エースカーの代替車両という位置づけである。
名古屋ゆき特急。上本町-鶴橋。1992年4月
大阪線布施-俊徳道間をゆく5200系ほか6連の区間快速急行青山町ゆき。
5200系は1988年登場の急行車両。3200系とともに近鉄一般通勤車両の中では
異色のデザインであるとともに、特別料金不要車両としてはグレードの高いアコモデーションで、
憬れの車両のひとつだった。JR221系等のモデル車両としても知られる。1992年3月
5200系は1988年登場の急行車両。3200系とともに近鉄一般通勤車両の中では
異色のデザインであるとともに、特別料金不要車両としてはグレードの高いアコモデーションで、
憬れの車両のひとつだった。JR221系等のモデル車両としても知られる。1992年3月
れんげ畑の脇をゆく12200系新スナックカーほか6連の特急橿原神宮前ゆき。
橿原線郡山-筒井。1992年5月。
橿原線郡山-筒井。1992年5月。
橿原線郡山-筒井間をゆく3200系6連の急行天理ゆき。
3200系は京都市営地下鉄乗り入れ用車両で他の近鉄一般車とはデザインも制御方式も違う異色車。
運用の都合上、奈良線や橿原線でも時々姿を見ることができる。1992年5月。
3200系は京都市営地下鉄乗り入れ用車両で他の近鉄一般車とはデザインも制御方式も違う異色車。
運用の都合上、奈良線や橿原線でも時々姿を見ることができる。1992年5月。
30000系新ビスタカーほか6連の特急賢島ゆき。橿原線郡山-筒井にて。1992年5月
アコモ改造された12200系新スナックカー4連の特急京都ゆき。アコモ改造車から
紺の部分が従来より明るい色調に変更されている。橿原線筒井-郡山にて。1992年5月。
紺の部分が従来より明るい色調に変更されている。橿原線筒井-郡山にて。1992年5月。
昼下がりの大和路をゆく12400系サニーカー4連の賢島ゆき特急。
橿原線平端-ファミリー公園前間の佐保川橋梁にて。1992年4月。
橿原線平端-ファミリー公園前間の佐保川橋梁にて。1992年4月。
同じ区間での撮影。8600系か。1992年4月。
橿原線西ノ京-九条間では薬師寺の西塔のたもとを電車が走る。1992年4月。
12600系新サニーカーが、夕暮れ迫る大和路をゆく。橿原線尼ヶ辻-西ノ京。1992年4月。
夕暮れ時の鶴橋駅下りホーム。右が奈良線、左が大阪線。1992年7月。
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■1992年8月(高校1年)夏の「近鉄乗りまわし」
南大阪線、阿部野橋ターミナル。奈良・大阪線のターミナルが分散しているのに対し、
こちらは一点集中。そのため、近鉄線内では随一の乗降客数を誇る。
ちなみに地名は「阿倍野」なのに対し近鉄は「阿部野」
と字が違う。行き先表示は「あべの橋」とひらがな表記である。1992年8月。
こちらは一点集中。そのため、近鉄線内では随一の乗降客数を誇る。
ちなみに地名は「阿倍野」なのに対し近鉄は「阿部野」
と字が違う。行き先表示は「あべの橋」とひらがな表記である。1992年8月。
あべの橋ターミナルを出て南を目指す6200系ほか5連の準急河内長野ゆき。
阿部野橋-河堀口。1992年8月。
阿部野橋-河堀口。1992年8月。
大阪市南郊の高架化上を驀進する6200系6連の急行吉野ゆき。
針中野-矢田。1992年8月。
針中野-矢田。1992年8月。
矢田駅に進入する6020系ほか6連の普通藤井寺ゆき。1992年8月。
朝の矢田駅に接近する6400系ほか6連の普通あべの橋ゆき。布忍-矢田。1992年8月。
6400系ほか6連の急行あべの橋ゆき。布忍-矢田。1992年8月
6200系ほか7連の準急富田林ゆき。矢田-布忍。1992年8月。
吉野線大阿太-福神間をゆく16000系4連のあべの橋ゆき特急。16000系は近鉄特急網拡充期の
1965年登場の古豪特急で、撮影時すでに古臭い印象だったが、
(1990年頃までリクライニングも無かった)・・・2010年現在も現役である。 1992年8月。
1965年登場の古豪特急で、撮影時すでに古臭い印象だったが、
(1990年頃までリクライニングも無かった)・・・2010年現在も現役である。 1992年8月。
同じく16000系4連のあべの橋ゆき特急。大阿太-福神。1992年8月。
この車両は紺色部分が少し明るく変更されている。
この車両は紺色部分が少し明るく変更されている。
トンネルを抜けて吉野線を走る6400系ほか4連の急行吉野ゆき。福神-大阿太。1992年8月。
6400系は京都線3200系に続くVVVF車第二弾として1986年に登場。
6400系は京都線3200系に続くVVVF車第二弾として1986年に登場。
場所を変えて・・・
2800系4連の準急上本町ゆき。榛原-長谷寺。1992年8月。
1400系ほか6連の急行上本町ゆき。榛原-長谷寺。1992年8月。
12600系新サニーカー4連の特急上本町ゆき。榛原-長谷寺。1992年8月。
12200系新スナックカー6連の特急上本町ゆき。榛原-長谷寺。1992年8月。
21000系アーバンライナー6連の特急名古屋ゆき。1992年8月。長谷寺-榛原。
山間で行き交う準急電車。左は2800系準急上本町ゆき、右は2430系準急榛原ゆき。
長谷寺-榛原。1992年8月。
長谷寺-榛原。1992年8月。
疾走する30000系ビスタカー4連の特急賢島ゆき。長谷寺-榛原。1992年8月。
12200系4連の特急賢島ゆき。長谷寺-榛原。1992年8月。
33パーミルを軽やかに駆け登る新型22000系ACEほか6連の特急名古屋ゆき。
側面デザインが美しい。長谷寺-榛原。1992年8月
側面デザインが美しい。長谷寺-榛原。1992年8月
名張駅で退避する2410系ほか6連の急行青山町ゆき。1992年8月。
制御車化された781号を先頭に、伊賀線比土駅に入って来る880系伊賀神戸ゆき。1992年8月
西青山駅で5200系同士の退避。右は定期の快速急行鳥羽ゆき。左は貸切電車。
5200系は急行車だが、団体貸切用として使用されることもある。1992年8月。
5200系は急行車だが、団体貸切用として使用されることもある。1992年8月。
5200系急行車の車内。転換クロスシートが並ぶ。このインテリアはJR221系に引き継がれ、
その後の関西の転換クロス拡充の礎を築いた。1992年8月。
その後の関西の転換クロス拡充の礎を築いた。1992年8月。
中川駅。1992年8月。
中川を出発し名古屋へ向かう12200系8連の特急名古屋ゆき。1992年8月。
名古屋線中川-桃園間の雲出川橋梁で出会う21000系アーバンライナー難波ゆきと
2000系?の普通電車。1992年8月。
2000系?の普通電車。1992年8月。
桃園-中川間をゆく1200系2連の普通中川ゆき。1992年8月。
12200系新スナックカー6連による特急鳥羽ゆき。桃園-中川。1992年8月。
~志摩線の旅~
鳥羽の海とぶらじる丸を横目に、鳥羽駅へと進入してゆく30000系新ビスタカー。
中之郷-鳥羽。1992年8月
中之郷-鳥羽。1992年8月
鳥羽駅をあとに賢島を向かう30000系新ビスタカーの特急賢島ゆき。鳥羽-中之郷。1992年8月
単線区間が続くこのあたりも、志摩スペイン村開業に伴う大規模輸送増強計画で複線化。
この頃は工事もたけなわで、翌年1993年には複線化される。
単線区間が続くこのあたりも、志摩スペイン村開業に伴う大規模輸送増強計画で複線化。
この頃は工事もたけなわで、翌年1993年には複線化される。
1600系2連の普通明星ゆき。中之郷-鳥羽。1992年8月。
中之郷付近の狭隘な区間を走行する30000系特急名古屋ゆき。1992年8月。
このあたりは鳥羽の下町にあたり、いかにも海辺の町といった雑然とした風情のある地域であった。
このあたりは鳥羽の下町にあたり、いかにも海辺の町といった雑然とした風情のある地域であった。
中之郷駅にて。12200系特急を見送る駅員。1992年8月。
現在では橋上駅舎化されこうした雰囲気はなくなっている。
現在では橋上駅舎化されこうした雰囲気はなくなっている。
志摩磯部-穴川間の湿地地帯をゆく30000系新ビスタカーの特急賢島ゆき。
この区間は伊雑ノ浦のほとりを曲がりくねりながら進んでいたが、1993年の輸送力増強時に
新線に切り替わってしまい、現在この風景は見られない。1992年8月。
この区間は伊雑ノ浦のほとりを曲がりくねりながら進んでいたが、1993年の輸送力増強時に
新線に切り替わってしまい、現在この風景は見られない。1992年8月。
穴川-志摩磯部間の旧線をゆく18400系ほか特急京都ゆき。1992年8月。
穴川-志摩磯部間の急曲線をゆく18400系ほか特急京都ゆき。1992年8月。
旧線は穴川の集落内を縫って走っていた。狭幅の18400系でさえ、いかにも窮屈そうである。
旧線は穴川の集落内を縫って走っていた。狭幅の18400系でさえ、いかにも窮屈そうである。
穴川-志摩磯部の旧線を21000系アーバンライナーがゆっくりと過ぎる。1992年8月。
当時名古屋からの賢島までの甲特急のうち一往復に21000系が充当されていた。
当時名古屋からの賢島までの甲特急のうち一往復に21000系が充当されていた。
かつてウナギ漁も行われていた穴川の集落には入江も。その脇を21000系が通過していった。
1993年に廃線となった、旧線時代の風景。1992年8月。
1993年に廃線となった、旧線時代の風景。1992年8月。
当時の賢島駅には、観光客でにぎわう特急用駅舎の奥に、もう一つ普通電車専用の駅があった。
開業時の駅はこちらだったようである。発車を待つ1200系2連鳥羽ゆき。
開業時の駅はこちらだったようである。発車を待つ1200系2連鳥羽ゆき。
賢島駅普通電車用ホームの先に、まだ海に突き出すように線路は伸びていた。
かつては真珠等を積み込んだ貨物駅跡というが、撮影当時は車庫(電留線)となっていた。
1992年8月。
かつては真珠等を積み込んだ貨物駅跡というが、撮影当時は車庫(電留線)となっていた。
1992年8月。
賢島駅奥の電留線に1200系2連の電車が停車中している。1992年8月。
賢島駅奥の電留線より賢島駅へ接近する1200系2連の普通鳥羽ゆき。1992年8月
この電留線も、賢島駅大改装のため普通電車専用ホームととも1993年姿を消し、
今は跡形もない。
この電留線も、賢島駅大改装のため普通電車専用ホームととも1993年姿を消し、
今は跡形もない。
賢島駅特急ホームに停車中の12200系新スナックカーのアコモ改造車による特急難波ゆき。
現在では駅はさらに大規模化している。1992年8月。
現在では駅はさらに大規模化している。1992年8月。
12200系新スナックカー、アコモ改造<前>の車内の様子。1992年8月。
改造後のシックな車内も良いが、改造前の素朴に明るい車内も好きであった。
改造後のシックな車内も良いが、改造前の素朴に明るい車内も好きであった。
12200系新スナックカー、アコモ改造<後>の車内の様子。1992年8月。
夕暮れの八木駅に入って来る5200系ほか区間快速急行青山町ゆき。
真菅-松塚 1992年8月。
真菅-松塚 1992年8月。
夕方下りラッシュにも何本か10連特急が運転されていた。
12200系新スナックカー他10連の特急鳥羽ゆき。真菅-八木 1992年8月。
12200系新スナックカー他10連の特急鳥羽ゆき。真菅-八木 1992年8月。
八木駅を後にする2800系6連の準急上本町ゆき。八木-真菅。1992年8月。
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地元の駅、奈良線富雄駅夕景。9000系ほか6連の準急難波ゆきが到着した。1992年10月。
身をくねらせて西大寺駅を出る8000系ほか8連準急難波ゆき(右)と
8810系4連普通京都ゆき(左)。
1992年10月
8810系4連普通京都ゆき(左)。
1992年10月
菜の花咲く学園前駅を出る1233系ほか6連の準急難波ゆき。1993年4月
■大和路を走る~橿原線紀行 1993年
橿原線は大和盆地を縦断して走る路線。線形は立派で本数も多く、都市近郊路線の顔も持っている幹線であるが、田畑や古墳、寺院、ため池など大和盆地ならではの風景も健在である。郊外特有の大型店の看板や田園の中のパチンコ屋などに混じって、これまた大和路ならではの素っ気なさで、それらが見え隠れする橿原線沿線。奥ゆかしい路線であった。
大和路らしい風景を横目に。8600系4連の普通橿原神宮前ゆき。
尼ヶ辻-西ノ京1993年4月。
尼ヶ辻-西ノ京1993年4月。
タンポポが主役の、素朴な春の大和路。18400系4連の特急京都ゆきが通過中。
尼ヶ辻-西ノ京。1993年4月。
尼ヶ辻-西ノ京。1993年4月。
唐招提寺のすぐ脇を走り抜ける30000系新ビスタカー。尼ヶ辻-西ノ京
橿原線は唐招提寺のほか薬師寺のすぐ脇も走り、窓を開ければ天平の風が吹き込む。
1993年4月。
橿原線は唐招提寺のほか薬師寺のすぐ脇も走り、窓を開ければ天平の風が吹き込む。
1993年4月。
レンゲ畑もまた、大和路の春の風物詩のひとつ。8000系4連の急行天理ゆき。
郡山-筒井。1993年4月。
郡山-筒井。1993年4月。
郡山市街をあとに南へ走る12200系新スナックカー6連の特急賢島ゆき。
郡山-筒井。1993年4月。
郡山-筒井。1993年4月。
筒井-郡山間をゆく12200系新スナックカー(未更新車)4連の特急京都ゆき。1993年4月
橿原線にやってきた団体専用電車20000系「楽」4連。筒井-郡山。1993年4月
夏の橿原線をゆく8000系6連の急行西大寺ゆき。筒井-郡山 1994年7月。
広がる田んぼを抜けて走る8000系4連の普通天理ゆき。郡山-筒井。1994年7月。
夕暮れ迫る薬師寺西塔前を通過する9200系4連の橿原神宮前ゆき急行。
9200系は3連で登場後1991年に4連化。その際組み込まれたサ9350形は
他の3両と寸法が違う為(この写真では右から2両目)デコボコ編成となった。
こういうところが、近鉄らしいと思う。西ノ京-九条。1992年10月。
9200系は3連で登場後1991年に4連化。その際組み込まれたサ9350形は
他の3両と寸法が違う為(この写真では右から2両目)デコボコ編成となった。
こういうところが、近鉄らしいと思う。西ノ京-九条。1992年10月。
暮れゆく大和路風情。垂仁天皇陵をバックに走る11400系新エースカーの特急。
西ノ京-尼ヶ辻。1992年10月。
西ノ京-尼ヶ辻。1992年10月。
古い御陵や寺社、塚などが散らばる中を抜けて走る尼ヶ辻-西ノ京-九条あたりは
大和の古代ロマンの香りさえ漂い、お気に入りのエリアであった。
自宅から自転車圏内で感じ取れる、こうした豊かな大和路の泰然自若とした「もの言わぬ風情」は
それまでチャキチャキの大阪の泉州で育った私の人格形成上、また別の影響を与えたと思う。
・・・・月が出ている。西ノ京-尼ヶ辻。1992年10月。
大和の古代ロマンの香りさえ漂い、お気に入りのエリアであった。
自宅から自転車圏内で感じ取れる、こうした豊かな大和路の泰然自若とした「もの言わぬ風情」は
それまでチャキチャキの大阪の泉州で育った私の人格形成上、また別の影響を与えたと思う。
・・・・月が出ている。西ノ京-尼ヶ辻。1992年10月。
上記二点、いずれも西ノ京-尼ヶ辻。1992年10月。
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自宅からほど近い場所にあったこの有名撮影地だが、
実際にここで撮影したものはこれ一枚くらいか。8600系ほか10連の快速急行奈良ゆき。
富雄-学園前。1993年2月。
実際にここで撮影したものはこれ一枚くらいか。8600系ほか10連の快速急行奈良ゆき。
富雄-学園前。1993年2月。
梅の花咲く学園前駅を出る8000系ほか6連の普通西大寺ゆき。1993年2月。
学園前駅前にできた近鉄のショッピングビル、パラディ。1994年2月。
私の自宅はこの学園前駅と、隣の富雄駅の中間にあり、用途と気分により両駅を使い分けていた。
私の自宅はこの学園前駅と、隣の富雄駅の中間にあり、用途と気分により両駅を使い分けていた。
学園前駅をあとに住宅地を抜け奈良を目指す8600系ほか6連の準急奈良ゆき。
学園前-菖蒲池。1994年2月。
学園前-菖蒲池。1994年2月。
8000系ほか6連の急行奈良ゆき。学園前-菖蒲池 1994年2月。
奈良線で西大寺駅を出た奈良ゆき電車がスピードを上げると、
突如家並みが途切れ、悠久の大地を思わせる平原が視界いっぱいに広がる。
平城宮跡である。
現在では復元工事が進み、往時を再現した建物がいくつも建造されているが、
撮影当時は本当にただの広大な草むらであり、
私にとっては、何よりも奈良を感じることができる風景であった。
18400系ミニスナックカー4連の特急奈良ゆき。西大寺-新大宮。1993年2月
若草山と奈良の街をバックに大阪を目指す8000系ほか6連の準急難波ゆき。
新大宮-西大寺。1993年2月。
新大宮-西大寺。1993年2月。
平城宮跡を疾走する12200系新スナックカーアコモ更新車4連の特急京都ゆき。
新大宮-西大寺。1993年2月。
新大宮-西大寺。1993年2月。
復元工事の始まった平城宮跡を抜けて奈良を目指す9200系4連の急行奈良ゆき。
1992年3月。西大寺-新大宮。
1992年3月。西大寺-新大宮。
疾走する8600系奈良ゆき。1993年2月。西大寺-新大宮。
平城宮跡を抜け奈良市街地に飛び込んだところに新大宮駅がある。
写真は新大宮に接近する12400系サニーカーの特急奈良ゆき。1993年2月。
写真は新大宮に接近する12400系サニーカーの特急奈良ゆき。1993年2月。
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三たび、生駒線へ・・・・
南生駒-萩の台間をゆく900系2連の王寺ゆき。1993年9月。
この区間は竜田川が脇に迫り狭隘なため現在に至るまで複線化が行われていない。
900系2連の生駒ゆき。1993年9月。(上2点とも)
900系2連の生駒ゆき。1993年9月。(上2点とも)
東山-元山上口間の竜田川の渓谷に沿った椣原(しではら)の集落を抜けて走る
900系2連の生駒線電車。1993年9月(上4点とも)
900系2連の生駒線電車。1993年9月(上4点とも)
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関西にも時々雪が降り積もることがある。
近鉄は前述のとおり、雨が降っただけで遅れるのだが、雪になると軽く10分~15分は遅れる。
各線を横断的に走る列車が多いという複雑な運転形態や、Mc車が多く起動時の空転が多いというような事情もあると思うが、ラッシュ時などは徐行につぐ徐行で30分は遅れを覚悟しなければならなかったように記憶している。
写真は、わが高校の最寄り駅、京都線東寺駅での1994年1月のスナップ。
8000系ほか6連の急行奈良ゆき。東寺。1994年1月。
8000系4連の普通京都ゆき。東寺。1994年1月。
3200系6連の普通新田辺ゆき。東寺。1994年1月。
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近鉄でのリバーサルフィルムでの撮影分。
生駒山を抜け、奈良盆地へ駆け下りていく8000系ほか10連の快速急行奈良ゆき。
生駒-東生駒。1993年8月。
生駒-東生駒。1993年8月。
奈良線花園駅付近の下町然とした街並みをゆく8600系ほか6連の準急奈良ゆき。
現在では高架化工事と再開発によって趣きは変わっている。若江岩田-花園。1993年8月。
現在では高架化工事と再開発によって趣きは変わっている。若江岩田-花園。1993年8月。
東花園-花園間をゆく8000系ほか6連の準急難波ゆき。
後ろに、東花園駅で追い越した普通電車が見える。東花園-花園。1993年8月。
後ろに、東花園駅で追い越した普通電車が見える。東花園-花園。1993年8月。
京都線丹波橋-伏見間をゆく18400系4連の特急京都ゆき。1994年5月。
京都線丹波橋-伏見間をゆく3200系第7編成の準急京都ゆき。
3207Fは1988年登場の3200系最終編成で、最初から6両で登場し、
近鉄で最初に英文字併記の表示幕を装着した車両であった。1994年5月。
3207Fは1988年登場の3200系最終編成で、最初から6両で登場し、
近鉄で最初に英文字併記の表示幕を装着した車両であった。1994年5月。
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いつしか、私は真剣に近鉄への入社を考え始めるようになった。
運よく希望する大学に入学することができた私は、入学直後から近鉄へ入社したOBを訪ね、就職活動を開始したくらいである。
近鉄沿線の住宅地を訪ね歩き、写真を撮り、さまざまなグループ会社と生活者の関わりを調べ、はては長野線沿線の石川沿いに、大規模な職住近接型とユートピアをつくる壮大な計画まで考案し、「ハートランド構想」と銘打って有頂天になっていたのを思い出す。
大学4年の就職活動の時期になり、万全を期して臨んだ近鉄の面接でも、トントン拍子に駒を進めた。
しかし、最終面接の直後、まさかの「今回はご縁がなかったということに・・・」の連絡。大学時代を通じて5年以上見続けた夢は、はかなく散ったのであった。
今の私はあるのは、まさに近鉄に不合格となったおかげであると言える。
以上
2006-11-17 04:26
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上から3つ目、4つ目の写真ですが、下田では無く堅下に見えるんですが・・・
by やまちゃん (2015-01-14 20:35)