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東京<荒木町> 2016 [日本の町散歩(関東)]

東京はその茫漠とした平野の谷間に、様々な個性を持った魅力的な街々を、幾つも幾つも隠しているが、荒木町もそんな街のひとつである。駅で言うと丸ノ内線の四谷三丁目と、都営新宿線の曙橋との間に挟まれた一帯であり、地形的には、すり鉢状の窪地になっている。そのすり鉢の底にあった池の周りにその昔、茶店が立ち並び、芸者や風流人らが集ったことが街の起こりだというが、その花街としての歴史は、戦争をはさんで昭和40年代まで連綿と続いていたらしい。だがその後、さびれた。
いま、荒木町は飲み屋街として再び脚光を集めている。街のそこかしこに、花街だった時代の色香が残っているのが面白い。集まっている店や人も、どれもひと癖ありそうなのばかりで、いまも呑み助にはたまらない街である。そして、すり鉢の底の池も、まだある。ずいぶん小さくなったとはいうが、いまもマンションやネオンに囲まれてひっそりとその水面を揺らしている。

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小湊鉄道 春の沿線 2016 [日本の町散歩(関東)]

「10年ひと昔」という言葉が死語になるくらい、高度情報化による今の環境変化は目まぐるしい。パソコンが生まれ、スマホが生まれ、いまやグーグルとアマゾンで何でもできてしまう。しかし、この小湊鉄道の古びた列車に揺られていると、そうした出来事は全て夢の中の出来事で、本当は、何十年も前から、我々の暮らしというのは昭和の頃から何ひとつ変わっていないのではないかという気がしてくる。おそらく、それもまた本当なのだろう。
窓外を流れていく沿線の景色も、おそらくかつてとそう変わってはいない。それと同じように、道を歩く人の心も、本当はそう変わってはいないのだと思う。菜の花でうずまった、穏やかな春の上総地方。悠久の時空を旅しながら、変わりゆくものと、変わらないものとに思いを馳せることができるのが、小湊鉄道の最大の魅力である。

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東急多摩田園都市 2007-15 [日本の町散歩(関東)]

東急多摩田園都市は、文字通り東急グループという民間資本が主体となって開発した城南地区一帯のニュータウンのことであり、現在の東急田園都市線の沿線のうち、梶ヶ谷駅より西を指す。もとよりそれは高度成長期生まれの典型的郊外住宅地であり、歴史的景観も街としてのまとまりもなく、ハワード的な思想ともかけ離れた出来そこないの“田園都市”であったわけだが、それでも次第に「田園都市ライフ」「田園都市マダム」等と言われる確固たる沿線イメージを生み出した。
たとえそれが当初はフィクションであったとしても、「他のニュータウンとはちょっと違う」というひとつのプライドとして住民の間で共有され、ライフスタイルにまで影響を与えた点は特筆されるべきで、イメージは波及し再生産されていく。そうして「フィクション」がどんどん自動的に上書きされ、独り歩きするようになってくると、もはやそれはつくりものではないひとつの文化圏の誕生といっていいように思う。
いまや50万を超える人口を抱えるに至ったこの地域の姿は、ともあれ日本固有とも言われる電鉄的経営思想の一つの集大成であることには間違いない。私は自身も関西の郊外住宅地育ちであることから、この地域のありようには以前から関心を寄せてきたし、実際に3年ほど住んだこともある。現在、郊外住宅地というものが曲がり角にあると言われるなか、改めて数度にわたり撮り歩いてみた。

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真壁 2016 [日本の町散歩(関東)]

真壁は、筑波山のふもとに位置する在郷町である。古くは平安から鎌倉、戦国時代にかけてこの地を支配した真壁氏の城があったとされ、その後も江戸期から明治、大正にかけて、周辺地域の物資の集散地として栄えた。江戸時代の古い町割りがそのまま残っているだけでなく、江戸期建造の書店、明治期の店蔵(醬油店)、大正時代の菓子店、そして昭和初期の洋館建築(郵便局)等、それぞれの時代を語る建物があちこちに散らばっている真壁の街歩きは、モザイク模様をみるような面白さがある。平成23年建築の「真壁伝承館」を我らが平成時代の代表選手として加えても良いだろう。
残念なことに現在の真壁には、鉄道はおろかバスすらも通っておらず、そのせいか知名度の上でもいまひとつだが、関東圏には珍しく、比較的小さい範囲にしっかりと街がまとまっており、前述したような古い老舗がいまだ現役で街のそこここに息づいている点は特筆されるべきことである。広域合併により桜川市が誕生して早10年。バス再開に向けた検証もスタートしたといい、真壁の街は静かに再生の時を待っている。

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井の頭線 ~アジサイの頃 2011 [日本の町散歩(関東)]

一般的な郊外電車の中で、京王井の頭線ほど個性をしっかり持ち、沿線住民からマスコット的な愛着を持たれている路線も少ないだろう。距離が短く、どことも相互直通をしていないことが、逆に路線の個性を際立てせているし、電車のカラーが七色(七種類ある)というのもカワイイではないか。
そんな井の頭線の特徴のひとつが、なぜか沿線にやたらとアジサイが多く植えられていること。梅雨のころになると、それこそ曇り空の中、多種多様の色のアジサイが線路わきに咲き乱れており、電車のステンレス+パステル調のカラーリングと妙にマッチして楽しいのだ。
私個人にとっても、大学キャンパスが沿線にあったため、井の頭線は青春の大切な記憶と分かち難く結びついている。追憶も込めて一度きちんと撮影しておこうと思っていたが、結局一度、出掛けたきりで中途半端になってしまった。

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東京~都電とその周辺(西ヶ原、庚申塚、向原、雑司ヶ谷) 2013 [日本の町散歩(関東)]

ヒューマンサイズの乗り物がある街はいい。そこは人が下駄履きでうろうろできる街だからだ。自分の家と、街と、それらを結び合わせる乗り物との間に境界がない、あるいは境界があいまいであるというのは、人と街とが同じ息づかいをしているということだろう。すなわち、住みよい街、すぐれた街ということになる。
東京でも、都電荒川線の走っているエリアでは、人々はとりわけ等身大の暮らしをしているように思える。今回は、どちらかというと都電そのものにフォーカスを当てているが、近いうちにそうした街の息ぶきを、改めてとらえてみたいと思う。
なお、向原から鬼子母神前にかけては、こうした街と人と、そして都電の関係を、すべてぶちこわそうとする工事が、残念ながら、他ならぬ東京都によって進められている。

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東京<椎名町> 2010~2016 [日本の町散歩(関東)]

わが街、椎名町。2010年からここに住み始めてかれこれ7年になる。自慢じゃないが、私はかれこれ20回程度引っ越しをし、それと同じ数だけの街に住んできた。どの街も捨てがたい、その街ならではの良さがあったがしかし、椎名町ほど私の肌によくなじみ、住んでいて飽きの来ない街は初めてである。2013年に私は縁あって結婚したが、結婚してからもこの街を離れることができず、やっぱり住んでいる。ありがたいことに、嫁もこの街を気に入ってくれている。
西武線に乗って池袋からわずかひと駅。サンシャインやメトロポリタンを間近に感じながらも、ここは一転、古アパートが並ぶ、普段着にサンダル履きの下町である。かといって台東、江東の下町のような江戸っ子気質的な狭量な雰囲気もなければ、板橋の下町のような不良少年的チャキチャキさもない。都心近くにありながら、若者が多いわけでもなく、至って特徴のない日々つつがない日常が当たり前のように繰り返されるだけの穏やかなこの街は、だからこそ離れがたく、もはや自分の体の一部のようにも感じられるほどに、何気ないのである。

だが何事にも終わりがある。2016年、ついにこの街を離れなければならない時がきた。これを機に、今まで少しずつ撮って来た自宅周辺の町並み写真を、ここでほぼ撮影時期順にまとめておきたいと思う。

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東京<目白> 2016 [日本の町散歩(関東)]

目白は隣町である。東京には都心を少し離れたところにセレブタウンがいくつかあるが、駅前に学習院がある目白もその一つ。通りにはチェーン店も増えてきたが、それとなく洒落た店も点在する。肩肘はったところやトンがったところがないのが目白の魅力。良くも悪くも、大人の街である。
私は椎名町での下町生活を愛しているが、たまにはハイ・ブロウな風に吹かれてみたくなる。そんな時は、眼と鼻の先にある目白界隈をうろつくことにしている。29ある山手線の駅の中で、他の線との接続や乗り換えがないのは新大久保、鴬谷と、この目白だけ。基本的には地元民の為の街であるということが、必要以上の背伸びをしない、落ち着きを街に与えているのであろう。

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太海 / 和田浦 2016 [日本の町散歩(関東)]

房総は東京という地球有数のメガトンシティーに隣接する地域だけに、ワイキキのような巨大ホテルが立ち並ぶ都会派リゾート地帯なのであろうと勝手に想像していた。だから、実際の房総がこんなにも、寂しいくらいに鄙びているのを目にして私はすっかり魅了されてしまい、もっといくつも海辺の町を訪ねてみたくなった。

そんな私が千倉の次に選んだのが、太海と和田(和田浦)という小さな二つの町。いずれも館山と安房鴨川の二つの大きな町の間に挟まれた、交通の便のあまり良くないあたりにある。太海は、安房鴨川からひと駅西に行っただけなのにがらりと雰囲気が変わり、素のままの、ある意味隔絶された海のくらしが垣間見える、別天地のような場所だ。和田浦は今でも捕鯨が行われている数少ない基地(全国で5か所だそうだ)のひとつ。町ではもちろん鯨料理が名物だ。

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千倉 2016 [日本の町散歩(関東)]

東京に住んでいて、ふらりと海を見たくなったらまず鎌倉や葉山や湘南に行く。明らかに都会の延長にあるそんな海が鼻につくような時は、三浦半島の先のほうに逃げたりするし、伊豆だって悪くない。でも、それでも癒されない、もっと素のままの海と風とに相対したい。そんな時は房総が良い。千倉は、房総半島の南端近くにある海辺の町。房総はさすがに広く、ここまで来るには東京から2時間以上。花畑の丘に囲まれ、ぽかぽかと暖かな薫風の中、どこまでも続いていく穏やかな海岸線、漁港、鄙びた町並み。それでもかすかに感じる、嫌みのない都会の香りが千倉の良さだ。
道はもちろん海に近く、ずっと南へ続いている。さわやかな青空に恵まれた春の午後、駅で借りた自転車で、どこまでも走ってゆく。

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結城 2015 [日本の町散歩(関東)]

結城という町の名前は、小学校のころから知っていた。今でも小学生たちは「結城紬」を学ぶのだろうか。日本の重要文化財である、伝統工芸品の最高級絹織物。それがどんなものかは知らなくても、「ゆうきつむぎ」という語感の美しさは大人になった今も覚えている。そして今回、ふらりとその結城という町にやって来た。
思いのほか沢山の店蔵が健在で、関東圏の町としてはちょっと意外なくらいに味わい深い町並みが残っている。そして大切なことは、そんな町並みが現役の「町」として今もきちんと機能していて、いきいきしたものが感じられることである。数は減ったとはいえ、結城には今も紬の工房や問屋がいくつも残っていて、それがこの町を産業的にも精神的にも、いまだしっかりと自立せしめているように思われた。

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益子 2015 [日本の町散歩(関東)]

益子焼の美しさは、土に根差した素朴さの中に、用の美を含んでいることであろう。特別な器ではなく、いつもの日常生活に、土と人肌のぬくもりを伝えてくれる器の数々は、洗練という点からは私の好みと少し違うのだけれど、つい今夜もこれで、と気安く手を伸ばしたくなる人懐っこい魅力があり、我が家の食卓に登場する頻度は最も高い。
そんな益子焼のふるさとをふと訪ねてみたくなった。東京から電車を乗り継いで1時間少々、真岡鉄道というローカル鉄道に揺られて案外あっさりと益子駅に到着である。

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常陸太田 2015/16 [日本の町散歩(関東)]

○○ヶ丘、といえば大抵、ニュータウンにつきものの地名だが、常陸の国の「鯨ヶ丘(くじらがおか)」は、悠久の歴史にその名を刻む、由緒正しき地名である。何といっても4世紀ごろ、日本武尊が東夷征伐のためにこの地を巡った際、丘陵の起伏があたかも鯨が洋上に浮遊している状に似ているとして「久自」と名付けたそうだが、それが転じてこの地域は「久慈」となり、丘はいつしか「鯨ヶ丘」と呼ばれるようになったという。
鯨の背中に似たこの丘に、戦国時代以降、佐竹氏によって太田城が築かれ、城下町も造られて丘の上はたいそう賑わったらしい。江戸時代には水戸藩領となり、町はますます栄えた。丘の周辺はこぼれんばかりの稲穂が実る豊かな穀倉地帯となり、その美しい風景は水戸八景の「太田落雁」として称えられた。その城下のはずれではまた、引退した徳川光圀(水戸黄門)が質素な隠居生活を送った。
そんな鯨ヶ丘も、いまは過疎化が進み、ずいぶん静かになったとか。夏も盛りを迎えようとする頃、舗道に濃い影を落としながら、私は丘をめぐってそんな歴史の残照を訪ね歩いた。

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久留里 2015 [日本の町散歩(関東)]

久留里は上総地方の内陸にある小さな町。旅行ガイドを見ても、はたまた「ちいさな街紀行」などという書物を見ても、ここが出てくることは少ないが、何といってもその名を「久留里線」という鉄道路線が木更津から通っている。鉄道がわざわざそこを目的として敷かれたということは、当時それだけの賑わいのあった街ということではないか。そう思った私は、梅雨の明けた夏の一日、久留里線に乗って町を訪ねてみた。
山城のふもとに開かれた街は、いまは鄙びて歩く人も少ないが、よく風が通って清々しい。黒田氏三万石の城下町ということで、山の上の城までは足を延ばせなかったが、山麓の武家屋敷街であった通りなども雰囲気がある。そして、久留里の最大の魅力は、街の至るところで、ほのかに甘い地下水がこんこんと湧き出ていることだ。町中になんと200か所以上の井戸があるそうで、確かに歩いていると数百メートルごとに湧水の水桶やタンクに行きあたると言っても過言ではない。味は場所によって少しずつ違い、飲み比べも楽しい。まさに久留里は「生きた水の里」である。

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足利 2015 [日本の町散歩(関東)]

足利もまた、機どころとして栄えた街。
桐生がそうであるように、建物や店構えの独特のセンスの良さは織物の町ならでは。しかしそれ以上に足利は、清流と緑と、史跡の街という印象も強く、ゆうゆうとした印象がある。
清流はもちろん、街のすぐ脇をとうとうと流れる渡良瀬川の清冽な流れ。そして緑は足利学校や鑁阿(ばんな)寺を埋めるように取り囲む木々の緑である。
足利の歴史は桐生よりずっと古く、平安時代にまで遡ることができる(これに対し、桐生は近世に一種の計画都市として造られた街という)。足利氏の発祥の地であることは言うまでもなく、中世においては最高学府である足利学校を擁する学園都市として、関東一円から有能な人材を集めた。
今以て足利の街が自由で伸びやかな雰囲気を保っているのは、こうした歴史的経緯によるものかもしれない。

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桐生 2015-16 (2)市街周縁 ~ノコギリ屋根をめぐる [日本の町散歩(関東)]

さて、桐生というと織物工場。桐生の織物工場の特徴といえば、何といっても「ノコギリ屋根」である。
工場そのものが木造であれ、レンガ造りや大谷石造りであれ、はたまた鉄筋コンクリート造りであれ、その屋根はどれもノコギリの刃のようにギザギザの形状をしている。その目的は手織物の諸作業に欠かせない均一な採光を得ることで、主に直射日光の入らない北側に多くの窓を設けるための、構造上の工夫であった。
明治期以降市内のあちこちにノコギリ屋根の工場が出来たそうだ。桐生の織物は基本的に多品種少量生産であり、それぞれの工場の規模は小さいが、それゆえにいまも200棟以上が残存しているという。飲食店やギャラリー等に再利用されているものが多いが、現役の織物工場として操業を続けているところもある。
明治以来の産業遺産ともいえるこうした小さなノコギリ屋根の工場は、外から見ているだけでも何やら愛らしい感じがして、あれこれ見て回りたくなる。街の周縁部に点在しているため、駅でレンタサイクルを借りてめぐるのが最上の方法であろう。

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桐生 2015-16 (1) [日本の町散歩(関東)]

桐生という街の気持ち良さは、いったいどこから来るものだろうか。
赤城山から吹き下りてくるさわやかな風によるものか、はたまた江戸期以来の織物産業の都としての誇りと洗練がもたらすものか。
江戸期からの伝統的な建物が多く残る本町1・2丁目(伝建地区)だけでなく、ビルが並ぶ大通りも、うらぶれた歓楽街跡さえも、桐生という街はなぜか歩いてすがすがしい気分させてくれるところである。ほどほどに大きく、近代化された街には、かつての栄華の名残でもある瀟洒な建物も多く、全体的にどことなく垢抜けた感じがして、田舎町とは呼ばせない雰囲気があるのだ。
全国的に織物産業が斜陽化して久しいが、ここ桐生では、現役で操業を続ける織物工場がまだいくつも点在するのも嬉しい。少し町はずれに行くと、昔ながらのノコギリ屋根の工場から「カタタン、カタタン、・・・」とどこか懐かしい機織りの音が聞こえてくる。
ひもかわやソースかつ丼といった名物も多く、まことに愉しい桐生の街歩きである。

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栃木 2014-15 [日本の町散歩(関東)]

栃木県の県庁所在地は宇都宮市であるが、別に栃木市というのもある。
1884年まで、栃木県庁はその名の通り、この栃木市に置かれていた。市内の人々に聞くと、「○○のせいで宇都宮に県庁を持って行かれたんだよ・・」(理由は人によって諸説ある)と、現在でも悔しがる人が多いのが面白い。町を歩けばその理由が分かる。
天皇家や朝廷の使者が日光参拝の際に通った「例幣使街道」が町を貫き、傍らを流れる巴波(うずま)川の河岸にはかつて各地からの物資が集散し大いに賑わった。そんな由緒正しき商都の民としての誇り高き思いが、いまもこの街にはふつふつと受け継がれている。
だからこそ、これほどまでに江戸から明治にかけての蔵や商家が多く街に残されているし、カメラ片手に町を歩けば、様々な人が街の歴史を語ってくれる。

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銚子(外川) 2014 [日本の町散歩(関東)]

銚子は関東地方、房総半島の最東端に位置し、利根川の河口にも面した言わずと知れた全国屈指の漁業の町である。だが、漁業の町として急速に発展を遂げるのは近代以降のことであり、もともとは飯沼観音を中心に、その門前町として発展してきたのだという。
その銚子の市街地から犬吠崎をかすめながらトコトコ走る銚子電鉄の電車に揺られること、20分。広く太平洋に面した高台にある「とかわ」というその終着駅が、今回の目的地である。海に向かって斜面を下りてゆくと、都市化、近代化した銚子の町とは異なる、何ともいい雰囲気の小さな漁師町がそこに広がっていた。

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三崎 2014 [日本の町散歩(関東)]

三崎は、神奈川県三浦半島の南端に位置する漁業の町。とくに日本人の大好きなマグロの水揚げ基地として知られ、1950年代から60年代の黄金期には、全国のマグロ漁船の半数が三崎に水揚げしていたという。名実ともに遠洋漁業の中心地であり、当時は海の男たちが大挙して商店街や夜の街を闊歩したそうだ。
しかしその後、徐々に三崎の水揚げは落ち、現在の漁獲量は最盛期の4割程度にすぎない。街はすっかりさびれてしまった。商店は軒並みシャッターを下ろし、通りを歩いても出会うのは猫ばかり。だが、大海原に続く青い入り江と飛び交うカモメ、小高い丘に降り注ぐうららかな陽の光は、今も変わらない。
そして、あくびが出るくらいに静かなこの三崎の街を、ただのんびりと、気の向くままに歩く人が、いま少しずつ増えている。

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下仁田 2013 [日本の町散歩(関東)]

二度目の下仁田は冬の日であった。抜けるような冬晴れの空の下、町にはやはりひと気はなく、かつての目抜き通りも時間が止まったかのよう。今も残る木造の古い建物の入口のガラス戸には「撞球場」とある。2Fの窓辺の木の欄干の様子は、まるで旅籠か遊郭か。階下でビリヤードに興じ、ゲームに飽きがくれば勝者は女の手を引いて、上階へとしけ込んだに違いない。
この狭い通りが、そんな庶民の嬌声に沸き立った時代があったのだ。そんなに昔のことではなかったはずである。

そんな町の記憶が、あちらこちらに封じこまれて眠っているかのような下仁田の町。しかしその場所も、その記憶もまた少しずつ、だが確実に朽ちてゆくのだ。

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中央通りの風情

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佐倉 2013 [日本の町散歩(関東)]

佐倉がこんなに歩いて楽しい場所だとは全然知らなかった。駅前にはビルやマンションが並び、何の変哲もない首都圏の郊外都市であると思っていた。しかし佐倉とは、実は江戸期から続く城下町であり成田街道筋の宿場町であった。
京成佐倉駅の南側に大きな丘がみえる。ほんとうの佐倉の街はこの丘の上に開けた小さな台地にある。台地の西半分は城跡であり、東半分が旧城下町。歴史的な建物がそれほど多く残っているわけではないが、佐倉が歩いて楽しいのは、台地上にある町や城へと、丘の下から登り降りするために、奇跡のような抜け道が無数に残されているからである。寺院や武家屋敷もいくつか残り、かつて武士の街であった質実剛健な雰囲気のなか、緑に囲まれたそれらの細い坂道を、上へ下へと逍遥しながらあてもなく台地をめぐる楽しみは、鎌倉とその周辺を歩くにも似て、それに勝るとも劣らない程の魅力を、人知れずたたえている。

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東京(椎名町) 2008 [日本の町散歩(関東)]

商業施設の並ぶ大ターミナル、池袋から私鉄電車でわずかひと駅。椎名町というのは、地域の名称としてはマイナーであるが、「トキワ荘のあった町」として知る人ぞ知る場所である。
トキワ荘というのは、昭和20年代後半から30年代にかけて、駆け出しの若い漫画家たちが集まって住み、青春を謳歌した安アパートであり、豊島区南長崎3丁目(当時は椎名町5丁目)に昭和57年まで現存した。
最初に住んだのは大阪から上京したばかりの手塚治虫であり、やや遅れて新潟から寺田ヒロオが入った。手塚治虫は当時すでに人気漫画家であり、彼を慕う10代から20代の若い漫画家のタマゴたちが、このアパートに出入りするようになり、次第に住みついて漫画を競作するようになった。その顔触れは、藤子不二夫、石森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一等で、そのほとんどが後に漫画家やアニメーターとして大成したことで知られている。やや年長であった寺田ヒロオは、自身の創作を続ける傍ら、兄貴分として彼らを励まし、時には叱り、彼らの成長を支えたという。

なんと素晴らしい青春群像のエピソードではないか。かねてから非常に興味を持っていた私は、東京に転勤となった2008年、さっそく椎名町駅に降り立ち、トキワ荘の面影を追い求めて、いまも安アパートが立ち並ぶこの界隈を散策してみた。

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東京(代官山、他) 2007 [日本の町散歩(関東)]

2006年、家電大手のパナソニックがいきなりデジタル一眼レフ市場に参入し、最初に発売したのが「LUMIX DMC-L1」であった。カメラメーカーではない家電屋がつくったデジイチなど・・という下馬評はあったが、強気の価格設定でライカのレンズを着けて鳴り物入りで登場し、量販店などでは高級感溢れるディスプレイでいかにも高嶺の花です的な存在感を造り出していた。
かねてから「デジタルカメラの画質などフィルムの足元にも及ばない」と抵抗のあった私だが、L1のパンフレットを見て初めて、その画質の空気感のようなものに魅せられた。そして、カメラそのものの本体を見て一目ぼれした私は、当時20万円程度したそのカメラを購入してしまったのである。
そのL1を手にして初めての試し撮りに、2007年秋、私は出張先の東京・代官山の街を選んだ。その成果が以下である。

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東京 1995-2000 [日本の町散歩(関東)]

多感な大学時代を過ごした街、東京。
それはもう、恥ずかしくなるくらいによく動き、よく遊び、よく悩んだ青春の日々。
女性の影こそ薄かったが、よき友人たちに囲まれ、夢、志、ビジョン・・
・・もったいないくらいに多くのものを得た日々。
(のちに、そんなものは社会の中では屁の突っ張りにもならないと思い知らされるのだが)

大学の授業には、少ししか出なかった。
そして、写真も少ししか撮らなかったことが、今となっては悔やまれる。
それでも、いくつかの街の写真が残っている。
そこにはやはり若かった私の、行くあて定まらぬさすらいの跡と、根拠のない自信の跡とが、
いくらかなりとも映し出されているように思う。

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港区白金台 2000年11月

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烏山(那須烏山) 2013 [日本の町散歩(関東)]

那珂川は、北関東の屋根である那須高原に源流を発し、栃木県、茨城県を貫流、那珂湊の町をかすめて太平洋に注ぐ、関東屈指の一級河川である。
その那珂川が、那須高原を流れ出て、上流から中流へと変化を遂げる山合いの段丘の上に、烏山の町はある。
毎年7月に行われる盛大な野外歌舞伎「山上げ祭」(重要無形文化財)のほかは、清流に仕掛けられた「やな」で獲れる川魚料理が名物という、静かでつつましい町。

「山上げ祭」の余韻も薄れ、夏から秋に変わるころ、町を訪ねてみた。

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那珂湊 2013 [日本の町散歩(関東)]

私が小学生の頃、当時のNHK教育テレビに「たんけんぼくのまち」という番組があった。主人公のお兄さんが、ある地方の町にふらりとやってきて住み込みで働きながら、町の様々な場所を、自転車に乗って探検して周り、手作りの地図を作ってゆくいうもの。クラスでも人気の番組で、担任にせがんで欠かさず見ていたものである。

そのお兄さんが住み、探検して回るその町が「なかみなと」という名であったことは今でも鮮明に覚えている。
思えば、物心つくかつかないかの私に、町歩きの楽しさを教えてくれたのは、思えばその番組だったと思う。取り立てて観光地というわけでも、有名な町というわけでもなく、もちろん大都市ではない。
ちょうど私たちが住んでいた町と同じような、どこにでもあるような町にこそ、探検の楽しさがあるのだと、その番組は私たちに教えてくれたのである。
そんなありふれた、何の変哲もない町としておそらく選ばれたのであろう那珂湊の町に、私はふと行ってみたくなった。

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佐原 2013 [日本の町散歩(関東)]

利根川のほとりに位置し、江戸時代の昔から、利根川舟運の中継地として栄えた佐原には、今も当時を偲ばせる古い町並みが残っている。市内を流れる小野川(利根川の小さな支流)に沿ったエリアはとくに有名で、ここを歩くと、河岸として賑わった往時の有り様が目に浮かぶし、香取街道沿いにも古い商家が数多く残っているのがみられる。
だが、佐原の特徴は、こうしたかつての古い町並みが、今のそのまま生きていると感じられることである。公の手によってテーマパークのように並べたてられたり、入り込んできた若い人たちによって修復再利用されているのでもなく、書店は書店のままに、旅館は旅館のままに、荒物屋は荒物屋のままに、佃煮屋は佃煮屋のままに、数百年のときを越えて立派に営業を続けているところが多いのだ。

時代がどんどん移り変わりゆく中、こうした家業を続けてゆくには並々ならぬ努力が必要である。佐原には、そうした気骨と誇り、そして助け合いの精神とを持ち合わせた、独特の風土があるように思われる。

今は舟の行き交うこともない利根川のほとり、かつての商都は、いまも商都のままに、静かに息づいている。

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流山 2013 [日本の町散歩(関東)]

千葉県流山市は、現在ではつくばエクスプレス線の「流山おおたかの森」駅を中心に新たな宅地開発が進み、住宅都市というイメージが強い。流山市役所のホームページを見ても、「都心から一番近い森の町」という謳い文句が一番に掲げられ、自然が多く残された住環境であるとアピールしている。コンピュータ制御のハイテク電車に乗って実際に「流山おおたかの森」駅に降り立つと、駅前には真新しい大きなショッピングセンターやよく整備されたロータリー等があって、街づくりもたけなわといったところ。

だが、本来の流山の町は、そんな今をときめく「流山おおたかの森」駅から3キロ以上離れた江戸川のほとりに、ひっそりとあった。江戸時代から江戸川の舟運における主要な集散地となり、そしてみりんや日本酒などの名産地としても全国に聞こえた流山。商家や蔵が並んだその古い流山の町が、今は当の流山市民からも顧みられることなく、辛うじて息づいている。
そして、そこには大正時代、豊かだった流山の町民達がお金を出し合って敷いた、小さな地元電車がいまも現役で走っていた。

本当は東京から一番近い、むかし町。それが流山なのである。

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玉川上水 2012 (武蔵野(4)) [日本の町散歩(関東)]

紅葉の色深まる頃、玉川上水べりを散歩した。

玉川上水は、ご存知のとおり飲み水を提供するために羽村から二人の兄弟に働きによって江戸へはるばる掘られた400年前の上水道。
なんと昭和40年まで現役で使われ、その後は枯れ川として放置されていたのだが、昭和61年、水辺の環境を守ろうとする人々の尽力によって、清流が戻された。
いまも、護岸工事のされていない素掘りの水路に沿って、羽村から笹塚まで歩くことができる。

堀は深く、茂みに覆われ、水面が見えるところは少ないが、せせらぎと武蔵野の残り香、そして歴史と人々の努力の堆積を、感じながら歩く上水は、私の気力を充填してくれる。

今回は、西武拝島線のその名も玉川上水駅から、下流に向かって5kmほどを歩いた。

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