ホノルル 2009 [ハワイ紀行/オーストラリア紀行]
この夏、「ハワイに一人旅」をしてみようと思い立った。
だが、カップル等のおめでたい人々が闊歩するワイキキを元気に歩ける自信は無かったし、まして一人きりでビーチに寝そべったりするのもしゃくだ。だから今回の旅では、ホノルルには二泊だけしかしない。
ホノルルは二回目。
7~8年も前になるだろうか、会社の慰安旅行で、3日間ワイキキに滞在したのが最初である。
その時は、ハワイに興味なんてこれっぽちもなかった。なんだよこれがハワイかと、鼻白みながら空港ロビーを出ようとしたそのとき、玄関口にふっくらした、若い土地の女が立っているのが見えた。
彼女は、花を編んで大きな輪にしたものを手に立っていたが、私は、この花輪がいわゆるレイと呼ばれるものであることさえ知らなかった。
気にせず通り過ぎようとすると、彼女は他の誰でもない私の前に進み出て、ちょっと恥ずかしそうに、慎み深い所作でその大きなレイを私の首にかけてくれたのである。
南国の花の、かすかな甘い香り。
なぜ彼女が見ず知らずの私にそんなことをしてくれるのか見当もつかない。
おそらくは、彼女は観光局の職員か何かなのかもしれない。
しかし私はそのとき、彼女の瞳の奥底に、義理でも仕事でもない、遠来の客を迎える底抜けのよろこびの光が、確かに宿っているのを見た。
私は、気恥ずかしさからレイをすぐにほかの同僚にやってしまったが、ただ、そのとき、ハワイというところは、なにかがほかと根本的に違うのかもしれないということを、私は直感的に理解できたである。
イキキの雰囲気は決して嫌いではないのだが、独り身で来てしまった今回のホノルル、ワイキキはやっぱりはずすことにした。
それで、今回は、あんまり観光客の人々が来ないようなところばかり歩くことにした。
ホノルル・ダウンタウン
ホノルル・ダウンタウンは、東半分が高層ビルの立ち並ぶオフィス街になっており、また逆に一番西の一角が、中国人街になっている。その間にあるほんのわずかなエリアが、古くからの町並みが残る本来のダウンタウンだという。そこは、ダウンタウン(中心街)であるにもかかわらず、ワイキキ地区などと比べガイドブックなどではほとんど紹介されることがない。しかし、ハワイ随一の街ホノルルの中心街とくれば、さぞ悦楽のムードが漂っていることだろう。・・・そう心弾ませてそこを訪れた私だが、目の前にあらわれた「楽園」には、正直言って面食らわせられた。
そこは、喧噪もなければ洗練ともほど遠い、まるでいなか町の場末のようなところで、ワイキキとは全く異なった、けだるい時間の流れ方をしていた。しかも、昼間から千鳥足でふらつく正体不明の人や、一人で何かつぶやいている奇人ばかりがチラホラと目につき、中心街と思われる地区に入ると、コツコツと働いている人の姿はもうほとんどなかった。だが、不思議なことに、なぜかそこにうらぶれた感じは少なかった。場末というには、あまりに日が強く当りすぎている。人生の垢を沈殿させるには、ここは明るすぎる気がした。
おりしも、大きな笑い声が、近くの酒場から聞こえた。その店からは、いかにも楽しげな空気が、入口の外まで漏れ出てきていた。興がそそるままに中をのぞいてみると、カウンターにもテーブルにも、おかしな風体の中年の男や女が鈴なり。客はてんでばらばら、好き勝手に過ごしていながら、店の奥から流れてくる陽気なカントリーミュージックに、みなが体のどこかで反応していた。・・・これはいい店だぞ、と思った。
店をのぞいているうちに、タバコを吸いに戸口まで出てきた一人のオヤジと、話をすることができた。彼は、ここしばらく仕事にありつけず、毎日のように昼間から飲んだくれているふう。見るからに遊び人で、しょうのないやつだ。だが、私が日本から来たというと、彼はそうかそうかと喜んでくれた。「日本はいいところだ。オーサカに行ったことがある。ダチがいるんだ」と彼。私もオーサカ出身だというと、オヤジは大仰に驚いて見せ、握手を求めてくる。「俺達はもう友達同士だ。何でも相談してくれ」とのこと。私も、オーサカではアンタはいつでもウェルカムだといってやった。ひとしきり与太話をした。
そのとき、通りから白人の若い女がフラフラと近付いてきた。われわれはギョっとした。一見して、薬物で頭がやられていることがわかったからだ。土地の人間ではない。身なりからして、アメリカ本土からの旅行者くずれだろうか。いずれにせよ、彼女は口もきけなかった。ただ、身振り手振りで、タバコをせがんだ。私は、動揺を見せまいと努力しながら、タバコを一本、彼女の指にはさんでやった。彼女は大儀そうに頭を下げて、またフラフラと通りを歩いて行った。
私は、「なんであんな馬鹿なことになるんだろうな」と苦笑しつつ、同意を求めてオヤジを振り返った。だがオヤジは、そんなヘラヘラした私の視線には応えなかった。何も言わず、目にいっぱい涙をためて、ただ突っ立っていた。そして、彼女の後ろ姿を見つめ「アイ・ラヴ・ユー」と、つぶやいた。
私と違い、彼は心の底から悲しんでいたのである。私は、恥ずかしくなった。
サウス・キング
サウス・キング・ストリートは、かつてはホノルルの目抜き通りだったらしい。小さな商店がえんえんと並び、「何でも揃うキングストリート」と言われていたのだという。私は二日目の午後、ホノルルの街場を探してここを歩くことにした。
だが、どこまで歩いても、盛り場らしいものはなかった。目抜き通りだった面影をしのぶことすら難しい、ごくありふれた、茫洋とした道路だった。思えば、アメリカ型の自動車社会が定着した現在のハワイ。リアルな街場などもはや消滅してしまっているのだろう。いまや大規模駐車場のあるアラモアナ・センター、ワードセンター、そしてカハラ・モールといった大規模なショッピングセンターが、いまやホノルルの「街場」の役割を果たしているのだ。
日本の地方都市で見られるこの現象は、ホノルルでも同じ。残念なことだが、これがリアル・ホノルルのである。
パパコレア
オアフ島にも、ネイティブ・ハワイアンの人々の居住区、というのがいくつか設定されている。もちろん、そもそもはハワイの全島のすべてがネイティブの土地だったわけだが、白人たちに土地を次々に収奪され、挙句の果てに「ハワイアン・ホームランド」の名の下に勝手に居住区をなるものを決められ、そこにネイティブ達は押し込まれたのである。「ホームランド」のほとんどは、ネイティブにとって古来、聖地とされていた地域が指定されているそうだが、本人たちにとっては随分複雑な心境しれない。
パパコレアというのは、唯一ホノルル市街地内にある「ホームランド」である。ハワイアンの生活区というのはどんな表情をしているのか、見てみたかった私は、地図から判断して15番のバスに乗った。この路線に乗っていると、このパパコレア地区に入り込んでいくことができるらしいのだが、私はその正確な場所を知らない。知らぬまに通り過ぎてしまうかもしれないと危惧もしていた。だが、実際にバスがパパコレアに入っていくと、すぐにそれと気づくことができた。
その雰囲気は、これまで見てきたホノルルの他の住宅地とは全然異なっていた。家は高床式で、地形の関係からか、斜面に張り付くように建てられている。多くの家では庭の樹木が、手入れされておらず、伸びるに任せた状態になっていおり、住宅街であるにもかかわらず、地区全体がどことなく「鬱蒼」としているのである。
道路には吹き飛んだ枝葉が散らかり放題になっているだけでなく、路上に駐車された自動車の並び方も、いかにもおおざっぱである。それは、よそ者の私にとっては一種異様な光景でもあった。私の感覚では、住宅というものは、自然の脅威から生活を防衛するために、自然に立ち向かうべく建築されるべきものだった。しかし、ここでは、家は自然の延長上にあるかのようだった。あるいは、おどろおどろしい自然の風物に、はじめから飲み込まれることを前提にしているかのようだった。
ちょうどそのとき、一台のトラックがやってきて路上に止まった。ネイティブ・ハワイアン向けに食品の移動販売を行う業者のようである。その「開店」を待ちわびていたかのように、目と鼻の先にある一軒の住宅から、一台の錆び付いた自動車が転がり出てきた。そのオンボロ車は、トラックの脇に乱暴に横付けして急停車したが、出てきたのは一見してハワイアンと分かる、肥満した大男だった。驚いたことに、男はトランクス一枚しか身に着けていない上に、そのトランクスもきちんとはけておらず、尻の半分が丸見えである。トラックの到着とともに、取るものもとりあえず、下着をひっかけて出てきたのか。
彼は、わずかな買い物を終えると、また自動車を乱暴に駆って自宅へと戻った。・・・彼の自宅もまた、生い茂る草木の中にうずもれるようにしてあった。家に帰ると彼はそのトランクスも脱いでしまうのであろうか。窓は開け放たれていたが、中は薄暗く、そこに寝転がって今買ったばかりの食い物をむさぼり食っているであろう彼の姿を見ることはできなかった。
すこし歩いたところで、また一人のハワイアンと出会った。彼はがっちりした体格。私が「ここがパパコレアか?」と聞くと、胸を張って「そうだ、ハワイアンの聖地だ」と答えた。彼は庭の草木に水やりをしていた様子だったが、私が日本から来たと知ると、「そうか。では、今から俺の車でドライブに行こう」と言った。
私は彼のこの誘いに、驚いたものだ。私たちは、今しがた会ったばかりで、たった二言、言葉を交わしただけである。しかも私はどこの誰とも分からない外来の男。そんな人間を、ドライブに誘えるこの男の心は、いったいどうなっているのだろう。「ヌウアヌ・パリには行ったか? タンタラスの丘は?全部、俺達の大事な場所なんだ。まだ行ってないのなら、連れて行ってやろう」と彼。「ここからすぐ眼下に見えるのはココ・ヘッドだ。あそこも、俺達には大切な土地なんだ」と、遠い目をする。私はどぎまぎして、彼の誘いに答えることができず、ちぐはぐな答えをした。結局、自分の予定があるからと丁重にお断りしたが、彼の好意をあのとき素直に受け取れなかった自分の心の狭さを、今も情けなく思う。
ある本によると、ネイティブ・ハワイアンは古来、夜になると、家の扉を開け放して寝ていたのだそうだ。「妖精たちが間違って家に迷い込んできても、出て行きやすいように」しているのだという。いま、このパパコレアでもそれが慣習として続いているのか、私は実際のところを知らないし、恐らくもうそんなことはないのかもしれないが、私には、繁茂する自然にそっとつつみ込まれた、「ホームランド」の夜が見えるような気がした。
マノア・バレー
マノア・バレーにはよく虹がかかるという。その日は天気が悪かったから、もしや虹がかかっているかもしれないと思い、午後おそく、マノア・バレーに向かう5番バスに乗った。バスは高台の住宅地を縫うように走りながら、谷を登って行った。終点が、住宅地の終わりだった。最後まで乗っていたのは私だけだった。
・・・虹は出ていない。
運転手に、今日は虹は出ると思うか尋ねてみた。30代後半と思しき男の運転手は、「さあ、どうかな」と言い、胡散臭そうに私を眺めた。「お前は写真を撮るのだろう。・・・・いいか、フォトグラファーというのは忍耐がキモだ。虹が出るかって、人に聞くようなことか?」と言った。「今日出なければ明日も来る。明日も出なければ明後日も来ればいい。それだけのことだ。」と吐き捨てるように言う。「お前は日本人か」と聞くからそうだと答えると、運転手はフン、と見下したように笑い、また私を上から下までなめるように見た。その運転手は、見るからに日系人だった。名札に、「HOSHIDA」とあった。
ホシダは、「この先の山中に滝があるから、行ってみるがいい」と言った。お前にそんな度胸はないだろうと言わんばかりである。じっさい、もう日暮れが近い。バスは一時間に一本しか来ないことも考えに入れると、この時間からうっそうとした山中に分け入るのはどうも気が引ける。折り返しの出発時間までのわずかな間だけ、周辺をぶらついて、そのままこのバスで市内に戻ったほうが賢明であると思われた。
・・・滝はまた今度にしよう。そう決めてホシダに「十分後に戻ってくる」というと、ホシダは、馬鹿にし切ったようにえらく尊大な態度でまた私を眺め、あげく傲然と「次に会うのは(十分後ではなく)一時間後だ」と言う。
日は暮れかけていたが、バスを半ば強制的に降ろされた私は、ホシダのいう、マノアの滝を目指すしかなかった。
マノアの滝を拝み、バス停に戻ってきたとき、一時間どころか、すでに二時間が経過していた。あたりはもう暗く、ホシダのバスが、ちょうどあれから2往復して街から登ってきたところだった。ホシダは休憩がてらバスを降り、携帯電話で話し込んでいる様子。私が近づくと、奴はちらっとこちらを見たが、すぐに目をそらし、電話に集中しているフリを決めこんだ。そのいかにも日本人的な仕草を見て、私は、ホシダのバスで帰る気がしなくなり、徒歩で谷を降りて行った。少し東側に、別のルートのバスが走っているはずだった。
私は迷い歩いた末、ようやく目当ての6番バスを捕まえることができた。市内のバスターミナルに戻った時は夜の9時になっていたが、私は探検から無事に帰還した誇らしさで、疲れは感じなかった。バスターミナルは、すっかり客足もひいてガランとしていたが、驚いたことに向かいの乗り場にはまたもホシダのマノア・バレー行きバスがいて、発車待ちをしていた。ホシダは、運転席に座ったまま、疲れきったようにハンドルにもたれ、ぼんやりしていた。私はニヤニヤしながらホシダのところに行き、「滝を見てきたぞ。すげえリフレッシュできた」と告げた。ホシダはさすがにちょっと目を丸くしたが、すぐにさも興味無さそうに視線を戻すと、またハンドルにもたれ、目をしょぼしょぼさせていた。
ホノルル・シティ・ライツ
→ ハワイ島編に続く
http://club-carousel.blog.so-net.ne.jp/2009-11-01
だが、カップル等のおめでたい人々が闊歩するワイキキを元気に歩ける自信は無かったし、まして一人きりでビーチに寝そべったりするのもしゃくだ。だから今回の旅では、ホノルルには二泊だけしかしない。
ホノルルは二回目。
7~8年も前になるだろうか、会社の慰安旅行で、3日間ワイキキに滞在したのが最初である。
その時は、ハワイに興味なんてこれっぽちもなかった。なんだよこれがハワイかと、鼻白みながら空港ロビーを出ようとしたそのとき、玄関口にふっくらした、若い土地の女が立っているのが見えた。
彼女は、花を編んで大きな輪にしたものを手に立っていたが、私は、この花輪がいわゆるレイと呼ばれるものであることさえ知らなかった。
気にせず通り過ぎようとすると、彼女は他の誰でもない私の前に進み出て、ちょっと恥ずかしそうに、慎み深い所作でその大きなレイを私の首にかけてくれたのである。
南国の花の、かすかな甘い香り。
なぜ彼女が見ず知らずの私にそんなことをしてくれるのか見当もつかない。
おそらくは、彼女は観光局の職員か何かなのかもしれない。
しかし私はそのとき、彼女の瞳の奥底に、義理でも仕事でもない、遠来の客を迎える底抜けのよろこびの光が、確かに宿っているのを見た。
私は、気恥ずかしさからレイをすぐにほかの同僚にやってしまったが、ただ、そのとき、ハワイというところは、なにかがほかと根本的に違うのかもしれないということを、私は直感的に理解できたである。
Papakolea, HONOLULU
University Avenue, HONOLULU
Kapiolani Blvd., HONOLULU
Fort Street Mall, Downtown, HONOLULU
N.Beretania Street, Downtown, HONOLULU
Kuhio Street, Waikiki, HONOLULU
イキキの雰囲気は決して嫌いではないのだが、独り身で来てしまった今回のホノルル、ワイキキはやっぱりはずすことにした。
それで、今回は、あんまり観光客の人々が来ないようなところばかり歩くことにした。
ホノルル・ダウンタウン
N.King Street, Downtown, HONOLULU
ホノルル・ダウンタウンは、東半分が高層ビルの立ち並ぶオフィス街になっており、また逆に一番西の一角が、中国人街になっている。その間にあるほんのわずかなエリアが、古くからの町並みが残る本来のダウンタウンだという。そこは、ダウンタウン(中心街)であるにもかかわらず、ワイキキ地区などと比べガイドブックなどではほとんど紹介されることがない。しかし、ハワイ随一の街ホノルルの中心街とくれば、さぞ悦楽のムードが漂っていることだろう。・・・そう心弾ませてそこを訪れた私だが、目の前にあらわれた「楽園」には、正直言って面食らわせられた。
そこは、喧噪もなければ洗練ともほど遠い、まるでいなか町の場末のようなところで、ワイキキとは全く異なった、けだるい時間の流れ方をしていた。しかも、昼間から千鳥足でふらつく正体不明の人や、一人で何かつぶやいている奇人ばかりがチラホラと目につき、中心街と思われる地区に入ると、コツコツと働いている人の姿はもうほとんどなかった。だが、不思議なことに、なぜかそこにうらぶれた感じは少なかった。場末というには、あまりに日が強く当りすぎている。人生の垢を沈殿させるには、ここは明るすぎる気がした。
Downtown, HONOLULU
N.King Street, Downtown, HONOLULU
Bethel Street, Downtown, HONOLULU
Downtown, HONOLULU
N.King Street, Downtown, HONOLULU
おりしも、大きな笑い声が、近くの酒場から聞こえた。その店からは、いかにも楽しげな空気が、入口の外まで漏れ出てきていた。興がそそるままに中をのぞいてみると、カウンターにもテーブルにも、おかしな風体の中年の男や女が鈴なり。客はてんでばらばら、好き勝手に過ごしていながら、店の奥から流れてくる陽気なカントリーミュージックに、みなが体のどこかで反応していた。・・・これはいい店だぞ、と思った。
店をのぞいているうちに、タバコを吸いに戸口まで出てきた一人のオヤジと、話をすることができた。彼は、ここしばらく仕事にありつけず、毎日のように昼間から飲んだくれているふう。見るからに遊び人で、しょうのないやつだ。だが、私が日本から来たというと、彼はそうかそうかと喜んでくれた。「日本はいいところだ。オーサカに行ったことがある。ダチがいるんだ」と彼。私もオーサカ出身だというと、オヤジは大仰に驚いて見せ、握手を求めてくる。「俺達はもう友達同士だ。何でも相談してくれ」とのこと。私も、オーサカではアンタはいつでもウェルカムだといってやった。ひとしきり与太話をした。
そのとき、通りから白人の若い女がフラフラと近付いてきた。われわれはギョっとした。一見して、薬物で頭がやられていることがわかったからだ。土地の人間ではない。身なりからして、アメリカ本土からの旅行者くずれだろうか。いずれにせよ、彼女は口もきけなかった。ただ、身振り手振りで、タバコをせがんだ。私は、動揺を見せまいと努力しながら、タバコを一本、彼女の指にはさんでやった。彼女は大儀そうに頭を下げて、またフラフラと通りを歩いて行った。
私は、「なんであんな馬鹿なことになるんだろうな」と苦笑しつつ、同意を求めてオヤジを振り返った。だがオヤジは、そんなヘラヘラした私の視線には応えなかった。何も言わず、目にいっぱい涙をためて、ただ突っ立っていた。そして、彼女の後ろ姿を見つめ「アイ・ラヴ・ユー」と、つぶやいた。
私と違い、彼は心の底から悲しんでいたのである。私は、恥ずかしくなった。
Downtown, HONOLULU
サウス・キング
サウス・キング・ストリートは、かつてはホノルルの目抜き通りだったらしい。小さな商店がえんえんと並び、「何でも揃うキングストリート」と言われていたのだという。私は二日目の午後、ホノルルの街場を探してここを歩くことにした。
だが、どこまで歩いても、盛り場らしいものはなかった。目抜き通りだった面影をしのぶことすら難しい、ごくありふれた、茫洋とした道路だった。思えば、アメリカ型の自動車社会が定着した現在のハワイ。リアルな街場などもはや消滅してしまっているのだろう。いまや大規模駐車場のあるアラモアナ・センター、ワードセンター、そしてカハラ・モールといった大規模なショッピングセンターが、いまやホノルルの「街場」の役割を果たしているのだ。
日本の地方都市で見られるこの現象は、ホノルルでも同じ。残念なことだが、これがリアル・ホノルルのである。
パパコレア
オアフ島にも、ネイティブ・ハワイアンの人々の居住区、というのがいくつか設定されている。もちろん、そもそもはハワイの全島のすべてがネイティブの土地だったわけだが、白人たちに土地を次々に収奪され、挙句の果てに「ハワイアン・ホームランド」の名の下に勝手に居住区をなるものを決められ、そこにネイティブ達は押し込まれたのである。「ホームランド」のほとんどは、ネイティブにとって古来、聖地とされていた地域が指定されているそうだが、本人たちにとっては随分複雑な心境しれない。
パパコレアというのは、唯一ホノルル市街地内にある「ホームランド」である。ハワイアンの生活区というのはどんな表情をしているのか、見てみたかった私は、地図から判断して15番のバスに乗った。この路線に乗っていると、このパパコレア地区に入り込んでいくことができるらしいのだが、私はその正確な場所を知らない。知らぬまに通り過ぎてしまうかもしれないと危惧もしていた。だが、実際にバスがパパコレアに入っていくと、すぐにそれと気づくことができた。
その雰囲気は、これまで見てきたホノルルの他の住宅地とは全然異なっていた。家は高床式で、地形の関係からか、斜面に張り付くように建てられている。多くの家では庭の樹木が、手入れされておらず、伸びるに任せた状態になっていおり、住宅街であるにもかかわらず、地区全体がどことなく「鬱蒼」としているのである。
道路には吹き飛んだ枝葉が散らかり放題になっているだけでなく、路上に駐車された自動車の並び方も、いかにもおおざっぱである。それは、よそ者の私にとっては一種異様な光景でもあった。私の感覚では、住宅というものは、自然の脅威から生活を防衛するために、自然に立ち向かうべく建築されるべきものだった。しかし、ここでは、家は自然の延長上にあるかのようだった。あるいは、おどろおどろしい自然の風物に、はじめから飲み込まれることを前提にしているかのようだった。
ちょうどそのとき、一台のトラックがやってきて路上に止まった。ネイティブ・ハワイアン向けに食品の移動販売を行う業者のようである。その「開店」を待ちわびていたかのように、目と鼻の先にある一軒の住宅から、一台の錆び付いた自動車が転がり出てきた。そのオンボロ車は、トラックの脇に乱暴に横付けして急停車したが、出てきたのは一見してハワイアンと分かる、肥満した大男だった。驚いたことに、男はトランクス一枚しか身に着けていない上に、そのトランクスもきちんとはけておらず、尻の半分が丸見えである。トラックの到着とともに、取るものもとりあえず、下着をひっかけて出てきたのか。
彼は、わずかな買い物を終えると、また自動車を乱暴に駆って自宅へと戻った。・・・彼の自宅もまた、生い茂る草木の中にうずもれるようにしてあった。家に帰ると彼はそのトランクスも脱いでしまうのであろうか。窓は開け放たれていたが、中は薄暗く、そこに寝転がって今買ったばかりの食い物をむさぼり食っているであろう彼の姿を見ることはできなかった。
すこし歩いたところで、また一人のハワイアンと出会った。彼はがっちりした体格。私が「ここがパパコレアか?」と聞くと、胸を張って「そうだ、ハワイアンの聖地だ」と答えた。彼は庭の草木に水やりをしていた様子だったが、私が日本から来たと知ると、「そうか。では、今から俺の車でドライブに行こう」と言った。
私は彼のこの誘いに、驚いたものだ。私たちは、今しがた会ったばかりで、たった二言、言葉を交わしただけである。しかも私はどこの誰とも分からない外来の男。そんな人間を、ドライブに誘えるこの男の心は、いったいどうなっているのだろう。「ヌウアヌ・パリには行ったか? タンタラスの丘は?全部、俺達の大事な場所なんだ。まだ行ってないのなら、連れて行ってやろう」と彼。「ここからすぐ眼下に見えるのはココ・ヘッドだ。あそこも、俺達には大切な土地なんだ」と、遠い目をする。私はどぎまぎして、彼の誘いに答えることができず、ちぐはぐな答えをした。結局、自分の予定があるからと丁重にお断りしたが、彼の好意をあのとき素直に受け取れなかった自分の心の狭さを、今も情けなく思う。
ある本によると、ネイティブ・ハワイアンは古来、夜になると、家の扉を開け放して寝ていたのだそうだ。「妖精たちが間違って家に迷い込んできても、出て行きやすいように」しているのだという。いま、このパパコレアでもそれが慣習として続いているのか、私は実際のところを知らないし、恐らくもうそんなことはないのかもしれないが、私には、繁茂する自然にそっとつつみ込まれた、「ホームランド」の夜が見えるような気がした。
マノア・バレー
マノア・バレーにはよく虹がかかるという。その日は天気が悪かったから、もしや虹がかかっているかもしれないと思い、午後おそく、マノア・バレーに向かう5番バスに乗った。バスは高台の住宅地を縫うように走りながら、谷を登って行った。終点が、住宅地の終わりだった。最後まで乗っていたのは私だけだった。
・・・虹は出ていない。
運転手に、今日は虹は出ると思うか尋ねてみた。30代後半と思しき男の運転手は、「さあ、どうかな」と言い、胡散臭そうに私を眺めた。「お前は写真を撮るのだろう。・・・・いいか、フォトグラファーというのは忍耐がキモだ。虹が出るかって、人に聞くようなことか?」と言った。「今日出なければ明日も来る。明日も出なければ明後日も来ればいい。それだけのことだ。」と吐き捨てるように言う。「お前は日本人か」と聞くからそうだと答えると、運転手はフン、と見下したように笑い、また私を上から下までなめるように見た。その運転手は、見るからに日系人だった。名札に、「HOSHIDA」とあった。
ホシダは、「この先の山中に滝があるから、行ってみるがいい」と言った。お前にそんな度胸はないだろうと言わんばかりである。じっさい、もう日暮れが近い。バスは一時間に一本しか来ないことも考えに入れると、この時間からうっそうとした山中に分け入るのはどうも気が引ける。折り返しの出発時間までのわずかな間だけ、周辺をぶらついて、そのままこのバスで市内に戻ったほうが賢明であると思われた。
・・・滝はまた今度にしよう。そう決めてホシダに「十分後に戻ってくる」というと、ホシダは、馬鹿にし切ったようにえらく尊大な態度でまた私を眺め、あげく傲然と「次に会うのは(十分後ではなく)一時間後だ」と言う。
日は暮れかけていたが、バスを半ば強制的に降ろされた私は、ホシダのいう、マノアの滝を目指すしかなかった。
マノアの滝を拝み、バス停に戻ってきたとき、一時間どころか、すでに二時間が経過していた。あたりはもう暗く、ホシダのバスが、ちょうどあれから2往復して街から登ってきたところだった。ホシダは休憩がてらバスを降り、携帯電話で話し込んでいる様子。私が近づくと、奴はちらっとこちらを見たが、すぐに目をそらし、電話に集中しているフリを決めこんだ。そのいかにも日本人的な仕草を見て、私は、ホシダのバスで帰る気がしなくなり、徒歩で谷を降りて行った。少し東側に、別のルートのバスが走っているはずだった。
私は迷い歩いた末、ようやく目当ての6番バスを捕まえることができた。市内のバスターミナルに戻った時は夜の9時になっていたが、私は探検から無事に帰還した誇らしさで、疲れは感じなかった。バスターミナルは、すっかり客足もひいてガランとしていたが、驚いたことに向かいの乗り場にはまたもホシダのマノア・バレー行きバスがいて、発車待ちをしていた。ホシダは、運転席に座ったまま、疲れきったようにハンドルにもたれ、ぼんやりしていた。私はニヤニヤしながらホシダのところに行き、「滝を見てきたぞ。すげえリフレッシュできた」と告げた。ホシダはさすがにちょっと目を丸くしたが、すぐにさも興味無さそうに視線を戻すと、またハンドルにもたれ、目をしょぼしょぼさせていた。
Manoa Falls, HONOLULU
Manoa Road, Manoa, HONOLULU
Alamoana Park, HONOLULU
ホノルル・シティ・ライツ
→ ハワイ島編に続く
http://club-carousel.blog.so-net.ne.jp/2009-11-01
撮影 2009年7月
本文 2009年7月(2013年5月 補訂)
本文 2009年7月(2013年5月 補訂)
2011-04-20 00:03
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