パリ 2014 (5) メニルモンタン [ヨーロッパの町紀行]
メニルモンタン、それはロベール・ドアノーが愛した街であり、あのいとおしい映画「赤い風船」の舞台となった場所でもある。パリ東郊の高台一帯を指し、生粋のパリジャンは少なく、地方や他国からの流入者、比較的貧しい労働者階級の人々の住む街。名所と呼べる場所もおしゃれな店も少なく、観光客向けのガイドブックにはまず載ることのない地味なエリアだが、だからこそなのか、土地っ子のメニルモンタン愛は、人一倍強いのだという。たしかにシャンソンには「メニルモンタン」という名歌(シャルル・トレネ作)があるし、有名なエンターテイナー、モーリス・シュバリエにも「メニルモンタンのマーチ」という楽しい歌がある。
わたしは、今回のパリ旅行ではこの高台の下町、メニルモンタン通りからほど近い場所に宿をとった。たった一週間ではあったが、毎朝私を送り出し、毎晩私を迎え入れ、パリにおける私の「地元」となったこのメニルモンタンをご紹介しよう。
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・メニルモンタン通りの朝。
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メトロ「テレグラフ」(テレビ塔)駅からメニルモンタンの高台を降りてゆく。
・リロイ小路からカスケイド通り(滝の通り)へ降りてゆく
メニルモンタンは100年前まではブドウ畑の広がる農村だった。そのあぜ道や水路の名残である趣深い路地や嘘のように美しい小路・階段があちこちに残されているのもこの地区の魅力のひとつ。
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◎プチ・サンチュール
パリの市街をぐるりと一周する環状鉄道があった。そう聞くと何か少しワクワクさせられる。19世紀の中ごろに開業したこの環状線は「プチ・サンチュール(小環状線)」と呼ばれ親しまれたという。
メニルモンタンにもこの環状線が通っていた。名歌「メニルモンタン」の中で「列車がにぎやかに行き交う僕の小さな駅!」と唄われたのは、この環状線のメニルモンタン駅のことだろうか。
しかし、サンチュールは、メトロ等にお客をとられ、1934年には旅客営業を停止してしまう。その後も細々と貨物列車が一部区間を走行していたが、しだいに打ち捨てられ、忘れられていった。
だが、旅客列車が走らなくなって80年もたつというのに、そのレールや駅舎はほとんどそのまま残されているという。郊外電車のルートとして再利用された区間が一部あり、またトラムの路線として再整備する案もあるそうだが、そのほとんどは、撤去も活用もされないまま、パリの片隅でひっそりと眠ったままとなっている。
わたしは、パリ市の南東部分からこのプチサンチュール沿いに北へと歩いてみることにした。
さて、さらに北上すると、すぐにまたプラットフォームあとのようなものがあり、そして線路をまたぐ駅舎のような建物が見えてきた。
わたしは、今回のパリ旅行ではこの高台の下町、メニルモンタン通りからほど近い場所に宿をとった。たった一週間ではあったが、毎朝私を送り出し、毎晩私を迎え入れ、パリにおける私の「地元」となったこのメニルモンタンをご紹介しよう。
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・メニルモンタン通りの朝。
パリなのに、どこかごちゃっとした町並み・・それがメニルモンタン。
メニルモンタンは壁の落書き絵が多いことでも知られる
メニルモンタンに限らず、今回のパリ行きでは本当に小さな子連れ、
ベビーカーを押す母親があちこちで目に付いた。
社会全体で子育てを支援するフランスの政策が奏功しているようである。
ベビーカーを押す母親があちこちで目に付いた。
社会全体で子育てを支援するフランスの政策が奏功しているようである。
メトロのガンベッタ駅付近にて
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メトロ「テレグラフ」(テレビ塔)駅からメニルモンタンの高台を降りてゆく。
一昔前のパリならどこにでもあったようなタバコ屋。
メニルモンタン公園近くの路地。
元は中央のコンクリート部分の幅しかなく「パリで一番狭い道」として知られたが、
右側の区画の再開発によって右へ幅が広げられ、趣はなくなった。
元は中央のコンクリート部分の幅しかなく「パリで一番狭い道」として知られたが、
右側の区画の再開発によって右へ幅が広げられ、趣はなくなった。
メニルモンタンの街角にて。洗練されてないやつらが多い(笑)
・リロイ小路からカスケイド通り(滝の通り)へ降りてゆく
メニルモンタンは100年前まではブドウ畑の広がる農村だった。そのあぜ道や水路の名残である趣深い路地や嘘のように美しい小路・階段があちこちに残されているのもこの地区の魅力のひとつ。
カスケイド通り(滝の通り)は、かつて清らかな水が湧き出す井戸があり
一帯のブドウ畑の中心だったところ。右側のトンガリ屋根の建物は井戸の監視小屋だった。
一帯のブドウ畑の中心だったところ。右側のトンガリ屋根の建物は井戸の監視小屋だった。
私の宿のすぐ近くにあり、夕方何度かお世話になったメニルモンタンらしいカフェ。
カフェが小劇場を兼ねているなんて素敵だ。
カフェが小劇場を兼ねているなんて素敵だ。
メニルモンタン通り。
坂道となっているメニルモンタン通りからは、パリの町並みが良く見通せる。
「俺達、メニルモンタンの若者だ」と書かれた大壁画。
メニルモンタンで落書きアートを手掛ける作家によるものという。
メニルモンタンで落書きアートを手掛ける作家によるものという。
ベルヴィル公園そばにあるアパルトマン。
映画「赤い風船」で印象的だったこのアパルトマンは、今もそのままある。
映画「赤い風船」で印象的だったこのアパルトマンは、今もそのままある。
公園脇にはカフェができている。
その名の通り、パリ市街が見渡せ絶景のベルヴィル公園。
エッフェル塔が見える。
・・映画「赤い風船」を知る者には懐かしく、ちょっぴり悲しくもあり、胸をしめつけられる。
エッフェル塔が見える。
・・映画「赤い風船」を知る者には懐かしく、ちょっぴり悲しくもあり、胸をしめつけられる。
パリの街が本当に美しく見えるメニルモンタンの丘。
今宵も「ホテル・デ・ラ・マール」に帰って来た。
アパルトマンを数室改装しただけの簡素な宿。
アパルトマンを数室改装しただけの簡素な宿。
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◎プチ・サンチュール
パリの市街をぐるりと一周する環状鉄道があった。そう聞くと何か少しワクワクさせられる。19世紀の中ごろに開業したこの環状線は「プチ・サンチュール(小環状線)」と呼ばれ親しまれたという。
メニルモンタンにもこの環状線が通っていた。名歌「メニルモンタン」の中で「列車がにぎやかに行き交う僕の小さな駅!」と唄われたのは、この環状線のメニルモンタン駅のことだろうか。
しかし、サンチュールは、メトロ等にお客をとられ、1934年には旅客営業を停止してしまう。その後も細々と貨物列車が一部区間を走行していたが、しだいに打ち捨てられ、忘れられていった。
だが、旅客列車が走らなくなって80年もたつというのに、そのレールや駅舎はほとんどそのまま残されているという。郊外電車のルートとして再利用された区間が一部あり、またトラムの路線として再整備する案もあるそうだが、そのほとんどは、撤去も活用もされないまま、パリの片隅でひっそりと眠ったままとなっている。
マンションが立ち並ぶ中、残るサンチュールの線路。
ここがメニルモンタン駅のあったあたりだが、駅舎は再開発で無くなったという。
ここがメニルモンタン駅のあったあたりだが、駅舎は再開発で無くなったという。
わたしは、パリ市の南東部分からこのプチサンチュール沿いに北へと歩いてみることにした。
かつてのターミナルのひとつ、バスティーユ駅から延びてきたバスティーユ線の廃線跡。
バスティーユ駅のあった場所は現在オペラ座になり、線路跡は緑道となっている。
バスティーユ駅のあった場所は現在オペラ座になり、線路跡は緑道となっている。
バスティーユ線とプチ・サンチュールのかつてのインターチェンジ付近。
サンチュールのほうは完全に線路が残っている。
バスティーユ線とサンチュールの乗り換え駅「ベルエール サンチュール」
であったと思われる。プラットフォームもそのまま。
バスティーユ線とサンチュールの乗り換え駅「ベルエール サンチュール」
であったと思われる。プラットフォームもそのまま。
かつてのパリ城壁に沿った環状大通りに開通した真新しいトラム。
サンチュールの線路と近接したままほぼ並行している。
ということは、サンチュールのトラム路線としての再開の夢はなくなったということか。
サンチュールの線路と近接したままほぼ並行している。
ということは、サンチュールのトラム路線としての再開の夢はなくなったということか。
プチサンチュールの線路際のヴィラ。
鉄道信号等そのまま立っている。いつでも再開できるのではないか。
時には高架で、町並みを抜けて続く線路。
今にも列車がやってきそうである。
今にも列車がやってきそうである。
また、駅が現れた! 駅舎もホームのそのまま残っている。
旧リュー・ダヴロン駅と思われる。落書きだらけだが、
すぐ下の道路からホームへ上がる階段も含めて健在。
すぐ下の道路からホームへ上がる階段も含めて健在。
さて、さらに北上すると、すぐにまたプラットフォームあとのようなものがあり、そして線路をまたぐ駅舎のような建物が見えてきた。
旧「シャロンヌ」駅である。
旧シャロンヌ村の中心に近く、掘割の上に線路をまたぐ立派な駅舎が建てられていた。
旧シャロンヌ村の中心に近く、掘割の上に線路をまたぐ立派な駅舎が建てられていた。
さて、この駅舎、以前はゆっくりしたカフェとして活用されていたようだが
現在は若者に大人気のクラブなのだという。その名は「フレッシュ・ドール(黄金の矢)」。
かつてサンチュールを走り抜けた特急列車の名だそうで、
経営者のサンチュールへの思いがうかがえる。
駅舎だけでなく、駅舎からホームに降りる階段なども残されている。
現在は若者に大人気のクラブなのだという。その名は「フレッシュ・ドール(黄金の矢)」。
かつてサンチュールを走り抜けた特急列車の名だそうで、
経営者のサンチュールへの思いがうかがえる。
駅舎だけでなく、駅舎からホームに降りる階段なども残されている。
駅舎の表側。残念ながら駐車車両で全貌が分からないが
茶色の屋根のかわいい駅舎の前に、赤いテントが張り出されている。
入ってみたかったが、この日はイベントがありメンバー以外は入店不可とのことだった。
茶色の屋根のかわいい駅舎の前に、赤いテントが張り出されている。
入ってみたかったが、この日はイベントがありメンバー以外は入店不可とのことだった。
シャロンヌ駅の北は、トンネルだった・・
撮影:2014年5月
本文:2016年4月
本文:2016年4月
2016-04-16 23:45
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