京都北山の四季 2004-08 [日本の町散歩(近畿)]
東京に越した今でも、京都北山をバイクで駆けまわった日々のことを思い出す。
京都で過ごした時期は、社会人になって最初の6年間にあたる。
仕事の上では、思い出すのも嫌になるくらい、辛くて長いトンネルのような時期だったが、
北山の幽谷をめぐる時間だけは、私はそのトンネルを抜け出すことができた。
むろん、ここでいう北山は、地下鉄北山駅周辺のストリートのことではない。
そのさらに北に、鞍馬、大原から丹後まで、累々と横たわる北山山地のことである。
北山の魅力は何だろう。北山の何に私は引き寄せられているのだろう。
■北山の冬
北山の春は、ゆっくりやって来る。
■北山の春
■北山の夏
■北山の冬 再び
北山はまた、雪に埋ずもれる
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北山の魅力は何だろう。北山の何に私は引き寄せられているのだろう。
山里がよいというなら、近畿は四方八方、山里だらけである。
能勢、妙見から篠山にかけての一帯は平明な感じを受けて悪くないし、近江の山々はそれこそ山紫水明といった趣である。
それに、高野、龍神から奥吉野にかけて、紀伊山地の彫りの深い山容もまた、魅力的である。
それらと対比したときの北山の独自性というのは、いったい何によるのか?
とっさに思い浮かぶのは、北山杉に代表される植生の独自性であろう。
北山の植生は、バイクでぶっ飛ばしていてもわかるくらい、他の地域と異なる。
近畿のほかの地域、たとえば能勢の広葉樹の森を抜けていく時、風は温かく、その香気はかすかに甘味を帯びて、心も体も、開放へと導かれる。しかし北山の風は、たしかにそれとは異なる、スギのつんとした感触がある。
それは涼やかであると同時に、ひんやりした冷気を秘めていて、ロングライディングで弛緩しかかった私の背筋を、また伸ばさせる。
そのような凛々しさの美とでもいうようなものが、北山一帯を覆っている。
しかし、ただ凛々しいだけなら、紀伊半島のほうが優っているだろう。北山の妙味は、その景観が、さらに線が細やかで、繊細な印象を与えることによる。これはたしかに京文化の影響なのだと思う。
北山の山村の民家で、豪放、放埓な印象をもったものは皆無である。いずれも丁寧な造作で、小さくとも優美に作り上げられており、庭先から裏路地に至るまで、見事に掃き清められている。そのような家々が、肩を寄せ合うように山合いに遠慮がちに見え隠れしているのが北山であって、決して一軒の大農家が、盆地に傲然と存在しているのとは違う。私にはその感じが極めてつつましく、好ましいものに思える。
それは、北山杉の、線は細いが決して不健康ではない美しさと無縁ではないだろう。
そういう意味では、北山はあたかも女性のようである。
むさくるしく礼儀知らずな私などが手も触れられないような韻律が、そこには存在しているのだ。
もちろん、そこには人間の手がこまやかに加わっている。
自然と人間とが共生することで、かくも謹厳で気高い北山の風が生み出されていることに、私は率直におどろく。
だが逆に、その文化が、朽ちほころびて、もっと大きな自然の掟に呑み込まれ還元されていくさまも、北山はありのままにさらけ出す。北山にいくつも残る廃村の名残り。使われなくなった峠の悄然たる風情。最新の林道のアスファルトでさえ、無残にひび割れて雑草の繁茂になすすべもない。
そのさまは、都市に住む私にとって、ひどく人智を超えた謎のようにも感じられ、時には戦慄さえ覚えるほどに、おどろおどろしい。実際、北山には、「物の怪」が棲むと恐れられている場所も点在し、多くの人がその体験を語っている。
京に都ができるずっと前、京都盆地には多くの物の怪たちが跋扈していたらしい。
彼らが都の造営とともに、北山に逃げ込み、今も山野に潜んでいるのだという。
だから実際に北山には物の怪が陣取っているのかもしれないし、
もっと単純に、それは自然の摂理なのだということもできよう。思えば物の怪とは、人間が自然に向き合うとき、否応なく生れ出るものなのかもしれない。
かくして私は、バイクにまたがって縦横に北山の山すそをめぐる。
その風に凛々しさと、細やかさと、韻律、そして文化とその限りのわびしさと、そこにある物の怪的な不可解を感じ取る。
その妙は、一見美しく整っているようでいて、その実征服など到底しきれない女性の不思議さに、やはりよく似ている。
今の私には、その中に入り込んでいく勇気はないし、それは考えてみただけでもおこがましいと思える。
だから、バイクでその片鱗を感じるだけで、まだ精いっぱいだ。
だがいつの日か、中年になり関西に戻った日には、自分の足で森に分け入り、
熊笹を踏み峠を越え、村の庵の戸をたたく旅がしてみたいと思う。
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◎「京都バス32系統 広河原ゆき」のすすめ
私の北山へ向かい際に利用したのは主にバイクであったのは上に述べたとおりだが、さすがに冬の山道をバイクで走るわけにはいかない。
そうしたときに利用した北山への足が、この京都バス32系統である。
このバスは、京都市内の出町柳駅前を起点とし、洛北から鞍馬方面へ山を分け入り、さらにその先、花脊峠を越えて大悲山口、そしてはるばる佐々里峠の下、広河原までの道のりを、約二時間かけて走行する。
その道のりは非常に険しい。柊野分かれ(ひいらぎのわかれ)を過ぎたあたりから道は細くなり、そこから終点まで、もはや林道といっても過言ではない離合困難な道が続く。しかも、花脊峠あたりになると、その勾配10%以上ある急坂、ガードレールのない離合困難なヘアピンカーブがいくつも連続するが、走るのはマイクロバスではなく、大型の通常路線バスである。最初、バイクで峠道を攻めていて、このバスが左右の立ち木に摺りながらヘアピンを曲がってくるのに出くわしたときは、本当に驚いた。無茶もいいとこだといまも思う。
ただ、その分景色はほんとうに素晴らしい。ただ乗っているだけで、山、川、かくれ里と、北山のだいたいを眺めることができる。冬は、当然ではあるがチェーンをつけて走る。ただ京都の市街地をチェーンをつけて走るわけにいかないので、山を少し分け入り、鞍馬を少し過ぎたあたりでチェーンを装着する。その脱着の様も面白く、冬にこのバスに乗るのは非常におすすめである。
以下では、冬の乗車時の前面窓からの展望を掲載する。
この路線は、村上春樹の小説「ノルウェイの森」で、主人公である「ワタナベ」が、直子のいる京都の山奥の療養所を訪ねる際に利用するバスのモデルとなったことでも知られる。
当時は花脊峠も旧道で、今よりさらに悪路であったそうだ。新道になり少しだけ道は良くなったが、小説に描かれた頃のような峠からの眺望や、峠での対向バスの待ち合わせ休憩は、今はない。
また、バスの始発駅も三条京阪から現在の出町柳に変更されている。
ただし、オルゴールを流しながら走ること、無線機の係員が沿道にいてバスと他の大型車のすれ違いの調整をしていること、終点近くにひと気のないスキー場があること等、今もかわらない。
京都バス32系統は、2012年に1往復削減され、現在は一日3往復となっている。
(出町柳―広河原 片道1,050円)
いわゆる過疎路線ではあるが、ハイキングシーズンの週末などは超満員となることも時々あり、
そのような場合は臨時便や続行便が多数運転される。
京都で過ごした時期は、社会人になって最初の6年間にあたる。
仕事の上では、思い出すのも嫌になるくらい、辛くて長いトンネルのような時期だったが、
北山の幽谷をめぐる時間だけは、私はそのトンネルを抜け出すことができた。
むろん、ここでいう北山は、地下鉄北山駅周辺のストリートのことではない。
そのさらに北に、鞍馬、大原から丹後まで、累々と横たわる北山山地のことである。
北山の魅力は何だろう。北山の何に私は引き寄せられているのだろう。
広河原下之町
■北山の冬
広河原下之町
広河原杓子屋(能見口)
広河原杓子屋(桂川源流)
広河原杓子屋
広河原杓子屋
広河原杓子屋
花脊別所
花脊別所
鞍馬
国道477号(百井別れ~花脊峠)
北山の春は、ゆっくりやって来る。
広河原下之町
広河原下之町
鞍馬
鞍馬
余野
杉阪南谷
細野
余野
小野中ノ町
余野
余野
■北山の春
広河原杓子屋
芹生
花脊原地(峰定寺口)
花脊原地
花脊原地
芹生
芹生
芹生
花脊別所
美山北
美山北
美山北
■北山の夏
広河原能見
広河原能見
中川西山
中川西山
中川北山
美山深見
山国黒田
山国黒田
中川西山
花脊八桝
花脊八桝
芦生灰野(廃村)
芦生灰野(廃村)
芦生灰野
芦生
芦生
大原大見
■北山の秋
美山北
水尾
水尾
真弓
花脊原地
美山北
美山北
山国辻
花脊別所
真弓
真弓
山国
山国神社
山国神社
花脊八桝
花脊八桝
大原古知谷
大原古知谷
二ノ瀬駅
貴船
貴船
雲ヶ畑中畑
雲ヶ畑中畑
花脊別所
花脊別所
花脊別所
花脊大布施
広河原杓子屋
山国上黒田
■北山の冬 再び
北山はまた、雪に埋ずもれる
広河原菅原
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私の相棒だったINAZUMA400。
余野から細野に抜ける林道で遭難?した時の一枚。大変だった。。
余野から細野に抜ける林道で遭難?した時の一枚。大変だった。。
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北山の魅力は何だろう。北山の何に私は引き寄せられているのだろう。
山里がよいというなら、近畿は四方八方、山里だらけである。
能勢、妙見から篠山にかけての一帯は平明な感じを受けて悪くないし、近江の山々はそれこそ山紫水明といった趣である。
それに、高野、龍神から奥吉野にかけて、紀伊山地の彫りの深い山容もまた、魅力的である。
それらと対比したときの北山の独自性というのは、いったい何によるのか?
とっさに思い浮かぶのは、北山杉に代表される植生の独自性であろう。
北山の植生は、バイクでぶっ飛ばしていてもわかるくらい、他の地域と異なる。
近畿のほかの地域、たとえば能勢の広葉樹の森を抜けていく時、風は温かく、その香気はかすかに甘味を帯びて、心も体も、開放へと導かれる。しかし北山の風は、たしかにそれとは異なる、スギのつんとした感触がある。
それは涼やかであると同時に、ひんやりした冷気を秘めていて、ロングライディングで弛緩しかかった私の背筋を、また伸ばさせる。
そのような凛々しさの美とでもいうようなものが、北山一帯を覆っている。
中川
しかし、ただ凛々しいだけなら、紀伊半島のほうが優っているだろう。北山の妙味は、その景観が、さらに線が細やかで、繊細な印象を与えることによる。これはたしかに京文化の影響なのだと思う。
北山の山村の民家で、豪放、放埓な印象をもったものは皆無である。いずれも丁寧な造作で、小さくとも優美に作り上げられており、庭先から裏路地に至るまで、見事に掃き清められている。そのような家々が、肩を寄せ合うように山合いに遠慮がちに見え隠れしているのが北山であって、決して一軒の大農家が、盆地に傲然と存在しているのとは違う。私にはその感じが極めてつつましく、好ましいものに思える。
それは、北山杉の、線は細いが決して不健康ではない美しさと無縁ではないだろう。
真弓
そういう意味では、北山はあたかも女性のようである。
むさくるしく礼儀知らずな私などが手も触れられないような韻律が、そこには存在しているのだ。
もちろん、そこには人間の手がこまやかに加わっている。
自然と人間とが共生することで、かくも謹厳で気高い北山の風が生み出されていることに、私は率直におどろく。
だが逆に、その文化が、朽ちほころびて、もっと大きな自然の掟に呑み込まれ還元されていくさまも、北山はありのままにさらけ出す。北山にいくつも残る廃村の名残り。使われなくなった峠の悄然たる風情。最新の林道のアスファルトでさえ、無残にひび割れて雑草の繁茂になすすべもない。
そのさまは、都市に住む私にとって、ひどく人智を超えた謎のようにも感じられ、時には戦慄さえ覚えるほどに、おどろおどろしい。実際、北山には、「物の怪」が棲むと恐れられている場所も点在し、多くの人がその体験を語っている。
京に都ができるずっと前、京都盆地には多くの物の怪たちが跋扈していたらしい。
彼らが都の造営とともに、北山に逃げ込み、今も山野に潜んでいるのだという。
芦生
だから実際に北山には物の怪が陣取っているのかもしれないし、
もっと単純に、それは自然の摂理なのだということもできよう。思えば物の怪とは、人間が自然に向き合うとき、否応なく生れ出るものなのかもしれない。
かくして私は、バイクにまたがって縦横に北山の山すそをめぐる。
その風に凛々しさと、細やかさと、韻律、そして文化とその限りのわびしさと、そこにある物の怪的な不可解を感じ取る。
その妙は、一見美しく整っているようでいて、その実征服など到底しきれない女性の不思議さに、やはりよく似ている。
余野
今の私には、その中に入り込んでいく勇気はないし、それは考えてみただけでもおこがましいと思える。
だから、バイクでその片鱗を感じるだけで、まだ精いっぱいだ。
だがいつの日か、中年になり関西に戻った日には、自分の足で森に分け入り、
熊笹を踏み峠を越え、村の庵の戸をたたく旅がしてみたいと思う。
広河原杓子屋
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎「京都バス32系統 広河原ゆき」のすすめ
私の北山へ向かい際に利用したのは主にバイクであったのは上に述べたとおりだが、さすがに冬の山道をバイクで走るわけにはいかない。
そうしたときに利用した北山への足が、この京都バス32系統である。
花脊別所の里の道をゆく広河原ゆき
このバスは、京都市内の出町柳駅前を起点とし、洛北から鞍馬方面へ山を分け入り、さらにその先、花脊峠を越えて大悲山口、そしてはるばる佐々里峠の下、広河原までの道のりを、約二時間かけて走行する。
その道のりは非常に険しい。柊野分かれ(ひいらぎのわかれ)を過ぎたあたりから道は細くなり、そこから終点まで、もはや林道といっても過言ではない離合困難な道が続く。しかも、花脊峠あたりになると、その勾配10%以上ある急坂、ガードレールのない離合困難なヘアピンカーブがいくつも連続するが、走るのはマイクロバスではなく、大型の通常路線バスである。最初、バイクで峠道を攻めていて、このバスが左右の立ち木に摺りながらヘアピンを曲がってくるのに出くわしたときは、本当に驚いた。無茶もいいとこだといまも思う。
ただ、その分景色はほんとうに素晴らしい。ただ乗っているだけで、山、川、かくれ里と、北山のだいたいを眺めることができる。冬は、当然ではあるがチェーンをつけて走る。ただ京都の市街地をチェーンをつけて走るわけにいかないので、山を少し分け入り、鞍馬を少し過ぎたあたりでチェーンを装着する。その脱着の様も面白く、冬にこのバスに乗るのは非常におすすめである。
鞍馬からさらに北山の奥へ入りゆく
以下では、冬の乗車時の前面窓からの展望を掲載する。
酷道ファンにはおなじみの「百井別れ」に差し掛かる
対向バスとのすれ違いにもテクニックが。
スキーシーズンにも臨時や続行バスが出ることがある。
スキーシーズンにも臨時や続行バスが出ることがある。
花脊峠付近。とても私は運転できそうにない。
この路線は、村上春樹の小説「ノルウェイの森」で、主人公である「ワタナベ」が、直子のいる京都の山奥の療養所を訪ねる際に利用するバスのモデルとなったことでも知られる。
当時は花脊峠も旧道で、今よりさらに悪路であったそうだ。新道になり少しだけ道は良くなったが、小説に描かれた頃のような峠からの眺望や、峠での対向バスの待ち合わせ休憩は、今はない。
また、バスの始発駅も三条京阪から現在の出町柳に変更されている。
ただし、オルゴールを流しながら走ること、無線機の係員が沿道にいてバスと他の大型車のすれ違いの調整をしていること、終点近くにひと気のないスキー場があること等、今もかわらない。
花脊峠をこえて別所の村へ下りてきた。
別所の集落はやや開けているものの、道は狭い。
大布施橋を渡って右折するところも難所である。
杜若
京都バス32系統は、2012年に1往復削減され、現在は一日3往復となっている。
(出町柳―広河原 片道1,050円)
いわゆる過疎路線ではあるが、ハイキングシーズンの週末などは超満員となることも時々あり、
そのような場合は臨時便や続行便が多数運転される。
広河原菅原
撮影 2004年~2008年
本文 2009年夏
本文 2009年夏
2010-04-01 03:53
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