会津若松 2015 [日本の町散歩(東北)]
会津若松は言わずと知れた会津地方、会津盆地の中心都市である。町の名前は本来「若松」であるが、他地方の人からは「会津」を冠して堂々「会津若松」と呼ばれることが多く、現在は自治体としての正式名称も「会津若松市」でありJRの駅名も「会津若松駅」である。
小さな地方を中心に旅してきた私にとっては、大都会のように思えるこの若松。名城「鶴ヶ城」を筆頭に歴史遺産も多く、会津塗等の漆器、焼き物、民芸品から郷土料理に至るまで豊かな伝統文化を持ち、今に伝える立派な観光都市でもある(たとえば玩具の「起き上がり小法師(こぼし)」は会津若松発祥である)。
近年はとくに、旧城下町内で伝統的建造物の保存等もさかんで、道筋には「町方蔵しっく通り」「野口英世青春通り」などと名前が付けられ、越後街道の入り口にあたる「七日町通り」もレトロ人気で活況を博していると聞く。
そんな若松の城と街を私が訪ねたのは、鶴ヶ城の桜がちょうど満開となった春のひと日であった。
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若松の玄関口、JR会津若松駅。
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◎鶴ヶ城(会津若松城)
戦国時代以降、葦名・伊達・蒲生・上杉・保科・松平と数多くの大名が治めた鶴ヶ城。幕末の戊辰戦争では旧幕府派(東軍)として最後まで抵抗したため激しい戦場となり、白虎隊の悲しい歴史も生まれたが、それでも落ちなかった名城である。明治以降は荒廃し、一時は天守閣跡が競輪場となるなどしたそうだが、1960年以降復元が進み美しいたたずまいを取り戻している。
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防御の堅さを誇った北出丸から城を出る。
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◎北出丸大通り
鶴ヶ城北出丸からまっすぐ北へ伸び、繁華街である栄町に続く通りは、かつての大手筋であり、両側に武家屋敷が並ぶ通りであったという。
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◎神明通り
神明通りは現在の会津若松市街を南北に貫通する幹線道路であり、国道の道筋ともなって自動車交通においては市街のメインストリートである。もちろん城下町時代には存在せず、戦後、周辺地区の区画整理を経て建設された通りだが、両側の歩道にアーケードがかかり、喫茶店や洋品店が並ぶ様は今となっては昭和レトロでもあり、ある種の郷愁を誘う。
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◎ 野口英世青春通り(大町通り)
さて城下町時代、会津若松の中心街は、南北に走る「大町通り」(神明通りのわずか西を通る)と、東西に走る「七日町通り」であった。その二本が十字に交差する「大町四つ角」は、まさに街場の中心として殷賑を極めたという。現在、大町四つ角から南へ向かう通りはわずか300メートルほどしかないが、「野口英世青春通り」と名付けられ、レンガによるカラー舗装が行われている。猪苗代出身の野口英世は、子供の頃、この通りにあった「会陽医院」というところでやけどの手術を受け、医学を志したそうだ。その後書生としてこの医院に弟子入りし、この界隈で青年時代を過ごしたという。
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◎若松城下町の中心地「大町四つ角」
大町四つ角は、東西に走る七日町通りと、南北に走る大町通りの交差点となる十字路であるが、正確には七日町通りはこの交差点の東西で南北方向に鉤の手状にずれており、城下町ならではの防衛機能を持った「食い違い十字路」である。そればかりではなく、ここはかつて、二本松・白河街道、米沢街道、越後街道、下野街道という、「会津五街道」の起点となる会津の中心であった。このうち、越後街道は現在の七日町通り(西側)であり、下野街道は野口英世青春通り、米沢街道は大町通り(町方蔵しっく通り)である。
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◎七日町通り
七日町通りは大町四つ角から西へ約800メートル、JR七日町駅までの道筋、旧越後街道である。藩政時代から明治~大正期においても、市街の目抜き通りのひとつであった。昭和後期にはご多分にもれず一時衰退したが、現在は鶴ヶ城をもしのぐ会津若松観光の白眉となり、観光客の姿が絶えない。復活の理由は、通りの両側に残るレトロな建物群。通りの両側にずらりとと続く・・というわけではないものの、明治から大正、昭和初期にかけて建造された古い商家や蔵がそこここに残る。そのひとつひとつが、現役店舗として営業しているからこそ、見ごたえがあるのだ。
さらに西へ歩くと、また趣き深い建物が集まる交差点に出る。
レオ南蛮館と清水屋の間の道を南に入ると、そこにも格式ある店舗が並ぶ。
少し七日町通りを離れ、一本南の通りを歩いてみる。
再び、七日町通りに戻る。
さらに西に歩いてゆく・・
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今度は、七日町通りの北側の路地をめぐり歩いてみる。
表通りを外れると、一昔前の、飾らないこの街の表情が、すこし崩れながらも残っているように思う。
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◎町方蔵しっく通り(大町通り)
大町通りは、「町方蔵しっく通り」等とこじゃれた愛称が付けられているが、大町四つ角から北へ、会津若松駅へと続く重要な通りであり、堂々と「大町通り」のまま呼ぶ方が格好良いと思う。七日町通りほどではないが、大町通りも漆器や呉服等の伝統産業の店蔵が点在するほか、少し奥まったところに弥勒寺、融通寺、実成寺等、お寺がいくつも並び、寺町の風情も感じられる。会津若松駅から徒歩で中心部を目指すなら、味気ない自動車道路の中央通りより、断然大町通りだ。
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◎大町通り界隈から中央通りを渡り東側へ
このあたりからやや南へ向かうとすぐに栄町である。
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◎栄町
会津若松は、会津を代表する都会だけあって、そこそこの規模の飲み屋街がある。中央通り(神明通り)を境に西側の七日町通り一帯が昼の街ならば、東側の栄町一帯は、夜の盛り場である。区画整理や再開発などで歯抜け状態になってしまったところも多いが、所々に実力派の居酒屋があり、また取り残されたような小さなスナック街等もある。まずは昼ひなかに栄町を訪ねてみた。
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◎行仁町、宮町、千石町
栄町を抜けさらに東側は、落ちついた雰囲気の住宅街である。藩政時代から町人の居住地域であり、所々に寺社や蔵もあってほっと一息つける静かなエリアだ。
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再び中心街へ
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◎「田事(たごと)旅館」と夜の栄町
私がとった宿は料理旅館の「田事」。会津の郷土料理のひとつに「わっぱ飯」があるが、料理としてわっぱ飯を広めたのがこの料理旅館であるという(「田事」では「めっぱ飯」という)。若松を代表する老舗の料理旅館のひとつである。
さて、いざ夜の町へ
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◎おまけ:下校時の七日町駅ホーム◎
小さな地方を中心に旅してきた私にとっては、大都会のように思えるこの若松。名城「鶴ヶ城」を筆頭に歴史遺産も多く、会津塗等の漆器、焼き物、民芸品から郷土料理に至るまで豊かな伝統文化を持ち、今に伝える立派な観光都市でもある(たとえば玩具の「起き上がり小法師(こぼし)」は会津若松発祥である)。
近年はとくに、旧城下町内で伝統的建造物の保存等もさかんで、道筋には「町方蔵しっく通り」「野口英世青春通り」などと名前が付けられ、越後街道の入り口にあたる「七日町通り」もレトロ人気で活況を博していると聞く。
そんな若松の城と街を私が訪ねたのは、鶴ヶ城の桜がちょうど満開となった春のひと日であった。
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若松の玄関口、JR会津若松駅。
早速バスに乗って向かったのは鶴ヶ城(若松城)。
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◎鶴ヶ城(会津若松城)
戦国時代以降、葦名・伊達・蒲生・上杉・保科・松平と数多くの大名が治めた鶴ヶ城。幕末の戊辰戦争では旧幕府派(東軍)として最後まで抵抗したため激しい戦場となり、白虎隊の悲しい歴史も生まれたが、それでも落ちなかった名城である。明治以降は荒廃し、一時は天守閣跡が競輪場となるなどしたそうだが、1960年以降復元が進み美しいたたずまいを取り戻している。
お濠端の見事な桜。
西出丸の駐車場から天守閣を臨む。
南東側の山並みを臨む。
南側のお濠沿いは、気持ちの良い散策路になっている。
柵もなにも無いのが良い。
二の丸(左)から本丸(右)へ渡る廊下橋あたり。
この辺では石垣が高く、お濠は深い。
この辺では石垣が高く、お濠は深い。
楚々とした天守閣は1965年に復元されたもの。
北出丸あたりから南東方向(二の丸)を見たところ。
北東角の外堀付近。このあたりもお濠端を歩けるようになっている。
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防御の堅さを誇った北出丸から城を出る。
北出丸前を東西に横切る通り。
北入り口前に鎮座する重厚な建物は老舗菓子店「会津葵」の本店。
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◎北出丸大通り
鶴ヶ城北出丸からまっすぐ北へ伸び、繁華街である栄町に続く通りは、かつての大手筋であり、両側に武家屋敷が並ぶ通りであったという。
「ならぬことはなりませぬ」と書かれた立て札を若松では時々みかける。
その昔、会津藩士の子供達の間で語り継がれてきた武士の子弟の模範となる為のいくつかの掟。
掟の内容は「嘘を言うことはなりませぬ」「弱いものをいぢめてはなりませぬ」等といったものだが
「ならぬことはなりませぬ」は、その最後に添えられていた言葉であるという。
「してはいけないことは、してはいけないのです」・・・意外に深く重い言葉ではないだろうか。
その昔、会津藩士の子供達の間で語り継がれてきた武士の子弟の模範となる為のいくつかの掟。
掟の内容は「嘘を言うことはなりませぬ」「弱いものをいぢめてはなりませぬ」等といったものだが
「ならぬことはなりませぬ」は、その最後に添えられていた言葉であるという。
「してはいけないことは、してはいけないのです」・・・意外に深く重い言葉ではないだろうか。
物見櫓がある。
よく整備された北出丸通り。
角にあるのは宮泉酒造の蔵である。
宮泉酒造。若松もあまく柔らかい会津の水を生かした造り酒屋が多い。
南側から見たところ。
北出丸通りをさらに北へ進むと、ちらほらと飲食店などが増えてくる。
このあたりから、かつて町屋が並んでいた旧城下町。
いまは会津若松随一のネオン街「栄町」となっているが、昼間は穏やかな空気。
いまは会津若松随一のネオン街「栄町」となっているが、昼間は穏やかな空気。
会津若松市役所。1937年建築で見ごたえのある建物。
会津の中心都市の役場として、今も現役であるとはすばらしい。
会津の中心都市の役場として、今も現役であるとはすばらしい。
市役所前の通り。
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◎神明通り
神明通りは現在の会津若松市街を南北に貫通する幹線道路であり、国道の道筋ともなって自動車交通においては市街のメインストリートである。もちろん城下町時代には存在せず、戦後、周辺地区の区画整理を経て建設された通りだが、両側の歩道にアーケードがかかり、喫茶店や洋品店が並ぶ様は今となっては昭和レトロでもあり、ある種の郷愁を誘う。
やや元気がないアーケード内部。市街地空洞化で事情はどこも同じか。。
企業や金融機関のビルも並び、都市的景観。
左の建物は会津塗の老舗「鈴善」である。
北へ進むと道路はそのまま会津若松駅へと続く中央通りとなる。
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◎ 野口英世青春通り(大町通り)
さて城下町時代、会津若松の中心街は、南北に走る「大町通り」(神明通りのわずか西を通る)と、東西に走る「七日町通り」であった。その二本が十字に交差する「大町四つ角」は、まさに街場の中心として殷賑を極めたという。現在、大町四つ角から南へ向かう通りはわずか300メートルほどしかないが、「野口英世青春通り」と名付けられ、レンガによるカラー舗装が行われている。猪苗代出身の野口英世は、子供の頃、この通りにあった「会陽医院」というところでやけどの手術を受け、医学を志したそうだ。その後書生としてこの医院に弟子入りし、この界隈で青年時代を過ごしたという。
昔ながらの店構えの民芸品店「福西本店」(右)とその蔵。
中ではそば店やビアレストランも営業している。
その左側が旧会陽医院である。
中ではそば店やビアレストランも営業している。
その左側が旧会陽医院である。
「紀州屋1934」とあるレトロな石造りの建物は現在ハンバーガーカフェとして営業。
野口英世青春通りから神明通りを見たところ。200メートル程の距離である。
こちらは現役の「黒河内医院」。なんとも良い風情の建物。
通りの街頭には野口英世の似顔絵が。
野口英世青春通りの外れ(南端部)。
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◎若松城下町の中心地「大町四つ角」
大町四つ角は、東西に走る七日町通りと、南北に走る大町通りの交差点となる十字路であるが、正確には七日町通りはこの交差点の東西で南北方向に鉤の手状にずれており、城下町ならではの防衛機能を持った「食い違い十字路」である。そればかりではなく、ここはかつて、二本松・白河街道、米沢街道、越後街道、下野街道という、「会津五街道」の起点となる会津の中心であった。このうち、越後街道は現在の七日町通り(西側)であり、下野街道は野口英世青春通り、米沢街道は大町通り(町方蔵しっく通り)である。
交差点に建つ好ましいスタイルの洋館は大正10年築。
旧郡山商業銀行(現:東邦銀行)若松支店で、現在はイタリアンレストラン等が入居。
なお角に小さな石造りの道標が見えるが、会津五街道の起点を示す由緒正しき道標。
旧郡山商業銀行(現:東邦銀行)若松支店で、現在はイタリアンレストラン等が入居。
なお角に小さな石造りの道標が見えるが、会津五街道の起点を示す由緒正しき道標。
大町四つ角から東方向を臨む。かつての二本松・白河街道の道筋。
四つ角からほど近くにある会津塗の老舗、「鈴木屋利兵衛」の重厚な建物。
江戸後期の建築で、内部には戊辰戦争時の刀傷などが残っているという。
江戸後期の建築で、内部には戊辰戦争時の刀傷などが残っているという。
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◎七日町通り
七日町通りは大町四つ角から西へ約800メートル、JR七日町駅までの道筋、旧越後街道である。藩政時代から明治~大正期においても、市街の目抜き通りのひとつであった。昭和後期にはご多分にもれず一時衰退したが、現在は鶴ヶ城をもしのぐ会津若松観光の白眉となり、観光客の姿が絶えない。復活の理由は、通りの両側に残るレトロな建物群。通りの両側にずらりとと続く・・というわけではないものの、明治から大正、昭和初期にかけて建造された古い商家や蔵がそこここに残る。そのひとつひとつが、現役店舗として営業しているからこそ、見ごたえがあるのだ。
大町四つ角から西へ向かうとまず目につくのがこの堂々たるルネサンス風の洋館。
大正3年建築の「白木屋漆器店」で、もちろん現役店舗。
大正ロマンの横溢する建物内部は一見の価値がある。
大正3年建築の「白木屋漆器店」で、もちろん現役店舗。
大正ロマンの横溢する建物内部は一見の価値がある。
白木屋の蔵はファサード部分が現在バス停の一部として利用されている。
建物右側の入り口からは白木屋の住居部が覗ける。
奥へと続く白木屋の住居部分。
白木屋の右(奥)にはギリシャ神殿のような建物が見える。
昭和3年建築の滝谷建設会津若松支店。
コリント様式の6本の支柱が並ぶファサードが美しい。
コリント様式の6本の支柱が並ぶファサードが美しい。
滝谷建設ビルのさらに右隣には、なんとも昭和な香りのする理髪店が。
現在は残念ながら廃業している様子である。
現在は残念ながら廃業している様子である。
白木屋漆器店の向かいにあるこちらのお店まで、風情あるものに見えてくる。
少し西へ進むと見えてくるのが、この「だいにつかはら」。
塚原呉服店の第二店舗(現在は洋品店)であるが、見事な看板建築に笑みが漏れる。
昭和2年建築。
塚原呉服店の第二店舗(現在は洋品店)であるが、見事な看板建築に笑みが漏れる。
昭和2年建築。
さらに西へ歩くと、また趣き深い建物が集まる交差点に出る。
こちらの建物は「レオ氏郷南蛮館」とある。「レオ氏郷」とは鶴ヶ城を築いた藩主、蒲生氏郷のこと。
キリシタン大名(レオは洗礼名)でもあった彼に関する資料館であるが、
元何の建物だったは不明。いずれにせよ大正のころの建築と思われる。
キリシタン大名(レオは洗礼名)でもあった彼に関する資料館であるが、
元何の建物だったは不明。いずれにせよ大正のころの建築と思われる。
道路を挟んで西側は江戸期創業の「清水屋履物店」。
会津名産の桐の下駄をオーダーメイドできたりするそうだ。
会津名産の桐の下駄をオーダーメイドできたりするそうだ。
「清水屋履物店」の左隣の町屋は、ジャズ喫茶。
角のタバコ屋もさりげなく現役である。
レオ南蛮館と清水屋の間の道を南に入ると、そこにも格式ある店舗が並ぶ。
通りの右(東)側がみそ田楽で有名な「満田屋」の味噌蔵。明治17年築。
左(西)側は和風甘味処「桃里道」(明治25年築)、花も販売する「永山陶磁器店」(大正5年)等が並ぶ。
左(西)側は和風甘味処「桃里道」(明治25年築)、花も販売する「永山陶磁器店」(大正5年)等が並ぶ。
満田屋の風情。
「満田屋」の味噌蔵。味噌のほか、油粕や糀なども有名。
明治25年築の建物を和風カフェとして再利用した「桃里道(とおりみち)」から
七日町通り方面を見る。
七日町通り方面を見る。
少し七日町通りを離れ、一本南の通りを歩いてみる。
この辺り一帯が、かつては「若松銀座」と呼ばれ一大繁華街であったという。
いまは、夜の繁華街は神明通りの東側の栄町一帯へ移っている。
いまは、夜の繁華街は神明通りの東側の栄町一帯へ移っている。
再び、七日町通りに戻る。
ギャラリ―「夢蔵」と「心眼美望館」。
仏具と葬祭の「小野屋」が経営する蔵の資料館だ。
仏具と葬祭の「小野屋」が経営する蔵の資料館だ。
右は「加茂屋商店」(青果)の蔵。左は活性炭の「尚伸株式会社」で元は洋装店だった模様。
工房「鈴蘭」前にて。
一見何気ない建物にも歴史があり味がある。
古布・骨董(工芸品)の「笑美」だったが現在は大町通りに移転。
元「塚原呉服店本店」。大正15年築。正面のファサードに
「TSUKAHARA GOHUKUTEN」の字が読み取れる。現在はスポーツ用品店。
「TSUKAHARA GOHUKUTEN」の字が読み取れる。現在はスポーツ用品店。
さらに西に歩いてゆく・・
「本家長門屋」は老舗の菓子店。自ら「駄菓子店」と呼びあんこ玉、かりん糖など
庶民的な日常のお菓子を作り続ける会津らしいお店。
庶民的な日常のお菓子を作り続ける会津らしいお店。
正面レリーフに大根があしらわれた瀟洒な「池田種苗店」
「七日町ローマン小路」と名付けられた横道。
「渋川問屋」。海産物問屋の建物を再利用し
現在は和食処兼宿泊施設となっている。
現在は和食処兼宿泊施設となっている。
JRと会津鉄道の列車が来る七日町駅。
レトロな七日町駅舎だが、平成14年築。駅利用客は多くはないが、
駅舎内にはカフェ兼伝統産業のアンテナショップ「駅CAFE」が入り、非常に好ましい。
駅舎内にはカフェ兼伝統産業のアンテナショップ「駅CAFE」が入り、非常に好ましい。
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今度は、七日町通りの北側の路地をめぐり歩いてみる。
「七日町ローマン小路」の近くで見つけた、古い宿屋「やなぎや」の遺構。
むかしの若松の雰囲気を想像してみたりする。
むかしの若松の雰囲気を想像してみたりする。
表通りを外れると、一昔前の、飾らないこの街の表情が、すこし崩れながらも残っているように思う。
第二塚原呉服店の裏手あたり
常光寺も春らんまん
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◎町方蔵しっく通り(大町通り)
大町通りは、「町方蔵しっく通り」等とこじゃれた愛称が付けられているが、大町四つ角から北へ、会津若松駅へと続く重要な通りであり、堂々と「大町通り」のまま呼ぶ方が格好良いと思う。七日町通りほどではないが、大町通りも漆器や呉服等の伝統産業の店蔵が点在するほか、少し奥まったところに弥勒寺、融通寺、実成寺等、お寺がいくつも並び、寺町の風情も感じられる。会津若松駅から徒歩で中心部を目指すなら、味気ない自動車道路の中央通りより、断然大町通りだ。
和菓子の「亀齢堂伊勢屋」(左)。右のカフェ「VOYAGE」の店構えも好ましい。
素朴な「満山漆器店」の店構え。
さらに北へ進むと、やはり漆器の「坂本これくしょん」。
まるでギャラリ―のような洗練された店構えである。
さらに北へ進むと「小野寺漆器店」の重厚な店構え。
空洞化が進み、寂しい一角もある。
大町通りから実成寺入り口を見る。
実成寺入り口から大町通りを見る。
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◎大町通り界隈から中央通りを渡り東側へ
中央通りにも面した会津塗の「鈴善漆器店」。
松乃園斎藤茶舗。営業していない?
荒神社前にて。エアポケットのような、静かな一角。
このあたりからやや南へ向かうとすぐに栄町である。
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◎栄町
会津若松は、会津を代表する都会だけあって、そこそこの規模の飲み屋街がある。中央通り(神明通り)を境に西側の七日町通り一帯が昼の街ならば、東側の栄町一帯は、夜の盛り場である。区画整理や再開発などで歯抜け状態になってしまったところも多いが、所々に実力派の居酒屋があり、また取り残されたような小さなスナック街等もある。まずは昼ひなかに栄町を訪ねてみた。
神明通りから西へ入っていく小路。期待が高まる。
まずは公共施設や公園なども。
若松城の外石垣が唯一残る甲賀町口の門跡。
城門を入れば武家屋敷、ではなく、今は夜の店がずらり。
歯抜け状態となった路地裏スナック街。楽天地飲食街という。
東側の入り口には立派なゲートが現存する。
市役所のある通りにもずらり小料理屋が並ぶ。
・・・・と、不思議な小屋が並ぶ路地を発見。
わずかに坂道になっている路地。現役店舗はほとんどなさそうだが・・
昭和後期まではきっと機能していたであろう、おそらくは「特殊な」飲み屋街。
坂を上がりきるとこんな感じ。分かる人には分かる、古き良き時代が偲ばれます。
現役のバーや居酒屋となっているところもちらほら。
センチュリーホテル付近。
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◎行仁町、宮町、千石町
栄町を抜けさらに東側は、落ちついた雰囲気の住宅街である。藩政時代から町人の居住地域であり、所々に寺社や蔵もあってほっと一息つける静かなエリアだ。
奥に見えるのは八角神社。
真龍寺にて。
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再び中心街へ
「清水屋履物店」前
旧「やなぎや」付近
鈴國漆器店(大町1丁目)
「長門屋」前(渋川問屋となり)
「山田木綿」織元
渋川問屋
七日町駅
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◎「田事(たごと)旅館」と夜の栄町
私がとった宿は料理旅館の「田事」。会津の郷土料理のひとつに「わっぱ飯」があるが、料理としてわっぱ飯を広めたのがこの料理旅館であるという(「田事」では「めっぱ飯」という)。若松を代表する老舗の料理旅館のひとつである。
表通りから少し離れた住宅地の中にある「田事」
老舗ながら格式ばったところのない、楚々とした帳場まわり
私が予約したのはなんと洋室。
由緒正しき和風割烹旅館がどんな洋室を作ってくるかが興味の的だったが
期待に違わないなかなかのセンス。光るフローリングも美しい。
由緒正しき和風割烹旅館がどんな洋室を作ってくるかが興味の的だったが
期待に違わないなかなかのセンス。光るフローリングも美しい。
さて、いざ夜の町へ
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翌朝の田事旅館。
撮影:2015年4月
本文:2016年5月
本文:2016年5月
◎おまけ:下校時の七日町駅ホーム◎
2016-05-28 22:31
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