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信濃路の春(と秋) 点景 2009 [日本の町散歩(中部)]

関東に越して最初の春、私の信州通いは始まった。武蔵野の端にあった私の自宅から、バイクにまたがっていくつも山を越えていくのが面白かった。所沢から正丸峠を越えて秩父に入り、小鹿野から志賀坂峠を経て群馬県は上野村を快走したのち、険しい山道を辿ると十石峠で、そこから緩やかな下りを降りてゆくと、ようやく信州・佐久平。自宅からここまでで6時間を要したが、植生や空気が次第に変化していくのが肌で感じられる道中は、まったく弛緩することがなかった。県都長野までは、千曲川の川筋を辿るか、菅平を超えるかして、さらに2時間。時間の都合で、素直に上信越道を疾走することもあったが、この下道ルートは私のお気に入りで、何度往復したことか知らない。これらの撮影行の成果は「春の松代」「夏の須坂」「秋の小布施」等のページにまとめられているが、ここでは、それらに掲載できなかった道すがらの写真達を、落ち穂拾い的に集めてみた。

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山梨・富士山(断章) 2009 [日本の町散歩(中部)]

2008年秋に大阪から東京に転居したのち、ゼファー1100(中古)を購入した私は、少しでも春めいてくると居てもたっても居られず、セーターを幾重にも着こんでツーリングに出かけた。
関西育ちな私は、やはり富士の山容はちらっと見えただけでも感激してしまう。それがどんなに遠く小さくとも、その崇高な姿にはどうしようもなく惹きつけられてしまうのだ。
そんなわけで、富士山のチラリズムを求めて(?)、甲州を一日走ったときの記録がこのページである。いつか本格的に撮りに出ようと思いつつ、かなわぬまま現状に至ってしまったが、10年前の記録としてここに留めておきたい。

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村上 2017 [日本の町散歩(中部)]

のっけから食い物の話で恐縮だが、鮭好きにとって越後の村上は聖地のようなところである。なにしろ、100種以上の鮭の料理法が村上には伝わるというのだ。太古の昔から、晩秋になると近くを流れる三面(みおもて)川に、おびただしい数の鮭が遡上してくる。江戸時代の村上藩がこれに目を付けたところから伝統のサケ漁が成立し、今に至るまで町の一大産業で有り続けているという。
村上藩の偉いところはこれだけではない。地酒、和菓子、お茶、それから伝統工芸の「村上堆朱(ついしゅ)」・・豊富な名産品を育て上げたこの町の心意気と、それによって培われたであろう文化的雰囲気を感じてみたくて(・・いや単純に鮭料理を腹いっぱいに食べてみたくて)私は冬の初めにノコノコとこの村上にやってきたのであった。

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今庄 2018 [日本の町散歩(中部)]

今年は何度か福井方面に足を運んでいるが、その度に北陸線の車窓から見て気になっていた町があった。それが、北陸トンネルを抜けてまもなく左手車窓に現れる、今庄である。長いトンネルを抜けてきた後だからなのか、どうもこの町だけがセピア色に見える。いや、なんだか白昼夢のような、現実離れした場所のようにも見えたのだ。
越前の南端に位置し、北国街道の宿場町として栄えたというこの町に、今日は降り立ってみた。そして、驚いた。街道筋の町並みが圧巻なのは言うまでもない。飾られもせず、護られもせず、ましては作り物なんかではない本物の町並みが、ただ色褪せてそこに続いている。それだけではない。少し裏手へと足を踏み入れれば、これが現代の風景だろうかと目を疑うような路地や抜け道が、こんどは色鮮やかに、続いているのだ。これは掘り出し物だと思った。こんな山かげに、よくぞこんな魅力的な町が隠れていたものだと思う。・・・そんな私の興奮もどこ吹く風。今庄の町は、人々から忘れられるがままに、今日も眠りこけている。

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越前大野 2018 [日本の町散歩(中部)]

北陸本線の列車に乗って京都から向かっている。北陸トンネルを過ぎてしばらくすると、回りの家並みが随分と好ましいものになっていることに気付く。楚々とした、慎ましやかな家並み。無駄に主張するところがなく、こざっぱりとして清潔な印象。それでいて、どこか京、近江の家並みが持っていた優美さも受け継がれている。私の場合、それはそのまま、越前という地域全体の印象にもつながっているのだが、そんな越前の良さが凝縮された町のひとつが、この大野であろう。
九頭竜水系もずいぶんと上流にさかのぼった小さな盆地に、この町はある。山に囲まれ、400もの湧水に恵まれた水の良さが、大野という町のすがすがしさを生んでいる。水が良ければ人も良く、醬油に清酒、そば、羊羹と、名物にも事欠かない。戦国時代以来の歴史を持つ朝市が毎朝開催される町としても、全国唯一無二の存在だろう。
梅雨の明け切らない時期、目まぐるしく変わる空模様の下、この町を歩いてみた。

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三国 2018 [日本の町散歩(中部)]

三国は、歌うように風が吹く、おだやかな港町である。日本海を目の前にし、九頭竜川の河口に開けたこの街は、北前船の寄港地として越前随一、北陸屈指の繁栄を誇った。いまも九頭竜川右岸に沿って細長く3kmに渡って古い商家建築や花街跡等が続き、見ごたえがある。北側の一角を占めていた三国の花街の格式は、当時日本でも屈指と云われていたらしい。遊女達の素養の高さも世に聞こえており、書、華道、俳諧、茶の湯等に優れた者が何人もいたという。実際に江戸で女流俳人として名を残した哥川(かせん)は、出村町の妓楼出身であった。三国の商人達の教養も高かったといい、街全体がどこか文化的に豊かなものを持っていたと思われる。
三国を歩くと、ふと三味線の音が聞こえてきたり、気の利いた盆栽が並んでいたりと、ゆらゆらとそんな時代の町の気品が、今もたゆたっているように感じられるのが不思議である。

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岩村 2016 [日本の町散歩(中部)]

岩村は、中央アルプスの最南端、恵那山塊に抱かれた山の町である。名古屋からも快速電車と明知鉄道を乗り継いで1時間半で来られるという手近さだが、歴史的な町並みがしっかりと残されている上に、日本三大山城のひとつである岩村城の城跡もあり、見ごたえのある町だ。戦国期には織田信長の叔母にあたるおつやが一時城主を務めたことから「女城主の里」としても知られる岩村。いまは城壁しか残されていないが、巨大な山城はその城壁をたどるだけでも面白い。
その山城のすぐ下から、流れる落ちる川筋に沿ってなだらかな坂道が続く。その坂道は右も左も、作り物ではない江戸時代からの町並みを残し、今も静かな町民のくらしがそこで営まれている。道筋にはかつての豪商の商家も多数無料開放されているほか、造り酒屋、薬屋、家具屋など現役の老舗も数多く残る。驚くのが「カステラ」を製造販売する店が多いこと。この山合いの小さな町に、西洋渡来のカステラ屋が4軒もあり、覇を競っているのだ。江戸時代、長崎に修行に行った地元の医者がレシピを持ち帰り、町に広まったものという。時代とともに洗練が加えられた長崎のそれとは異なり、岩村のカステラは伝わったがままの素朴な味わい。それが何とも嬉しい。
観光地として決して有名ではない岩村だが、心ある旅人にとっては穴場を探り当てたような、たくさんの楽しみのある町である。

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松崎 2016 [日本の町散歩(中部)]

西伊豆の小さな港町、松崎に吹く風はとても心地が良い。三方を山に囲まれた静かな入り江、明るい漁港、美しい砂浜の海岸線。ゆるゆると流れる川辺には、昔ながらの風情を残す鄙びた路地が続いている。単なる漁師町ではなく、西伊豆地方の中心地として物資が集散した場所であり、それだけに多くの商家建築が残されているも嬉しい。この地域の特色のひとつであるいわゆる「なまこ壁」を残す建物も多く、それらを見て歩くのも楽しみのひとつ。さらに、松崎の生んだ名工、入江長八の漆喰鏝絵の数々をナマで見られるのも嬉しい。巧みに芸術性を盛り込みながらも、あくまでも実用本位の、左官としての職人芸がベースとなったその至芸こそ、松崎という素朴で伸びやかな町の性格をよく現わしているのではないかと思われる。これでもう少し、街に活気があれば云う事はないのだが・・

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栃尾 2016 [日本の町散歩(中部)]

「栃尾」という地名を聞いただけで、その名物がすぐに思いつく人は、かなりの玄人である。あなたはどうだろうか。栃尾というと・・・油揚げ! そう答えるなら、あなたはかなりのグルメか、飲ん兵衛であろう。最近は東京の居酒屋等でも一部定番メニュー化しつつあるからご存じの人もいるだろうが、栃尾にはなぜか通常の三倍はあると思われるジャンボ油揚げを供する豆腐店が沢山あって、知る人ぞ知る名物になっているのだ。私が、観光地としてはほぼ無名と思われた栃尾を訪ねたのは、この油揚げの食べ歩きを狙ってのことだったが、実は栃尾には町並み的にも日本屈指の名物をいまなお残している。それは、雁木。豪雪地帯ではかつて良く見られた、いわゆる歩道のアーケードである。青森なら「こみせ」と云ったが、信越地方では「雁木」。他の大都市ではどんどん消えているが、総延長4.3キロにも及んで残る雁木こそが、栃尾の誇る偉大なる遺産であり、少しずつ修復も進んでいる。私が栃尾を訪ねたのはあいにくの雨天の中だったが、それでもここが、実に味わい深い、興味の尽きない街であることはよく分かった。

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下諏訪 2016 [日本の町散歩(中部)]

梅雨に入り、曇りや小雨の日が続くようになると撮影に出かけようとするモチベーションも下がってしまう。かつて鎌倉の地を雨の中撮り歩いたことがあったが、どこかほかにも灰色の雲の下で映える街はないものだろうか。。そんなふうに思いあぐねて、何となく「いいんじゃないか」と予感して曇天のもと訪ねたのが、下諏訪であった。
諏訪湖畔には上諏訪と下諏訪という二つの温泉街がある。大型ホテルや温泉施設が並ぶ上諏訪と異なり、下諏訪はかつての宿場町の面影をたっぷりと残す、昔ながらの温泉街であるという。「しもすわ」という響きも落ち着いていて心地よい。そんな穏やかな町なら曇り空でも、いや曇り空だからこそ見えてくる奥ゆかしき風情があるかもしれないと期待をかけて、街をあるいてみた。

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下田 2016 [日本の町散歩(中部)]

この年になるまで、伊豆半島に足を踏み入れたことが無かった。東京から「スーパービュー踊り子」等の特急列車が頻繁に乗り入れている伊豆は、関東人の為の華やかなリゾート地、というイメージ。関西出身の私には、なんとなく敬遠されるにおいが、そこにはあったのだ。
しかし、その関東からもうすぐ離れなければならなくなった2016年の春。私はやおら伊豆に行きたくなった。まだ東京では三寒四温の日々が続く三月、私は南風に誘われて伊豆急行線に乗り、終点の下田まで来てしまった。伊豆半島の先端近くに位置する下田は、黒船に乗ったペリーが来航し、幕末開港の舞台となった、歴史の上でも重要な場所であるが、訪ねてみるとそこは、たおやかな春の風と、素朴なやさしい人情が迎えてくれる、小さくて気持ちの良い港町であった。よくよく考えれば伊豆はもう関東ではなく静岡県なのだ。

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富士吉田 2015 [日本の町散歩(中部)]

いうまでもなく、富士山は日本人の心のよりどころであるが、その表情は見る場所によって少しずつ異なるように思う。南側、静岡側から見るといつもたおやかな印象だが、北側、山梨側から見る富士は、より陰影に富み、怒っているような、苦悩しているような、どこか近づき難い、複雑な表情を感じさせる。そんな山梨側の中腹に抱かれた大きな町が、富士吉田である。
何百年の前から富士山信仰の聖地であり宿坊が連なった「上吉田」地区と、昭和の時代に織物産業で栄えた盛り場「下吉田」地区。二つの異なった個性持つ富士吉田であるが、近年大挙して富士に押し寄せる外国人集団も、この街を顧みることはあまりないのだろうか。
ようやく秋めいてきた9月終わりに訪ねてみた富士吉田の街は、ひと気もなく、斜陽の中で静かに時を刻み続けているように見えた。

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高遠 2010/2015 [日本の町散歩(中部)]

天竜川流域に沿って南北約60キロにわたり刻まれた伊那谷の、北のどんづまり。南信州の山々に抱かれた小さな城下町が、高遠(たかとお)である。戦国時代には武田対織田の激しい攻防戦の舞台ともなったその城跡の丘に、いまは春になると1500本の可憐な桜が咲き乱れる。これ見よがしなソメイヨシノがあまり好きではない向きにも、小ぶりでほのかに色づいた高遠の桜は、愛らしく映るのではないか。最近では全国区の知名度となった高遠の桜は、その名も「タカトオ・コヒガンザクラ」という固有種。今は盛りと多くの花見客で賑わう城跡の丘だけでなく、高遠の城下町や近隣の里山のそこここで、その晴れ姿を目にすることができる。

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遠州森 2014 [日本の町散歩(中部)]

天竜浜名湖鉄道は浜名湖の北岸に沿いながら、小さな列車が林や田園をめぐって走る、旅情あるローカル線。これに乗っていると途中「遠州森」という、なんとも魅力的な響きの小さな駅がある。町の名前は「森」なのだが、それだけでは町の名前としてはいささか寂しいのか、「遠州」を冠して呼ばれることも多い。太田川が山あいから出て来る小さな扇状地に、縄文の頃から昔から開けていた町。戦国時代は小さな城下町であり、近世以後は秋葉街道の宿場町となった。古着を始め物資が集まり栄えた時代もあったが、近代以降は東海道の発展からも外れ、いまは訪れる旅人も少ない静かな町である。歩いてみると、そんな悠久の時をじっと耐えてきたこの町の、時代の流れなどどこ吹く風といった矜持が感じられた。

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信濃大町 2009 [日本の町散歩(中部)]

信濃大町もまた、どことなく奥ゆかしい響きのする地名である。北アルプスの山塊に抱かれ、その美しい峰々への登山の拠点ともなったこの町には、かつて日本全国から多くの山男が集まり、賑わったそうだ。街には、山岳博物館なるものもある。私は、安曇野へのバイク旅の際、この街に宿をとった。この街の撮影が本命ではなかったので、本格的な撮影は行わなかったが、朝のわずかな時間にめぐっただけでも、こんなどん詰まりの山麓によくこれだけと思われるほど、多くの飲み屋やスナックが集まり、そのほとんどは老いてはいても現役で、いまもしっかり生きている町であると思われた。

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冬の飯山 2012/13 [日本の町散歩(中部)]

飯山へは、飯山線の小さなディーゼル列車に乗ってゆく。線路は単線でか細く、曲がりくねっていて列車の歩みは、たどたどしく遅い。
長野市内では、街はうっすら雪化粧といった程度だったのに、立ヶ花、上今井、替佐(かえさ)、蓮(はちす)と、趣深い駅をひとつひとつ過ぎるたびに、雪はどんどん深くなっていく。暖房の効いた列車の窓はみるみるうちに曇ってしまったが、ふと指でなぞって窓の外を見てみると、いまや軒をうずめるような深い雪である。
こうした日の列車は、ことに気持ちがいい。車内はぽかぽかとして、乗客はみんな上気した顔つきで眼を閉じて、列車は音もなくゆるやかに右へ左へのローリングを繰り返している。

長野駅から50分ほどで、小さな飯山の駅に到着。乗客のほとんどがここで降りた。

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早朝の愛宕町


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別所温泉 2012 [日本の町散歩(中部)]

「信州の鎌倉」と聞けば、行かずにはいられない。
上田市の南に開けた塩田平の奥、三才山地の山麓に抱かれて点在する古刹、
そしてその奥に、枕草子にも登場するという、由緒正しい別所温泉がある。

旅館街が大湯付近と北向観音近くの二か所に分かれてしまっているからか、
温泉街らしい場所は、北向観音前のわずか数百メールだけという寂しさ。
カラコロと下駄を鳴らして湯の街を散歩するというわけにはいかない。

しかし、泉質は素人の私でもわかるほどの良さ。
じっくりと極上の湯を堪能し、ぐっすり寝て起きた秋の朝、それでも宿を出て散策してみると、
そこには決して飾ることのない、古き良き日本の山里の姿があった。

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由比 2010 [日本の町散歩(中部)]

東海道は東から数えて16番目の宿場町、由比。
いまも旧東海道沿いに本陣跡等が残っているが、海と山に挟まれている地形のせいか
宿場町としては規模は小さめで、そのぶん東西に長く、古い町並みが残されている。

由比の駅は、旧本陣からかなり離れた町の西の端にあるが、そのぶん漁港は近い。
すぐ後ろに山並みが迫る中、のんびりしたホームにはかすかに潮の香りが届いて、
その感じから、関西にいたころ大好きだった、遠い尾道の町を思い出したりする。

いまの由比は、桜えび漁で名高く、春にはそのお祭りがある。
訪れる人も、少しずつ増えているそうだ。
私もまた桜えびのランチを求め、駅から本陣方面へと旧街道を歩いてみた。

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由比漁港近くにて


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秋の小諸 2009 [日本の町散歩(中部)]

 小諸なる古城のほとり
 雲白く遊子悲しむ  ・・・・

言うまでもなく、島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の冒頭である。
恥ずかしながら、私が知っているのはこの一節にすぎないが、それだけでも、まだ見ぬ小諸という街への旅ごころを掻き立てるには十分である。
小諸、こもろ、・・なんと優しく、愛らしい響きの街だろうか。
北国街道の宿場町であり、小諸藩の拠点でもあった街。
若き島崎藤村が、初めての家庭を持ち、生涯で最も幸せな時期を生きた街。
いまでも古城が残り、眼下に千曲川を見下ろす、静かな高原の街。

かつて信越本線が通り、東京からの多くの特急列車が停車した小諸も、
いまはローカル電車が時折やってくるだけ。小諸はずいぶん静かになったという。

藤村の「千曲川のスケッチ」を手に、そのローカル電車で小諸を訪ねよう。

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懐古園の画家


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早春の安曇野 2009 [日本の町散歩(中部)]

東京に越してから、人生で二代目となるバイクを購入した。ワインレッドのゼファー1100。初のリッターバイクである。冬の間、遠出もせず都内をちょこまかと転がしてはいたものの、せっかくの大型なのに・・とストレスが溜まる一方。そんなこんなで、暦だけは春となった3月初め、待ちきれない思いでゼファー初の遠出を決行した。
目的地に決めたのは、北アルプスを望む安曇野の地。初めての旅先である。
都内でもまだまだ肌寒い時期に、深夜中央道を飛ばすのは思った以上に過酷であった。諏訪SAで温度計を見ると氷点下一度。走行中の体感温度は一体何度になるのだろうか。鼻水は凍りつき、手足の感覚は麻痺し、意識がもうろうとなる。必死の思いで到着した宿では、ぶるぶる震えながら、一時間も風呂に浸かっていた。

・・・翌朝、部屋のカーテンを開けると快晴の空。まだ雪を頂いた北アルプスの峰々は美しかった。眠気は飛び、背筋が伸びる。おもむろに窓を開け、どこからともなく聞こえる清冽なせせらぎの音を耳にした時、ここまで飛ばしてきた甲斐があったと思った。

所詮はバイクに跨ったまま、駆け足で巡った安曇野。王道の観光地ばかりで大した写真はないが、ひとまず掲載してみようと思う。

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大王わさび農場

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松代駅へのオマージュ ~駅の、ものがたり [日本の町散歩(中部)]

2012年3月31日。90年の間営業し続けてきた長野電鉄の松代駅が、その歴史に幕を閉じた。ここを通っていた長野電鉄の「屋代線」が、廃線になったからである。

昼間は一時間に一本すら電車が来ない超ローカル線の駅。長野市内まで出るにも時間も費用もかかる。長野市内への道路が整備され、バスも30分おきに走っている今となっては、地元の人ももはや駅をあまり利用しないという。だから、通学の中学生と高校生達、病院通いのお婆さん、そしてわずかな観光客・・そうした人たちがこの駅の利用者であった。

だが、その駅は、もの言わぬ昭和の語り部でもあった。いかにも古めかしくはあったが、歴史の町、松代の玄関と呼ぶにふさわしい風格と、風雪を耐え忍んできた者だけがもつ、厳しさと、あの優しさのある駅だった。

数少ない利用客、それでも一日600人(2005年データ)が乗り降りした松代駅。戦時中、松代大本営ができていれば、首都の玄関になっていたかもしれない歴史を秘めたこの駅。その名残りのだだっ広い敷地をそのままに、高度成長の波に乗ることを拒み、時代の移り変わりの中で自動車に主役をゆずり、長かった昭和時代の、人々の記憶をそこここに残したまま、駅は静かに眠りについた。

本稿では、駅がまだ営業していた最晩年の様子を、写真で偲びたい。

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冬の渋(湯田中・渋温泉郷) [日本の町散歩(中部)]

20代の頃、温泉にハマっている友人がいた。彼は箱根や伊豆などの温泉地で鄙びた宿を探しては泊まっていたが、温泉などジジイが行くものだと思っていた私は、ほとんど興味が湧かなかった。

そんな私も、子供からオジサンと呼ばれる年頃にさしかかり、温泉というものも、たまには良いのではないかと思うようになってきた。
泉質やら効能やら、湯そのものについて蘊蓄を語る資格など私にはない。ただ、「湯の町」いう言葉の響きに惹かれ、私も、下駄を履き、浴衣の襟を正して、古き良き、正しい日本のオッサンとしてまっとうな道を歩むのもよかろうという気がしているだけだ。

そんなこんなで、冬のある日、長野県の渋温泉を訪ねた。
志賀高原の山麓に9つもの外湯を宿し、昔ながらの温泉情緒を残した小さな渋温泉の街歩きである。

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秋の小布施 [日本の町散歩(中部)]

人口1万人ちょっとの小布施町は、行政区画上では長野県で最も小さい町だそうだが、いまや年間100万人もの人が押し寄せる観光地。「町おこし」の成功例としてよく取り上げられる場所でもある。

実は私はひょんなことで1990年ごろから小布施の名を知っていたのだが、当時はまだ町おこしが始まったばかりの頃で、北斎の美術館があり栗が名産ということくらいしか情報がなく、あらためて訪ねてみる機会もなかった。しかし、最近になって書店の観光ガイドの棚にふと目をやり、「小布施」の名前がタイトルに入っているものが多いことにすっかり驚いてしまった。北信濃地区のガイドブックの背表紙には軒並み小布施の名が踊り、中には「小布施・長野」と、県都長野市さえも差し置いて上位にその名が冠されているものまである。

たかが10年そこそこでこの成果。私は小さな驚きと、決して小さくない期待を胸に、慌ててバイクに飛び乗り、訪ねてみた。

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小布施町小布施(新生病院)

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夏の須坂 [日本の町散歩(中部)]

須坂は北信濃地区でも人口5万を超える大きめの町である。
明治期には繭の集散地として養蚕業で栄え、
一躍北信濃随一の商業都市として賑わいを見せたそうだ。
日本の製糸産業が衰退して久しい今、須坂の町はとても静かで、人の姿も車の数もまばら。
観光地としても、隣町の小布施の景気とは程遠いのどかさだ。
それでも老舗の呉服屋をはじめ、数多くある酒蔵や味噌蔵はどれも健在で、
伝統的な技と意匠を生かした新しいお店もまた少しずつ増えてきている。

静かではあるが、侘しさはこれっぽっちもなく、
どこか堂々として落ち着いて、貫禄さえ感じさせるこの町の散策は気持ちがいい。
女性的でこまやかな造作が美しい小布施とはまた違った、
もっと気ままで、もの言わず鷹揚とした「男の魅力」に包まれた須坂の夏を堪能した。

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田中本家博物館

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春の松代 [日本の町散歩(中部)]

北信濃は千曲川のほとりに位置する松代は、武田信玄が山本勘助に命じ築かせた海津城(松代城)の城下町である。江戸時代には真田氏が入場し、十万石を有する雄藩の中心地として、有名な「真田文武学校」なども置かれ栄えた。

いまの松代は、長野市に編入され、あまり観光ガイドなどにも取り上げられることの少ない、静かな目立たない町である。しかし、今でも武家屋敷、町屋、寺町などが残り、十分に往時を偲ぶことができるだけでなく、かつて武家の町として君臨してきた誇りと、質素倹約、文武両道を旨として藩政を行った真田一族の思いが、今もそこここに感じられ、歩けば自然と背筋が伸びる。

華美を排した質実剛健な家並み。由緒正しき門構えのその脇から、控えめに見え隠れする四季の花々の奥ゆかしさ。町の外に広がる豊かな里山のいきいきとした美しさ。観光客に積極的に挨拶してくれる地元の学生たち。寺社も多く、目的なしにぶらぶらと歩いて、ただの田舎町ではないこの町の歴史の断層を垣間見るのは楽しい。

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本誓寺(寺町)

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郡上八幡 2007 [日本の町散歩(中部)]

郡上八幡は、日本の宝である。

渓流に沿って谷間に開けたこの小さな城下町の隅々にまで、古き良き日本の美しい生活意識がいまも息づいている。
町の中心にある橋の上から渓流に飛び込む猛者どもが時々TV等でも紹介されることから、ご存じの方も少なくないだろう。

この小さな町に、400年続く真夏の伝統行事がある。三日三晩、夜を徹して民衆が踊り続ける「郡上踊り」である。この徹夜の盆踊りに、なんと毎年25万人が参加するという。

どうにも信じられなくて、ある夏、私も行ってみた。
以下は、そこで出会ったこの清々しい町の風景たちである。

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