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龍野 2015 [日本の町散歩(近畿)]

「夕焼け小焼けの赤とんぼ、負われて見たのはいつの日か・・・♪」とは誰もが知っている童謡である。作詞者である三木露風は、赤とんぼが舞い飛ぶ、風光豊かな故郷で過ごした幼少期への思慕の念をこの歌に託したという。そしてその三木露風の故郷が、この播州龍野の街である。
清流として知られる揖保川がゆるやかに流れる傍ら、小高い丘に抱かれた小さな城下町は、いまも「赤とんぼの故郷」と云いたくなるような古い城跡と町並みを残し、静かな詩情に包まれている。
しかし、この町においてそれ以上に特筆すべきことは、ここが「淡口(うすくち)醬油」やそうめんの「揖保の糸」といった全国区の名産品やブランドを生み出し、産業化に成功した町であるという点である。うすくちしょうゆの一見はんなり、実はシッカリという味わいの妙は、そのまま龍野という街の特性なのかもしれない。

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益子 2015 [日本の町散歩(関東)]

益子焼の美しさは、土に根差した素朴さの中に、用の美を含んでいることであろう。特別な器ではなく、いつもの日常生活に、土と人肌のぬくもりを伝えてくれる器の数々は、洗練という点からは私の好みと少し違うのだけれど、つい今夜もこれで、と気安く手を伸ばしたくなる人懐っこい魅力があり、我が家の食卓に登場する頻度は最も高い。
そんな益子焼のふるさとをふと訪ねてみたくなった。東京から電車を乗り継いで1時間少々、真岡鉄道というローカル鉄道に揺られて案外あっさりと益子駅に到着である。

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富士吉田 2015 [日本の町散歩(中部)]

いうまでもなく、富士山は日本人の心のよりどころであるが、その表情は見る場所によって少しずつ異なるように思う。南側、静岡側から見るといつもたおやかな印象だが、北側、山梨側から見る富士は、より陰影に富み、怒っているような、苦悩しているような、どこか近づき難い、複雑な表情を感じさせる。そんな山梨側の中腹に抱かれた大きな町が、富士吉田である。
何百年の前から富士山信仰の聖地であり宿坊が連なった「上吉田」地区と、昭和の時代に織物産業で栄えた盛り場「下吉田」地区。二つの異なった個性持つ富士吉田であるが、近年大挙して富士に押し寄せる外国人集団も、この街を顧みることはあまりないのだろうか。
ようやく秋めいてきた9月終わりに訪ねてみた富士吉田の街は、ひと気もなく、斜陽の中で静かに時を刻み続けているように見えた。

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湯浅 2015 [日本の町散歩(近畿)]

わたしは、日本の良さを残す町並みを求めてあちこち小さな町に出掛けているが、この湯浅ほど居心地が良く、その雰囲気にどっぷり浸かってみたくなるところは初めてである。伝統的な町並みが良く残っているという点なら、他にも右に出る場所はたくさんあろう。しかしそんな無理やり保存されたような町並みは、現代の市民生活から浮いてしまってテーマパーク然とし、町としては生きている感じがしないことも多い。
湯浅もずいぶん寂しくなったと言うけれど、駅を降りて町を歩くと、自転車に乗った危なっかしいジイサンが通りを横切り、ランドセルをしょった子供達が路地を駈けていく。道を尋ねれば人々は穏やかで優しく、品がある。そして、どこからともなく漂ってくる、醬油のもろみの香り。。。いたずらに古い町並みを強調されているわけではなく、伝建地区には町の一部が指定されているだけ。そこでさえも、電柱の地中化すらされていない。町には江戸から昭和にかけての街の歴史の積み重ねが、ありのままの姿で残されている。それがなぜか、とても好ましいことのように思えてくる。
町そのもののが持つ香気がほんのり立ち昇る、こんな町の息吹の中にただ抱かれて、どこも行かず何もせず何日かぼーっとしてみるのもまた、ニッポンの良きリゾートかもしれないと思う。

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加太 2015 [日本の町散歩(近畿)]

加太(かだ)といっても、全国的には知る人は少ない。しかし、大阪から湾岸沿いに南下し、紀淡海峡に突き出した岬を越えて南紀側、黒潮の流れる太平洋側に出たところにある小さな漁港町であるというと、ピンとくる人はいるのではないか。そう、地形条件からしても、加太は関西でも指折りの、美味い魚が釣れ、そして食える町なのである。とくに、年間を通して獲れる天然真鯛の美味さは全国屈指と云われるほどなのだが、いかんせん関西人からしても、地味な場所という印象は拭えない。関東には、マグロ料理で賑わう三崎があるし、湘南から三浦にかけても生シラスを求めて行列のできる腰越や小坪といった場所がある。加太は大阪からも近い立地にあり、みさき公園あたりから加太にかけての半島部分なんか、逗子~葉山あたりの感じに似ていないかしら・・・・、加太が関東の三崎や葉山みたいになればいいなあ・・等と思いながら、改めてじっくり街を歩いてみることにした。

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マウイ島 2015 ~ (2) パイアとマカワオ [ハワイ紀行/オーストラリア紀行]

マウイで最もマウイらしい町がパイアだと思う。島の北岸を東西に走るハナ・ハイウェイとそこから分岐しアップカントリー方面へ登ってゆくボールドウィンアヴェニューとのT字路を中心に広がる町は決して大きくないが、並ぶお店のどれもがおしゃれで個性的なのに驚く。ラハイナのように観光客相手に楽しませようとするのではなく、まずは自分が良いと思ったものだけをお店に並べるということに徹している。しかしより大事だと思うのは、その店主たちの生き方、暮らし方が素敵だからこそ、そのどれもが洗練されて輝くのだろうな、ということ。こういうのは、マイペースとは言わず、「ダウン・トゥ・アース」というらしい。周りの時間と空間とに自らを調和させ、地に足を付けて無理なく無駄なく暮らす、そしてそんな生き方を楽しむ、そういうスピリットをビンビンに感じる町なのだ。そしてそれはマウイ全体のスピリットでもあると思う。
パイアからアップカントリーへ登って行ったところにあるマカワオにも、同じことが言える。パイアよりもさらに小さな町だが、内容は濃い。パイアがやや若者寄りのフレッシュ感に満ちているのに対し、マカワオはもう少し大人びていて、私のようなオジサンでも落ち着いてお店を見て歩けるのがなんとも嬉しい。

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パイアにて

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マウイ島 2015 (1) ラハイナ [ハワイ紀行/オーストラリア紀行]

前回(2009年)のハワイ行きでは足を延ばせなかった念願のマウイ島に、ようやく行って来た。都会的なオアフ、自然派のビッグアイランド、それに続けて言うなら、最も街場的なのがマウイではないかと思う。
アメリカ的、オアフ的な巨大ショッピングセンターはこの島には似合わない。かといって、ビッグアイランドのようにのんびり鄙びているかというと、そうではない。やはり大自然に囲まれているのに、人々はみなどことなく垢抜けており、町にはキラ星のように小さな素敵な店がたくさんある。
そんなマウイの中でも、最も大きな町がラハイナである。「ハワイの古都」等と紹介されることさえあるけれど、1810年のカメハメハ大王による統一後、ラハイナは確かに最初に首都となった地。1845年にホノルルへ遷都となってからも、ラハイナは太平洋における捕鯨の大中心地となって船乗りたちで殷賑を極めたという。そんな時代が、20世紀の初めまで続いた。その栄華の名残りを色濃く残しながら、どこかまた新しいのがラハイナの魅力であろう。
ラハイナの町は、そうしていまも多くの観光客を引きつけ、ショッピングやグルメを楽しむ人々の声が、今宵も波間にさんざめく。

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牛窓 2015 [日本の町散歩(中国・四国)]

「日本のエーゲ海」としてこの十数年来売りだしてきた瀬戸内の牛窓。穏やかな多島海、気候は温暖で、オリーブ栽培とマリンスポーツがさかんとくれば、エーゲ海になぞらえたくもなるのも分からなくもないが、その一方で、一歩路地に入ると古くからの町並みが残っている場所でもあるという。
古代から潮待ち、風待ちに良いとされてきた天然の良港が瀬戸内地域にはいくつかあるが、じつは牛窓もそんな悠久の歴史を持つ街のひとつ。「唐琴(からこと)の瀬戸」と呼ばれ参勤交代一行や朝鮮通信使の停泊地としても栄えたという。
ある夏の日の午前、そんな相反する魅力を持つという牛窓を私も歩いてみた。

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玉島 2015 [日本の町散歩(中国・四国)]

「香ばしい町並み」という表現がある。歴史が古く由緒正しい町並みを指す言葉なのだが、往時の町並みがよく保存整備されている場所に対して使われるのではなく、今は顧みられず干からびて、朽ちてゆくような町並みを指すもののようだ。玉島は、そんな表現が似合う街である。
高梁川の河口(三角州)に位置し、かつて備中松山藩が大規模に行った干拓、新田開発によって生まれた街は、備中松山城下(現在の備中高梁)と高梁川の水流によって結ばれ、同藩の藩港として廻船問屋が立ち並ぶ等して大いに栄えた。明治以降も瀬戸内の重要な港湾都市としての存在感を保ち続けたが、昭和以降は次第に衰退していったという。そして、昭和後期から平成以降のモータリーゼーションの進展は、玉島という街をもはや街でなくしてしまった。
「昭和レトロ」を売りにした街おこしもそこそこに、玉島は今も朽ち続けている。単なる「ノスタルジー」という言葉を通り越した何がしかの感慨を覚えるという意味で、非常に歩きごたえのある場所であった。

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備中高梁 2015 [日本の町散歩(中国・四国)]

備中高梁は、中国山地の山間にある由緒正しく美しい城下町である。古くは松山と呼ばれ、その中心となった備中松山城は現役の天守を持つ城としては最も高い位置にあり、いまも日本三大山城のひとつに数えられている。
それにしても、この城下町の清々しい空気はどうであろうか。緑に囲まれた盆地は、深山幽谷といっていいほど彫り深く、その中央を、高梁川の渓流が川岸を洗わんばかりに音をたてて流れている。夜明けごろ、町には決まって霧が立ち込め、しだいにそれが晴れてくるにつれて、朝露に濡れてしっとりした城下町の家並みが現れ出る。それは堂々として、決して小さな町ではないのに、同時に、主張しすぎない謙虚さを感じさせ、まことに好ましい。
この町の造成を担当したのは、文化人、芸術家としても名高いあの小堀遠州(小堀政一)であるというが、その美意識が、いまに至るまで受け継がれているのではないかとさえも、思ってしまう。

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常陸太田 2015/16 [日本の町散歩(関東)]

○○ヶ丘、といえば大抵、ニュータウンにつきものの地名だが、常陸の国の「鯨ヶ丘(くじらがおか)」は、悠久の歴史にその名を刻む、由緒正しき地名である。何といっても4世紀ごろ、日本武尊が東夷征伐のためにこの地を巡った際、丘陵の起伏があたかも鯨が洋上に浮遊している状に似ているとして「久自」と名付けたそうだが、それが転じてこの地域は「久慈」となり、丘はいつしか「鯨ヶ丘」と呼ばれるようになったという。
鯨の背中に似たこの丘に、戦国時代以降、佐竹氏によって太田城が築かれ、城下町も造られて丘の上はたいそう賑わったらしい。江戸時代には水戸藩領となり、町はますます栄えた。丘の周辺はこぼれんばかりの稲穂が実る豊かな穀倉地帯となり、その美しい風景は水戸八景の「太田落雁」として称えられた。その城下のはずれではまた、引退した徳川光圀(水戸黄門)が質素な隠居生活を送った。
そんな鯨ヶ丘も、いまは過疎化が進み、ずいぶん静かになったとか。夏も盛りを迎えようとする頃、舗道に濃い影を落としながら、私は丘をめぐってそんな歴史の残照を訪ね歩いた。

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久留里 2015 [日本の町散歩(関東)]

久留里は上総地方の内陸にある小さな町。旅行ガイドを見ても、はたまた「ちいさな街紀行」などという書物を見ても、ここが出てくることは少ないが、何といってもその名を「久留里線」という鉄道路線が木更津から通っている。鉄道がわざわざそこを目的として敷かれたということは、当時それだけの賑わいのあった街ということではないか。そう思った私は、梅雨の明けた夏の一日、久留里線に乗って町を訪ねてみた。
山城のふもとに開かれた街は、いまは鄙びて歩く人も少ないが、よく風が通って清々しい。黒田氏三万石の城下町ということで、山の上の城までは足を延ばせなかったが、山麓の武家屋敷街であった通りなども雰囲気がある。そして、久留里の最大の魅力は、街の至るところで、ほのかに甘い地下水がこんこんと湧き出ていることだ。町中になんと200か所以上の井戸があるそうで、確かに歩いていると数百メートルごとに湧水の水桶やタンクに行きあたると言っても過言ではない。味は場所によって少しずつ違い、飲み比べも楽しい。まさに久留里は「生きた水の里」である。

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会津若松 2015 [日本の町散歩(東北)]

会津若松は言わずと知れた会津地方、会津盆地の中心都市である。町の名前は本来「若松」であるが、他地方の人からは「会津」を冠して堂々「会津若松」と呼ばれることが多く、現在は自治体としての正式名称も「会津若松市」でありJRの駅名も「会津若松駅」である。
小さな地方を中心に旅してきた私にとっては、大都会のように思えるこの若松。名城「鶴ヶ城」を筆頭に歴史遺産も多く、会津塗等の漆器、焼き物、民芸品から郷土料理に至るまで豊かな伝統文化を持ち、今に伝える立派な観光都市でもある(たとえば玩具の「起き上がり小法師(こぼし)」は会津若松発祥である)。
近年はとくに、旧城下町内で伝統的建造物の保存等もさかんで、道筋には「町方蔵しっく通り」「野口英世青春通り」などと名前が付けられ、越後街道の入り口にあたる「七日町通り」もレトロ人気で活況を博していると聞く。
そんな若松の城と街を私が訪ねたのは、鶴ヶ城の桜がちょうど満開となった春のひと日であった。

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モレ・シュル・ロワン 2014 [ヨーロッパの町紀行]

イル・ド・フランスとはパリ周辺の首都圏地域を指す名称(直訳すると「フランスの島」)であるが、東京周辺のビルやマンションが密集する息詰まるような「首都圏」とはまるで違う。パリ周辺にも無論、団地群が密集するいわゆる「郊外地域(バンリュー)」はあるが、東京のそれのようなとりとめのないものではない。「イル・ド・フランス」とは、そんな郊外地域をさらに広い範囲で包括する地域名であり、セーヌ川、マルヌ川、オワーズ川の3本の美しい川のもたらす豊富な水資源と、肥沃な森と緑野に恵まれた、自然の風光ゆたかな、美しい土地なのである。そんな川のほとりや緑の谷の合い間に、絵のように美しい小さな町や村がいくつも点在する。パリへ旅行するなら、うち一日は列車に揺られ、そんなイル・ド・フランスの小さな町を訪ねてみたい・・・そう思って、私が選んだのが、今回訪れた「モレ・シュル・ロワン」である。

人口3500人という小さなモレの町は、その名のとおり、ロワン川のほとりにある。私の好きな画家、アルフレッド・シスレーが住み、愛し、描いた町。見るものの心に、ただ穏やかに浸みこんでゆくような、柔らかく平明な絵の数々に誘われて、私はパリ・リヨン駅から列車に乗り込んだ。

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パリ 2014 (6) 番外編~パリのメトロ、駅、電車 [ヨーロッパの町紀行]

パリでもやっぱり、鉄道が気になってしまう私。当然、地下鉄や電車は、街歩きの合間合間の交通手段のひとつなわけであるが、ただの手段としてだけでなく、そこにもパリらしさ、パリならではの匂いが嗅ぎとれるとなればより一層、私はそちらに寄り道をしてしまうのである。
とくにパリのメトロは独特の乗り物である。日本でいう「地下鉄」よりもはるかに身近であり、はるかに街に溶け込んでいる。何よりもパリのメトロ網は、東京の鉄道網よりもはるかに細かい。駅間距離も短く、小さな車体でちょこまかと走る。パリの通りを少し歩くだけで、すぐにあちらにもこちらにも、メトロへの降り口があるのに気付くだろう。その階段を少し降りればもうそこはメトロのプラットフォームである。各駅ごとに独自の意匠があり、美意識があるメトロの駅めぐりは、もうそれだけでひとつのパリ体験なのだ。
本稿では、パリ旅の番外編として、こうしたメトロの表情を皮切りに、パリ市内に6つある大きな鉄道ターミナル駅をめぐったり、また普段ガイドブックなどにあまり取り上げられることのない、郊外電車に乗ってみたりした際の写真を掲載する。

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パリ 2014 (5) メニルモンタン [ヨーロッパの町紀行]

メニルモンタン、それはロベール・ドアノーが愛した街であり、あのいとおしい映画「赤い風船」の舞台となった場所でもある。パリ東郊の高台一帯を指し、生粋のパリジャンは少なく、地方や他国からの流入者、比較的貧しい労働者階級の人々の住む街。名所と呼べる場所もおしゃれな店も少なく、観光客向けのガイドブックにはまず載ることのない地味なエリアだが、だからこそなのか、土地っ子のメニルモンタン愛は、人一倍強いのだという。たしかにシャンソンには「メニルモンタン」という名歌(シャルル・トレネ作)があるし、有名なエンターテイナー、モーリス・シュバリエにも「メニルモンタンのマーチ」という楽しい歌がある。

わたしは、今回のパリ旅行ではこの高台の下町、メニルモンタン通りからほど近い場所に宿をとった。たった一週間ではあったが、毎朝私を送り出し、毎晩私を迎え入れ、パリにおける私の「地元」となったこのメニルモンタンをご紹介しよう。

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パリ 2014 (4) モンパルナス / ビュット・オ・カイユ [ヨーロッパの町紀行]

モンパルナスもまた、左岸文化を代表する地域のひとつ。1910年代以降、観光地化され、閉塞感のあった右岸のモンマルトルから多くのアーティスト達がここに移り住んだ。その中心はピカソ、シャガールといった、純粋なフランス人、パリっ子ではない移民アーティスト達であり、既存の概念に縛られない自由な独創性を重んじた人々であった。
その後、パリは世界のアートシーンの先端を行くようになるが、その中心はまぎれもなくモンパルナス。世界中からアポリネール、ミロ、キスリング、藤田嗣治といった貧乏芸術家が集まり、いくつものコミューンをつくり、モンパルナスのカフェに集ってお互いを高め合ったという。こうした動きには、アメリカからやってきた比較的裕福な画商や出版界の名士などがこの地に魅せられ、拠点としたことも少なからず関係があろう。
毎日がお祭りのような当時のモンパルナスの様子は、やはりこの時期アメリカからやってきてモンパルナスに住んだ若きヘミングウェイの著作「移動祝祭日」に克明に記されている。

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パリ 2014 (3) サンジェルマン・デ・プレ / カルチェ・ラタン [ヨーロッパの町紀行]

パリの左岸、それはパリの中でも伝統的に独自の文化的香りを持つエリアである。世間的な既存の価値基準、経済軸、ヒエラルキーからはいい意味で離れた、自由で開放的で、自分自身の価値基準、そしてスタイルをしっかり持っている人が好む地域であるという。その中心は庶民であり学生であり、文化人であり知識人。アナクロニズムとはだいぶ違う。たとえ裕福でなくても、自分を確立して他者と交流し合い、街と人生を謳歌するのが左岸人種なのだ。
今回は、そんな左岸文化を代表するサンジェルマン・デ・プレ界隈と、左岸の精神的シンボルとも言えるソルボンヌ大学を中心としたカルチェ・ラタン周辺をまずは歩いてみた。

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パリ 2014 (2) バスティーユ / サンティエ / モンマルトル [ヨーロッパの町紀行]

パリ市はご存じのとおり市街を流れるセーヌ川によってざっと北側と南側に分けられ、北が右岸、南側が左岸である。そして、右岸と左岸では人々の気質が異なり、したがって街の雰囲気も少し異なっていると言われている。実際には右岸と左岸では右岸のほうが圧倒的に広く、ルーヴル美術館や凱旋門なども右岸側にあってメジャー感があるのに対し、左岸はパリ観光の目玉となる場所は少ない。(だからこそ左岸はいい、という話になるのだが、それは次の(3)で・・・)

本項(2)では、この広くバラエティ豊かな右岸の街の中で、バスティーユ、サンティエ、モンマルトルの3つのエリアをピックアップして歩いてみた。私にとっても今回は3度目のパリ。世界じゅうの人々を集める王道の観光地ではなく、なるべくパリの素顔に触れられる場所を探して歩いてみたつもりだが、その成果やいかに?
エッフェル塔もシャンゼリゼも出てこない右岸散歩だが、しばしお付き合い願いたい。

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パリ 2014 (1) シテ島 / マレ [ヨーロッパの町紀行]

写真をライフワークとする者にとって、パリは永遠の憧れの地のひとつである。ウジェーヌ・アジェ、ブラッサイ、アンリ・カルティエ・ブレッソン、ロベール・ドアノーなど、パリに住み、この街とこの街の人々を撮った歴史的な写真家は数多く、パリを撮ることは写真の基本であり、写真の最も重要なジャンルのひとつであるとさえ言われている。なぜそこまで言うのかと、いぶかる向きもあるだろう。しかし、パリを訪れたことのある人なら分かって頂けるはずである、だって、パリだもの、と。そう言うしかないことを・・

私のパリ入りは今回で3度目である。前2回は、パリが主目的の旅ではなかったこともあり、ろくすっぽ時間がとれなかった。今回は、念願かなっての撮影旅行。5日間、名だたる写真家たちを向こうに回し、私もがっつり写真を撮り歩いた。今回から6回に分けて、その記録をご覧いただきたい。

(1)シテ島 / マレ
(2)バスティーユ / サンティエ / モンマルトル
(3)サンジェルマン・デ・プレ / カルチェ・ラタン
(4)モンパルナス / ビュット・オ・カイユ
(5)メニルモンタン
(6)<番外編>パリの駅と電車

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足利 2015 [日本の町散歩(関東)]

足利もまた、機どころとして栄えた街。
桐生がそうであるように、建物や店構えの独特のセンスの良さは織物の町ならでは。しかしそれ以上に足利は、清流と緑と、史跡の街という印象も強く、ゆうゆうとした印象がある。
清流はもちろん、街のすぐ脇をとうとうと流れる渡良瀬川の清冽な流れ。そして緑は足利学校や鑁阿(ばんな)寺を埋めるように取り囲む木々の緑である。
足利の歴史は桐生よりずっと古く、平安時代にまで遡ることができる(これに対し、桐生は近世に一種の計画都市として造られた街という)。足利氏の発祥の地であることは言うまでもなく、中世においては最高学府である足利学校を擁する学園都市として、関東一円から有能な人材を集めた。
今以て足利の街が自由で伸びやかな雰囲気を保っているのは、こうした歴史的経緯によるものかもしれない。

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桐生 2015-16 (2)市街周縁 ~ノコギリ屋根をめぐる [日本の町散歩(関東)]

さて、桐生というと織物工場。桐生の織物工場の特徴といえば、何といっても「ノコギリ屋根」である。
工場そのものが木造であれ、レンガ造りや大谷石造りであれ、はたまた鉄筋コンクリート造りであれ、その屋根はどれもノコギリの刃のようにギザギザの形状をしている。その目的は手織物の諸作業に欠かせない均一な採光を得ることで、主に直射日光の入らない北側に多くの窓を設けるための、構造上の工夫であった。
明治期以降市内のあちこちにノコギリ屋根の工場が出来たそうだ。桐生の織物は基本的に多品種少量生産であり、それぞれの工場の規模は小さいが、それゆえにいまも200棟以上が残存しているという。飲食店やギャラリー等に再利用されているものが多いが、現役の織物工場として操業を続けているところもある。
明治以来の産業遺産ともいえるこうした小さなノコギリ屋根の工場は、外から見ているだけでも何やら愛らしい感じがして、あれこれ見て回りたくなる。街の周縁部に点在しているため、駅でレンタサイクルを借りてめぐるのが最上の方法であろう。

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桐生 2015-16 (1) [日本の町散歩(関東)]

桐生という街の気持ち良さは、いったいどこから来るものだろうか。
赤城山から吹き下りてくるさわやかな風によるものか、はたまた江戸期以来の織物産業の都としての誇りと洗練がもたらすものか。
江戸期からの伝統的な建物が多く残る本町1・2丁目(伝建地区)だけでなく、ビルが並ぶ大通りも、うらぶれた歓楽街跡さえも、桐生という街はなぜか歩いてすがすがしい気分させてくれるところである。ほどほどに大きく、近代化された街には、かつての栄華の名残でもある瀟洒な建物も多く、全体的にどことなく垢抜けた感じがして、田舎町とは呼ばせない雰囲気があるのだ。
全国的に織物産業が斜陽化して久しいが、ここ桐生では、現役で操業を続ける織物工場がまだいくつも点在するのも嬉しい。少し町はずれに行くと、昔ながらのノコギリ屋根の工場から「カタタン、カタタン、・・・」とどこか懐かしい機織りの音が聞こえてくる。
ひもかわやソースかつ丼といった名物も多く、まことに愉しい桐生の街歩きである。

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栃木 2014-15 [日本の町散歩(関東)]

栃木県の県庁所在地は宇都宮市であるが、別に栃木市というのもある。
1884年まで、栃木県庁はその名の通り、この栃木市に置かれていた。市内の人々に聞くと、「○○のせいで宇都宮に県庁を持って行かれたんだよ・・」(理由は人によって諸説ある)と、現在でも悔しがる人が多いのが面白い。町を歩けばその理由が分かる。
天皇家や朝廷の使者が日光参拝の際に通った「例幣使街道」が町を貫き、傍らを流れる巴波(うずま)川の河岸にはかつて各地からの物資が集散し大いに賑わった。そんな由緒正しき商都の民としての誇り高き思いが、いまもこの街にはふつふつと受け継がれている。
だからこそ、これほどまでに江戸から明治にかけての蔵や商家が多く街に残されているし、カメラ片手に町を歩けば、様々な人が街の歴史を語ってくれる。

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高遠 2010/2015 [日本の町散歩(中部)]

天竜川流域に沿って南北約60キロにわたり刻まれた伊那谷の、北のどんづまり。南信州の山々に抱かれた小さな城下町が、高遠(たかとお)である。戦国時代には武田対織田の激しい攻防戦の舞台ともなったその城跡の丘に、いまは春になると1500本の可憐な桜が咲き乱れる。これ見よがしなソメイヨシノがあまり好きではない向きにも、小ぶりでほのかに色づいた高遠の桜は、愛らしく映るのではないか。最近では全国区の知名度となった高遠の桜は、その名も「タカトオ・コヒガンザクラ」という固有種。今は盛りと多くの花見客で賑わう城跡の丘だけでなく、高遠の城下町や近隣の里山のそこここで、その晴れ姿を目にすることができる。

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日生 2015 [日本の町散歩(中国・四国)]

日本全国を見ても、駅の目の前がすくに海であるというロケーションは、意外に少ない。だが、JR赤穂線の列車に乗っていると、突如として視界が開け、きらめく瀬戸内の海に躍り出て停車する駅がある。それが「日生」と書いて「ひなせ」と読む、この駅である。瀬戸内でも最も東に位置する地域となり、観光地として著名なわけでは決してないが、鹿久居島をはじめ瀬戸内海に浮かぶ日生諸島へ渡ることができるほか、小豆島への大型フェリーの発着もある。最近では名産の牡蠣がたっぷり入った「カキオコ」が食せるお好み焼き屋が多く集まることでも知られ、春はアナゴにサワラ、夏はエビと、食通をも魅了する漁師町なのだ。瀬戸内の海のかがやきと、ジューシーな「カキオコ」の匂いに誘われて、私もふらりと列車を降りてみた。

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銚子(外川) 2014 [日本の町散歩(関東)]

銚子は関東地方、房総半島の最東端に位置し、利根川の河口にも面した言わずと知れた全国屈指の漁業の町である。だが、漁業の町として急速に発展を遂げるのは近代以降のことであり、もともとは飯沼観音を中心に、その門前町として発展してきたのだという。
その銚子の市街地から犬吠崎をかすめながらトコトコ走る銚子電鉄の電車に揺られること、20分。広く太平洋に面した高台にある「とかわ」というその終着駅が、今回の目的地である。海に向かって斜面を下りてゆくと、都市化、近代化した銚子の町とは異なる、何ともいい雰囲気の小さな漁師町がそこに広がっていた。

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遠州森 2014 [日本の町散歩(中部)]

天竜浜名湖鉄道は浜名湖の北岸に沿いながら、小さな列車が林や田園をめぐって走る、旅情あるローカル線。これに乗っていると途中「遠州森」という、なんとも魅力的な響きの小さな駅がある。町の名前は「森」なのだが、それだけでは町の名前としてはいささか寂しいのか、「遠州」を冠して呼ばれることも多い。太田川が山あいから出て来る小さな扇状地に、縄文の頃から昔から開けていた町。戦国時代は小さな城下町であり、近世以後は秋葉街道の宿場町となった。古着を始め物資が集まり栄えた時代もあったが、近代以降は東海道の発展からも外れ、いまは訪れる旅人も少ない静かな町である。歩いてみると、そんな悠久の時をじっと耐えてきたこの町の、時代の流れなどどこ吹く風といった矜持が感じられた。

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三崎 2014 [日本の町散歩(関東)]

三崎は、神奈川県三浦半島の南端に位置する漁業の町。とくに日本人の大好きなマグロの水揚げ基地として知られ、1950年代から60年代の黄金期には、全国のマグロ漁船の半数が三崎に水揚げしていたという。名実ともに遠洋漁業の中心地であり、当時は海の男たちが大挙して商店街や夜の街を闊歩したそうだ。
しかしその後、徐々に三崎の水揚げは落ち、現在の漁獲量は最盛期の4割程度にすぎない。街はすっかりさびれてしまった。商店は軒並みシャッターを下ろし、通りを歩いても出会うのは猫ばかり。だが、大海原に続く青い入り江と飛び交うカモメ、小高い丘に降り注ぐうららかな陽の光は、今も変わらない。
そして、あくびが出るくらいに静かなこの三崎の街を、ただのんびりと、気の向くままに歩く人が、いま少しずつ増えている。

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喜多方 2014 [日本の町散歩(東北)]

喜多方は、その名が示す通り会津盆地の北方にある町である。蔵が数多く残ることで知られ、その数は二千以上とも言われる。土、漆喰、赤煉瓦、石などその素材は様々で、造りや用途も多種多様であり、蔵めぐりをする観光客も多いが、若者や食いしん坊にとっては喜多方といえば何よりもラーメンである。街の北側にそびえる飯豊山はこの街に豊かな伏流水をもたらし、その恵みが美味しいそばと、薫り高い醬油を生んだ。名物ラーメンをその集大成であり、市民の生活に根付いた国民食ならぬ「市民食」でもあって、今流行りの安易なご当地グルメとは違うのである。夏も盛りを迎えようという一日、地元の人にまじりラーメンの食べ歩きをしながら、腹ごなしもかねて、この街の路地を巡った。

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