湯浅 2015 [日本の町散歩(近畿)]
わたしは、日本の良さを残す町並みを求めてあちこち小さな町に出掛けているが、この湯浅ほど居心地が良く、その雰囲気にどっぷり浸かってみたくなるところは初めてである。伝統的な町並みが良く残っているという点なら、他にも右に出る場所はたくさんあろう。しかしそんな無理やり保存されたような町並みは、現代の市民生活から浮いてしまってテーマパーク然とし、町としては生きている感じがしないことも多い。
湯浅もずいぶん寂しくなったと言うけれど、駅を降りて町を歩くと、自転車に乗った危なっかしいジイサンが通りを横切り、ランドセルをしょった子供達が路地を駈けていく。道を尋ねれば人々は穏やかで優しく、品がある。そして、どこからともなく漂ってくる、醬油のもろみの香り。。。いたずらに古い町並みを強調されているわけではなく、伝建地区には町の一部が指定されているだけ。そこでさえも、電柱の地中化すらされていない。町には江戸から昭和にかけての街の歴史の積み重ねが、ありのままの姿で残されている。それがなぜか、とても好ましいことのように思えてくる。
町そのもののが持つ香気がほんのり立ち昇る、こんな町の息吹の中にただ抱かれて、どこも行かず何もせず何日かぼーっとしてみるのもまた、ニッポンの良きリゾートかもしれないと思う。
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湯浅の朝
中心街から浜の方向へ歩いてゆく。熊野古道でもある道町をはじめ、鍛冶町、中町、浜町と、南北に何本もの道筋が東から西へほぼ平行に連なっているが、とくに鍛冶町から西側は大きな建物もなく、ゆったりとした家並みと路地が広がっている。
いまさらで恐縮だが、湯浅は日本における醬油発祥の地とされている。
鎌倉時代、中国より帰国した僧が、湯浅の隣町である由良で味噌の醸造を始めた。大豆等から作った麹に塩を加え、きゅうりやなす等の夏野菜を漬けこんで熟成させる。これが金山寺味噌と呼ばれるもので、調味料としてではなく、おかずや酒の肴としてそのまま食べる、いわゆる「もろみみそ」である。
醬油は、その副産物として、湯浅で生まれた。もとは金山寺味噌の醸造時に湧き出る上澄み液であったらしい。これを舐めてみたところ、非常に美味だったことから調味料としての人気が高まり、醤油を専業で生産する蔵が現れるようになったという。江戸時代には、紀州藩がこれを奨励し、湯浅港近くの大仙堀周辺には百軒近い醸造所が並んでいたという。紀州湯浅で生まれた醬油は、黒潮の流れに乗った漁師や移住者達を通して房総半島に伝わり、銚子や野田で醬油が一大産業に発展するに至った。
現代の和歌山県ではもはや醬油は大きな産業ではないが、今も湯浅町には江戸時代以来の製法を守る醬油の醸造所がいくつか残っている。先ほどから紹介している角長のほかにも、小原久吉商店や久保田醸造、丸新や湯浅醤油等といった老舗が点在しているそうだが、多くは湯浅町の郊外へ移転してしまい、町内で昔ながらの製法を守っているところは少なくなっているという。なお、湯浅では金山寺味噌も現代に続く名産のひとつ。玉井醬や先ほど紹介した太田久助等の老舗が暖簾を守っている。
北町界隈を離れ、のんびりした中町通りを南へと歩いてゆく。
今度は中町通りの一本西、浜町通りを再び北上していく。
浜町~北町界隈の路地を抜けて。
今度は鍛冶屋町通りを南へと歩く。
表通りも路地裏も魅力的な湯浅だが、ただひとつ残念なことがある。それは、この町が太平洋という海に面していながら、海に向かって開かれた感じが少なく、むしろ殆ど海に背を向けているように思われる。かつては海岸通りから西に、遠浅の砂浜が広がっていたそうだが、すべて埋め立てられて、いまは殺風景な高い堤防が築かれている。漁港には海へと出てゆくその境界に水門があり、それがあまりに巨大な為にちょっとおどろおどろしい感じさえして、海沿いの港ののんびりした感じはない。
おそらく、度重なる津波等の水害の歴史と、それに対する防災意識が、町をそうさせたのであり、そこには一見の観光客が景観本位で嘆くのとは次元のまったく違う問題があったのだろう。
しかし、たとえば現在堤防、埋め立て地となっているところを小高い丘にして海を見渡せる公園にしたり、海沿いに植林したりして災害対策を講じながら海辺の町としての景観をも整え、海にふたたび親しんでゆくことはできると思うし、そういった折り合いの工夫がこれからは大切な時代になってゆくのではないかとも思う。
・・・市中へと踵を返してゆく。
道町通りは、湯浅の町を南北に貫くメインストリート。今度はここを北へと歩いてゆく。
本町通りは東西に走る。
引き続き道町を北上する。
道町の左右に広がる路地めぐりもまた楽しい。
まずは道町の西側から。
道町の東側。
周辺もそこそこ人通りのある湯浅。健全な、生きた町である。
ふたたび路地をぬけて・・
中町、浜町方面へと向かう。
海の方へゆくに従って町の表情は伸びやかになる。
また、角長あたりへとやってきた。
湯浅もずいぶん寂しくなったと言うけれど、駅を降りて町を歩くと、自転車に乗った危なっかしいジイサンが通りを横切り、ランドセルをしょった子供達が路地を駈けていく。道を尋ねれば人々は穏やかで優しく、品がある。そして、どこからともなく漂ってくる、醬油のもろみの香り。。。いたずらに古い町並みを強調されているわけではなく、伝建地区には町の一部が指定されているだけ。そこでさえも、電柱の地中化すらされていない。町には江戸から昭和にかけての街の歴史の積み重ねが、ありのままの姿で残されている。それがなぜか、とても好ましいことのように思えてくる。
町そのもののが持つ香気がほんのり立ち昇る、こんな町の息吹の中にただ抱かれて、どこも行かず何もせず何日かぼーっとしてみるのもまた、ニッポンの良きリゾートかもしれないと思う。
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湯浅の朝
県道175号線となっている商店街。
L字型に駅まで続く。
L字型に駅まで続く。
西大宮商店街。
湯浅町内には西大宮通、道町南、道町中央、駅前通り、島之内、寺前、
南かじや町、北かじや町の8つの商店街があり、それぞれは短いが相互につながっている。
湯浅町内には西大宮通、道町南、道町中央、駅前通り、島之内、寺前、
南かじや町、北かじや町の8つの商店街があり、それぞれは短いが相互につながっている。
湯浅の中心街は商店街や路地等が入り組んでおり、楽しい。
中心街から浜の方向へ歩いてゆく。熊野古道でもある道町をはじめ、鍛冶町、中町、浜町と、南北に何本もの道筋が東から西へほぼ平行に連なっているが、とくに鍛冶町から西側は大きな建物もなく、ゆったりとした家並みと路地が広がっている。
左は1985年まで銭湯「戎湯」として営業していた建物。
経営者の名前から「甚風呂」と呼ばれたという。現在も保存され、内部公開されている。
経営者の名前から「甚風呂」と呼ばれたという。現在も保存され、内部公開されている。
浜町通りに出てきた。
つきあたりに手作り醬油で有名な角長がある。
北町通りに出る。
伝建地区を東西に走る北町通り。
右に角長の昔ながらの建物と煙突が見える。
右に角長の昔ながらの建物と煙突が見える。
角長は天保12年(1841年)創業。江戸以来の手作りの製法で
現在も醸造を続ける、湯浅を代表する醬油蔵のひとつ。
現在も醸造を続ける、湯浅を代表する醬油蔵のひとつ。
北町通りを西から見たところ。
角長の蔵のすぐ北にある堀。大仙堀と呼ばれる。
醬油の材料の積み下ろしのほか、商品もここから全国に発送された。
海にほど近い為、干潮時には干上がることも。
醬油の材料の積み下ろしのほか、商品もここから全国に発送された。
海にほど近い為、干潮時には干上がることも。
北町通りには、角長のほかにも右に見える金山寺味噌の「太田久助吟製」や
江戸時代から醬油醸造を営んできた戸津井家の旧家、喫茶店等がある。
江戸時代から醬油醸造を営んできた戸津井家の旧家、喫茶店等がある。
いまさらで恐縮だが、湯浅は日本における醬油発祥の地とされている。
鎌倉時代、中国より帰国した僧が、湯浅の隣町である由良で味噌の醸造を始めた。大豆等から作った麹に塩を加え、きゅうりやなす等の夏野菜を漬けこんで熟成させる。これが金山寺味噌と呼ばれるもので、調味料としてではなく、おかずや酒の肴としてそのまま食べる、いわゆる「もろみみそ」である。
醬油は、その副産物として、湯浅で生まれた。もとは金山寺味噌の醸造時に湧き出る上澄み液であったらしい。これを舐めてみたところ、非常に美味だったことから調味料としての人気が高まり、醤油を専業で生産する蔵が現れるようになったという。江戸時代には、紀州藩がこれを奨励し、湯浅港近くの大仙堀周辺には百軒近い醸造所が並んでいたという。紀州湯浅で生まれた醬油は、黒潮の流れに乗った漁師や移住者達を通して房総半島に伝わり、銚子や野田で醬油が一大産業に発展するに至った。
現代の和歌山県ではもはや醬油は大きな産業ではないが、今も湯浅町には江戸時代以来の製法を守る醬油の醸造所がいくつか残っている。先ほどから紹介している角長のほかにも、小原久吉商店や久保田醸造、丸新や湯浅醤油等といった老舗が点在しているそうだが、多くは湯浅町の郊外へ移転してしまい、町内で昔ながらの製法を守っているところは少なくなっているという。なお、湯浅では金山寺味噌も現代に続く名産のひとつ。玉井醬や先ほど紹介した太田久助等の老舗が暖簾を守っている。
観光客ではなく、地元の人達が集う北町界隈。
北町界隈を離れ、のんびりした中町通りを南へと歩いてゆく。
中町通りの中程にあるのが創業400年の手作り味噌、玉井醬・大阪屋三右衛門店。
路地の表情も心魅かれる湯浅の街歩き。
今度は中町通りの一本西、浜町通りを再び北上していく。
湯浅の町を東西に横切る御蔵町通り。やや広めの通りだ。
浜町~北町界隈の路地を抜けて。
「甚風呂」ふたたび。
なお、甚風呂の向かい(写真では右側)に無料休憩所があり
地元のおじさんおばさん達が、もてなしてくれた。
なお、甚風呂の向かい(写真では右側)に無料休憩所があり
地元のおじさんおばさん達が、もてなしてくれた。
「三菱鉛筆」の看板も懐かしいこの文房具店も、きちんと現役。
いまは草が生い茂る左側の土地も、最近まで醬油蔵であったらしい。
中町通り。
北町通りと鍛冶屋町通りの交差点あたり。
今度は鍛冶屋町通りを南へと歩く。
鍛冶屋町通り。こうした表通りの風情も好ましい。
南へ抜けると湯浅漁港である。
漁港に面した辺りは、釣り宿や居酒屋がいくつか散見される。
表通りも路地裏も魅力的な湯浅だが、ただひとつ残念なことがある。それは、この町が太平洋という海に面していながら、海に向かって開かれた感じが少なく、むしろ殆ど海に背を向けているように思われる。かつては海岸通りから西に、遠浅の砂浜が広がっていたそうだが、すべて埋め立てられて、いまは殺風景な高い堤防が築かれている。漁港には海へと出てゆくその境界に水門があり、それがあまりに巨大な為にちょっとおどろおどろしい感じさえして、海沿いの港ののんびりした感じはない。
おそらく、度重なる津波等の水害の歴史と、それに対する防災意識が、町をそうさせたのであり、そこには一見の観光客が景観本位で嘆くのとは次元のまったく違う問題があったのだろう。
しかし、たとえば現在堤防、埋め立て地となっているところを小高い丘にして海を見渡せる公園にしたり、海沿いに植林したりして災害対策を講じながら海辺の町としての景観をも整え、海にふたたび親しんでゆくことはできると思うし、そういった折り合いの工夫がこれからは大切な時代になってゆくのではないかとも思う。
・・・市中へと踵を返してゆく。
熊野古道でもある道町通り。商店が立ち並ぶ。
道町通りは、湯浅の町を南北に貫くメインストリート。今度はここを北へと歩いてゆく。
道町通りと直角に交わる本町通り。やはり商店が並ぶ。
本町通りは東西に走る。
道町通りと本町通りの交差点が、湯浅における銀座四丁目か。
古い道標が交差点角に立っている。天保9年のものとか。
ちなみにこちらに向いている文字は「すぐ熊野道」と書かれている。
「まっすぐの道筋が熊野道」という意味だそうだ。
古い道標が交差点角に立っている。天保9年のものとか。
ちなみにこちらに向いている文字は「すぐ熊野道」と書かれている。
「まっすぐの道筋が熊野道」という意味だそうだ。
引き続き道町を北上する。
道町の左右に広がる路地めぐりもまた楽しい。
まずは道町の西側から。
このあたりは、いかにも表通りの裏手という感じがする。
道町の東側。
路地のそこここに現役店舗も残る。
さてこのあたりはなんとなく色街であったらしい匂いが・・・
どうだろう
どうだろう
周辺もそこそこ人通りのある湯浅。健全な、生きた町である。
ふたたび路地をぬけて・・
中町、浜町方面へと向かう。
海の方へゆくに従って町の表情は伸びやかになる。
湯浅の路地はどこを巡っても心魅かれるが、この一角は絵のようだ。
鍛冶屋町界隈にて。
鍛冶屋町界隈にて。
鍛冶屋町の表通りも仕出し屋や商店がいくつも残っている。
こちらはひとつ海側の中町通り。
また、角長あたりへとやってきた。
撮影:2015年8月
本文;2016年12月
本文;2016年12月
2016-12-01 22:12
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